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9  黄金の波に揺られながら

「はー、ミスコン楽しかったね〜」

「あなたはひたすら会場を盛り下げてただけでしょ」

「あのまま続行してれば絶対私の優勝だったんだわ!」

「レンゲちゃんはアイドル的な魅力があるから大衆受けするんだよねえ意外と」

「意外じゃないわ! 順当な評価だわ!?」


 海でめいっぱい遊んだ後は、海水浴場にほど近い温泉旅館にチェックイン。さすがにヨウと狭衣のペアとは別の宿だったので、ひとまず解散。というかあの二人、夏休みに二人で海に来て宿まで取ってるって……もう付き合ってないとおかしいと思うのだが、本人たち曰く、「まだ」らしい。幸い旅程は僕らと同じ三泊四日。この旅行の間に付き合えるといいな。


 すっかり日も暮れた海辺の旅館で、僕ら六人プラス一柱は夕食の時間。食堂は海が見える方角がガラス張りになっていて、先程まで綺麗な夕陽の絶景を拝めたらしいのだが、僕らが夕食のためにやってきたときには既に真っ暗闇になっていた。明日は夕陽が見れるといいな。


 そんなこんなで豪華で新鮮な海鮮料理に舌鼓を打った後、各自温泉へ。


「……ふう」


 そして入浴後の現在、男の僕は一人、大浴場の出口付近でコーヒー牛乳を飲みながら扇風機の風に吹かれている……のだが、その間じゅう、同じく風呂上りのさざれがこちらを睨むような、気にかけるような、なんとも形容しがたい不思議な態度を取ってくる。魔術の練習に付き合ってもらってから、ずっとこんな感じである。


「……ちら」

「…………」

「……ちらちら」

「さざれ、どうしたの?」

「話しかけないでくださいまし」


 生理かな? 


 こういうときは時間を置くのが肝要だ。エルにも指摘されたことだが、僕は人間関係の問題の大部分は時間が何とかしてくれるものだと思っている。明日になればさざれもきっと元通りだろう。


 ということで、僕はコーヒー牛乳の瓶を回収カゴに入れる。あまりここに居座っても悪いし、そろそろ部屋に戻ろうか――


「あ、そうそうノワキ。私とシルエットが被るから、髪下ろすのやめてくれない?」

「は? どうしてわたしがあなたの都合に合わせないといけないのよ」


 と思ったところで、女湯の暖簾を分けて、エルとノワキが出てきた。


「エーデルワイス、あなたが髪を結んだらどうなの」

「あ、それいいかも。イメチェンしたら優くん、かわいいって言ってくれるかな~。まあ、高校生でツインテールとかはさすがにしないけど笑」

「ちっ……」


 ありきたりな感想になってしまうが――

 風呂上がりで浴衣姿の女子というのは、なんとも罪深い雰囲気を纏っている。特にエルなんてもうすごい。ゆったりとした浴衣程度では、到底彼女の豊満な胸部を封じておくことなどできはしない。帯に締め付けられ、今にもこぼれてしまいそうな……実際には衿に包まれているのだからこぼれる余地などないのだが、気持ち的にこぼれてしまいそうな肉付きのよさが、周囲の男性客の視線を釘付けにして離さない。湯上り後で体が火照っているらしく、普段は白い首元もうっすらと赤らんでいる。中学時代ならいざ知らず、今のエルはその手の視線にも多少自覚的だろう。彼女は少しだけ恥ずかしそうに頬を染めていた。とってもかわいい。


 一方でノワキはというと、やはり和服がよく似合う。本人はことあるごとに貧乳をネタにするが、僕は彼女のスタイルを心から魅力的だと感じているし、なんならあれ以上膨らまないでほしいなとまで思っている。

 貧乳派閥にもいくつかあり、世の中には膨らみかけがいいだなどと通ぶったことを言う馬鹿者がいたりもするが、僕は断然、無乳派だ。


 胸とはなにか。人間の女性に本来的に備わり、男性を惹きつけ、子に栄養と安心を与える魔性の脂肪である。

 そんな「女」のシンボルとも言える部位が、絶望的なまでに欠けているということの惨めさ。

 ひとたびそこに男の視線が向けられたが最後、ただそこにあるはずのものが「無い」というだけで、本人の意思とは無関係に、絶えず女としての尊厳を抉られ続けるという恥辱の地獄が待っているのだ。

 女として生まれたにもかかわらず、女の役割を全うすることができないという悲劇的な宿命。そこにこそ、男はこれ以上ないほどの「女」を感じるという逆説の構造である。


 つまり――僕のかわいい彼女であるところのノワキの浴衣姿がとてもエロい。


「その、そこまであからさまに視線を向けられると……さすがに、照れるんだけれど……?」


 こちらにやってきたノワキは、どこか満更でもなさそうな調子で、胸の前で腕を組んでいる。


「よく胸の話だけでそこまで高説垂れられるよね~」


 ぱたぱたと、どこからか持ってきたらしい団扇を仰ぎながらのエル。風情である。


「無駄なことにばっかり全力投球で、肝心の『この夏で変わる』云々については遅々たる歩みな優くんに一つ、私が教えを授けてあげるよ!」


 別にいいんだけど、僕たちはもう少し「いい湯だったね」みたいな、それ自体にあまり意味はないけどとりあえず言い合っておくべき言葉を大切にすべきだと思う。深刻な毛繕い(グルーミング)不足。

 

「教え?」


「――なにごとも、主体性を持って生きよう!」


 かなりふんわり目の出来である。


「ぷふっ、なによその自己啓発本の一行目みたいな浅い格言は。そんなんで上から目線とか恥ずかしくないのかしら」


 当然のようにノワキから不満の声が上がる。


 お風呂上りだし、もうちょっとのんびりしたいんだけどな。


「分かってないねえ、ノワキは。頭の良さって胸に比例するんだっけ?」

「もしそうなら東大の女子は皆バカみたいな乳ぶら下げてないといけなくなるでしょ。煽ってる暇があるなら、説得してみせたらどうかしら」

「えっと、例えばね……あ、あそこを見てみてよ!」


 と、エルが指差した先には数人の男女がいた。


「え、待って。もうなんかとにかく更科優の顔が良すぎて死ぬ!」「お前、更科優は初めてか? 力抜けよ」「お前らがそうやって更科優を持ち上げるたびにルッキズムがどんどん拡大していって、その割を食うのは僕たち容姿に優れないオタクなんですよね。いい加減目を覚まさないと手遅れになるぞって僕はずっと言ってる」


「え、なにあいつら……気持ち悪……」


 ノワキは弱者に対してとても辛辣。


「あれはね、『この世のあらゆるものをエンタメとして消費してしまうし、ああやって自分の感情を爆発させるところまで含めてエンタメだと思ってるからもはや手が付けられない悪魔の女オタク』、『自分で考える脳を失った結果ミームに乗っかって定型文を使うことでしかコミュニケーションを取ることの出来なくなった自我の希薄な化物』、『とりあえず大勢と逆のことを言っておくのが賢いムーブだと思ってるけど、それ自体がそもそも自分で物事を考えることを放棄してる状態だってことにすら気づけない、ブレインデッドな俯瞰厄介キモオタク』だよ」


 三本指を立てたエルが、したり顔で述べる。


「主体性を失うと、人間、ああなります」

「あれはちょっと極端な例すぎない?」

「はい! そして次が最も重要です! 自分は今の三つのどれにも当てはまらないな~、こういうやつらキモいよな~って第三者目線で見てしまったそこの優くん!」

「あ、はい」

「あなたが一番の重症です! 自分を客観視できないあんぽんたんさん! いつまでも他人事だと思ってんなよな!」


 男言葉を使うエルがかわいい。


「あの三人は置いておいて、容姿の優れてる人っていうのはね、自分からは何も行動を起こさずとも周囲が放っておかないから、どうしても思考が受動的になりやすいんだよ。優くんはその極致だね。……まあ、私たちの周辺人物にはあんまり当てはまらないけど……」


 例外中の例外が集まってるから仕方ない。


「優くんも、この17年間を振り返ってみて? 自分から何かアクションを起こしたこと、どれくらいある?」


 せっかくエルが親身になってくれているので、僕は自分の胸に手を当てて聞いてみる。


「なんとなーく日常生活を送ってるだけで、なんとなーく周囲に美少女が集まってきて、なんとなーくイベントが発生する日々じゃない?」


 ……たしかに、そうかもしれない。


 直近の事例だけでもそうだ。《片恋目》のときも、カネコリサマのときも、きっかけは「エルのため」だった。

 僕が自分の人生というものを真面目に考えて、能動的に行動したことは……実はあまりない、のかもしれない。


「ということで、今の優くんに足りないものは主体性! 周囲に流されるだけじゃなく、確固たる自立した考えを持って生きよう! 現代社会では、主体性を持って物事に取り組み、問題を総合的に捉えることのできる思考力と、それを即座に実践する実行力の持主が求められています! どのような局面でも遺憾なくリーダーシップを発揮して、率先して仕事をこなせるスキルを身につけましょう!」


 胡散臭い自己啓発セミナーみたいな語りはともかくとして。


 エルのアドバイスはかなり的確に、今の僕に必要なことを指摘してくれていたと思う。だからノワキも後半は黙って聞いていたし、僕はとてもいつものように冗談で流すようなことはできそうになかった。


 僕はきっと、とても素晴らしい彼女を持ったのだなとしみじみ思うのだった。……こんな風に一連の話の総括が、問題点から目を逸らしたものでなくなるのはいつになることやらだが。



   ☽



 僕らは三人部屋を二部屋予約していた。部屋割りは順当に恋人三人とそれ以外。だったのだが、レンが現地で合流してきたので、彼女はツツジたちの部屋にぶち込まれることになった。三人部屋で四人が寝ることになるが、レンはちっこいから空間を圧迫するということはないだろう。無問題である。


 このまま部屋に戻ってもいいのだが、今戻ったとしてもどうせエルとノワキのくだらない諍いに巻き込まれるだけだ。少し時間をあけることにしよう。


 ここから砂浜までは徒歩2分。地震が起きたら真っ先に避難しなければならない場所に、僕らの旅館はあった。


 僕は浴衣姿のまま旅館を出て、夜の浜辺に腰を下ろす。


 ひんやりと冷たい砂の絨毯の感触を味わいながら、死の恐怖そのものみたいな夜風を浴びる。


 目の前には海が広がっている。真っ暗な夜の海というのはどうしてこうも人を不安がらせるのだろうか。


 眼前の大海はちっぽけな僕の存在なんかどうでもよさげに、ざざぁーん、ざざぁーんと潮騒を響かせる。


 大きな、あまりに大きな世界だ。僕の視界は暗闇のなかをどこまでも突き進んで、潮風の向こうにあるかもしれない別世界をわれ知らず求めさせる。


 雄大な自然を前にして、自分の悩みなんかどうでもよくなるというようなことを、人はよく言うものだ。この場合の悩みというのは、僕においてはもっぱら顔についての事柄である。


 考えてもみてほしい。日頃僕が人間の世界であれほど悩まされ、それによって人生そのものが振り回され続けているこの顔の良さ、僕がイケメンであることなど、海にとってはどうでもよいことなのだ。


 それはなんとも悲しく、なんとも喜ばしいことなのか。


 ひとたびこの墨汁みたいに真っ黒な波にさらわれてしまったが最後、誰もが他人の顔のことなんか気にしなくなる。海の中では誰もが平等だ。

 

 海の中で、僕はこの<僕>ではなく、ただの<人>となるのだ。


 長らく僕は、そんなただの<人>である状態を目指していたのだと自分で信じていた。なんでも普通がよく、僕の顔のことで周囲に波風を立てることなく、平凡な日常が続いていくという理想。


 しかしそんな僕の理想は、僕のことを僕よりもよく知っているかもしれないエルに、まんまと否定されてしまった。そんな理想は自分の本当の欲望から目を背けるための建前でしかなく、本当の僕はとても臆病で、我儘で、どうしようもないくらいに自分勝手な子供なんだと言われてしまった。


 ――どちらが正しいのだろうか? あるいは、どちらも間違っているのだろうか? どちらも正しいのだろうか? 


 自分のことだというのに、まるで他人事のように、なんにも僕には、分からない。


 僕がこんな悩みを抱くとき、それがいつもどこかふわっとしていて全体像を掴めないのは、おそらくこれが程度の問題だからなのだ。すべてがグラデーションの話でしかないから、イマイチ問題の本質を上手く掬いだすことができないでいる。


 まあ、人間の悩みなんてそもそも全部グラデーションの問題でしかないと言われれば、それまでなのだが。


「優くん、夜なのに黄昏れてるの?」


 闇夜の潮騒に混じって、あたたかくてやわらかな声が耳朶をかすめる。


「……エル」


 首を斜め上に曲げれば、僕と同じく浴衣姿のエルが立っていた。


 そのまま彼女は、僕の隣に体育座り。


「優くんはとっても格好いいんだから、あんまり絵になるようなことしちゃだめだよ? うっかり惚れちゃうから」

「そんな。まだ僕のこと好きじゃなかったのか……」

「女の子は同じ男の子に、何回でも恋をすることができるんだよ。また新しく、あなたを好きになっちゃった」

「そういうものなんだ」

「そういうものなんだよ」


 エルは見ているこっちまで思わず笑みがこぼれてしまいそうな百点満点の笑顔を浮かべる。ここ最近の彼女は、本当に幸せそうに笑うようになった。レンの授けた両の目が、彼女に笑顔を教えた影響はかなり大きいだろう。


 僕はできることなら、これからも彼女のこんな素敵な笑顔をいちばん近くで見ていたいなと思った。


「そういえば、ノワキは? 一人で部屋にいるのか?」

「ハイ優くん、選択肢を間違えたー。ここでノワキの名前を出すと私が嫉妬の炎に燃える復讐鬼と化して、全員死亡するジェノサイド√に入っちゃいます」

「マジかよ。……わりとありえそうな未来だから笑えないよ」

「優くんのなかで私ってそんなイメージなの……?」


 正確には、最近そういうイメージが付きつつある。


「ノワキは来ないよ。殺したから」

「死んじゃった……」

「昼間の水泳勝負で完膚なきまでに叩きのめしてやったからね」


 なんか賭けみたいなことしてたんだろうなってのは、うっすらと伝わってきていた。

 

「だから今は、私の時間でーす」


 ほろよいかな? ってくらい笑顔でエルは、僕に対して膝を向ける。


「んふふ、優くん優くん、こっち向いてっ」

「ん?」


 と、僕がエルの言う通り体を向き合わせると――


「はい、ばさあっ。特になにもしてないけどご褒美だよ、下に水着を着てきました~」


 膝立ちになったエルが、浴衣の前をはだけてみせる。


 大胆にご開帳された布の奥には、エルの生まれたままの姿が――なんて露出魔みたいなことはなく。


 僕の眼前に広がっていたのは、月夜に照らされたほの白い肌と、水色のビキニだった。


 昼間のを乾かしてもう一度着たのだろう。


「えへ……どう? びっくりした?」


 まさかこんなサプライズを用意してくれていたなんて。


 感極まった僕は、周囲に人がいるかどうかの確認もせずに――

 

「うおおおおおおおっ!」


 目の前にぶら下がったバナナに飛びつく猿のごとく、彼女のお腹に顔を突っ込む。


「あれっ、おっぱいじゃなくてお腹なの……?」

「迷ったけどまずはこっちだ」

「な、なんかそれ……お腹すりすりされるの、恥ずかしいな……」


 人は予想外の出来事に弱いのである。


「あんまりお腹触ってほしくないのにぃ……」

「ヤバい……女の子の匂いがぷんぷんして、脳が焼かれる……!」

「すごい、彼氏だとしてもギリギリ許されないレベルの気持ち悪さ」


 エルが何か言っているが、僕は気にせず目の前のストマックに頬ずりを続ける。


「あっ……おへその穴、鼻でぐりぐりしないでぇ……」

「ぐへへへへっ」


 彼女は片腕を僕の体に沿うように進ませ、その先にあるそれをつんと突いていくる。


「もうっ……彼女のお腹に顔を埋めただけで、こんなに硬くしちゃって。優くんは女の子に耐性のない童貞さんなの?」

「男は、心はいつまでも童貞なんだよ」

「そんな自称童貞の変態彼氏を、たいほ~」


 エルは僕の頭を上半身ごと、浴衣で包み込んでしまう。


 途端、僕の世界には暗闇が立ち込める。


「わーっ!? 暗くてよく見えないぞ……エル、エルどこだ~!」

「どこでしょ~」


 エルの浴衣の中で、胎児のようにもぞもぞと動いていると……


 ぷにっ。


「ひゃっ」

「お」


 僕の鼻先に、なにかやわらかいものが当たる。


「この感触はなんだ!」

「可愛い彼女のとってもえっちなところだよ」

「おっぱいだ!」

 

 むにゅんっ。


「いぇ~い! おっぱい、見ーつけたっ」

「見つかっちゃっ……た……!」

「すごっ……空を見上げればおっぱいプラネタリウム……! 浴衣のなかで蒸れたんだね、下乳に煌めく玉の汗! うーんこれは一等星!」

「あはは、ちょっとは脳味噌使って喋ったら?」

「うるさいっ!」

「きゃあっ♡」

 

 僕は頭上の下乳に飛びつくようにして、エルを砂浜に押し倒す。


「あ~最低ぇ、髪の毛に砂ついちゃった……また温泉入らなきゃだよ~……」

「どうせこの後汚れるんだから一緒だ」

「そういう問題じゃないんだよっ」


 そんなことよりも僕は、エルの胸の谷間にどっぷりと頭を乗っけて夢見心地。水枕みたいだ。


「ああ……エルの心臓の音が聞こえる……」

「生きてるからね」

「昼間に感じたノワキの安心するような音ともまた違う……男の欲望を煽るようなけしからん心音だ……!」

「彼女の心音聴き比べする二股彼氏なんて優くんくらいだよ? どうしようもないクズ、どうしようもなく愛おしい人……」

「どくどく、どくどくって……ち●ぽから精液が昇ってくるときの音がする……!」

「優くんはもう少し比喩表現を上手になろうねえ」


 平気そうな態度を取っているが、こうしている間にも彼女の心臓の鼓動はどんどん激しさを増していく。


 恥ずかしがっているのがバレバレだった。


 そのことにエルも勘づいたようで、


「心音はもうおしまいっ」

「えー」

「えーじゃありません」


 僕はエルの胸から、強制的に引き離される。


「うわ、なんだこの喪失感……寂しくて死にそう……」

「はいはい、代わりに膝枕してあげるよ?」

「やったー!」


 僕はその場でごろんと仰向きになって、愛しい彼女のふとももに頭を乗せる。


 すると……


「……あ」

「駄々っ子優くん、寝心地はどうですか?」

「……星空だ」


 仰向きになった僕の視界には、満天の星空が広がっていた。


 辺りに民家は少なくて、人工の明かりが全く邪魔をしない上、今夜はとても晴れていたから。


 暗くて怖い海なんかよりも、よっぽど麗しく、どこまでも輝いている満目の景色が、僕とエルを、人々を歓待するかのように煌いていた。


 外に出たら真っ先に気づくべき素晴らしい光景。だというのに僕は、今までこれが視界にすら入っていなかったのだ。


 こんな風に、落ち着いた気持ちで空を見上げる心の余裕なんて……さっきまでの僕には持てなかっただろうから。だから見えなかったのだ、この星々の赫奕が。


「そんなことより優くん、彼女が膝枕の感想求めてるんだよ?」

「エル、ちょっとおっぱい邪魔。星が見たいからどけて」

「ぎゅむううううううううっ~~~」

「うわあああああっ」


 機嫌を損ねてしまったらしく、膝に僕の頭が置かれていることなどお構いなしに、上半身を倒してきた。


 空からエルの綺麗なお腹が降ってきて、僕の顔を押しつぶしてしまう。


 こ、このままだと彼女のお腹の圧で窒息死してしまう……!


「えへへ、これがほんとの腹上死♡」

「もがもがっ!?」


 冗談抜きで苦しい! 死ぬ!


「ぷはっ」

「……ちょっとは反省した?」


 ようやく幸せな死の恐怖から解放されると、エルがぷくーっとほっぺを膨らませているのが見えた。かわいい。


「したした、反省しすぎてもうエルのお腹の感触しか覚えてない」

「あーあ……なんでこんなクズを好きになっちゃったんだろなー」


 僕にも涙を流すことくらいあるんだよ。


「付き合う前はこんな人だと思わなかったんだけどなー?」

「同棲を始めて秒で破局しそうになってるカップルみたいなこと言わないでくれ!」

「こういうのも、一種の結婚詐欺だよね? 私の心を弄んだ罪」

「エルは結婚したら鬼女板の住人になりそうで怖い……」


 僕が罪人であるという自覚はあるので、それで許してほしい。


「ねえ、優くんは、私と付き合う前のこと覚えてる?」

「付き合う前と別人になったからといって、記憶までなくなるわけじゃないんだよ」

「そうじゃなくて、真剣な話」


 うん。


 エルがとても真面目な表情をしていたのは分かっていた。


 ただ、もう少しだけ甘えていたかったから、あえて誤魔化してみただけだ。


「……もちろん覚えてるよ。たくさん情けない姿を見せて、たくさん無責任なことを言った」


「でも私には、それがとっても嬉しかったんだよ」


 ――『それなら、エル、もっと会おう。うんと言葉を交わして、それで、僕がエルに自信をあげるよ』


 ――『これからも僕と仲良くしてくれるか? なにより僕が、エルとたくさん話したいからさ。それなら文句ないだろ? それで、僕で自信をつけたらいい。関係が長く続いて、互いを内面の深いところまで知っていっても、自分は拒絶されない、自分は認めてもらえるんだっていう自信を、僕があげるよ。僕がエルを好きだっていうのを、疑えなくしてやるよ。君の嫌いな君をみんな殺してあげる』


 そんなことができる人間ではないと、理解できたはずなのに。それなのに目先の感情と、初めて知る恋心を優先して、随分なことを言ったものだ。


「僕はきっとなにも分かってなかったんだ。本当の悲しみも、苦しみも、なんにも知らないくせに、理解者のふりをして好き放題喋っていた。僕は今も昔も無責任なんだ。心の底では、なにもかもをどうでもいいと思ってるんだ。自分の気持ちも、他人の気持ちもどうでもいい。だから僕の口から出る言葉はすべてが軽いんだ。僕がとても空っぽな人間だから」


 弱音ならいくらでも吐けるのだから、笑ってしまう。自分の欠点を上げたらキリがない。だけど僕はそれすらも本音かどうかの区別がつかない。僕はいつまでもダメダメだ。


「でも、私はその言葉に救われたんだよ」


 上から僕の顔を覗き込むようにして、エルは微笑んでくれる。


「目が見えなくて、自分に自信が持てなかった私を、優くんが肯定してくれたんだよ。優くんのあの言葉のおかげで、私は『源エーデルワイス』を好きになることができたんだよ?」


「偽りの救済に意味はあるのかな。それがまったくの偽物だったと気づいた時、君が傷つくのが僕はいちばん怖いんだ」


「心配しなくても、もうとっくに気づいてるよ。優くんの言葉はほとんどどれもが偽物で、だけど少しだけ本物なんだって」


「その本物って、なんなんだろう。本物とか偽物とか、よく言うけど僕には分からないよ」


 あるのは現実だ。ただ現実と事実だけがあるのだ。


 あるいは人によって、その真贋が異なるのかもしれない。


 もしそうならもっと問題だ。僕はその真贋の基準まで、目の前の人と擦り合わせないといけないことになる。じゃないと会話が成り立たないから。


 そして僕にはそんな大変なことができるとは、とても思えないのだ。

 

 だからとっても問題だ。


「ときどき、僕には大事なものが何もないんじゃないかと思うことがあるんだ。こうして今エルと喋っているときも、どこまで本心か自分でも分からないんだ。……なあ、エル」


 今からとても酷いことを言うから、せめて我慢せずに泣いてくれ。


「僕は……本当にエルのことが好きなのかな?」


「――――」


「僕はノワキのことが、母さんのことが、心の底から大事なのかな? 僕はなにを手放したくなくて、僕にとってなにが大切で、かけがえないのかな? 僕は少しでも変わったのかな? 僕は今でも自分の思い通りになる世界を望んでいるんじゃないのかな? 僕は――」


「優くん」


 エルの呼びかけで、僕は言葉を止めてしまう。


 泣いてくれと願った彼女は、傷ついたはずの彼女は……どうして笑っているのだろう。


「私ね、嬉しいんだ。優くんがそうやって、自分自身のことに目を向けてくれるようになって」


 それが虚勢でないのが分かってしまう。それが優しい嘘でないのが伝わってくる。

 

 彼女は心の底から僕のことを想ってくれている。それが痛いほど理解できる。きっとそれだけは理解できた。


「自分に絶対の自信がある人なんて、いないんだよ。私だって、ノワキだって、きっとツツジだって、本当の自分が分からないまま、それでも今日を生きてるの」


 僕の鼻先をちょんとつまみながら、エルは続ける。


「昔の優くんは違ったよね。ちょっと前まで、あなたは自分の世界に絶対の自信を持ってた。単純で、明快で、すべてが正常な世界。それはたしかに周囲から見たら健全で、悩みが少なくてなんでも即断できるのは、美点にすら思えるかもしれないけど……でも、私はそんな優くんを、少しだけ歪に感じちゃってた。ごめんね?」


 僕の両目を塞いで、彼女は愛嬌の溢れるごめんねを言う。


 目隠しをされると、僕は当然なにも見えなくなってしまう。


 夜にも等しい真っ暗闇の世界で、僕は彼女のなにかを感じることができるだろうか?


「だから優くんは、きっと順調なんだよ。ちょっとだけ歩くのが遅くて、ちょっとだけ方向音痴だけど、ちゃんとゴールに近づいてるよ」


「そうなのかな」


「そうだよ。だからそのご褒美に、彼女のFカップのなかで我儘を言ったっていいんだよ」

「わーい! 落ちこぼれイケメンの人生再生録! ~僕の彼女はFランクだけど最強です~」

「あはは、何言ってんだろ私の彼氏」


 僕は両手を伸ばして、頭上のおっぱいをわし掴み。手のひらに収まる幸福、僕はそういうのを求めていきたい。


「突きたてのお餅みたいにやわらかい……」

「おーよちよち、今度は上手に喩えられたねえ、君は生きてるだけで偉いんだねえ」

「やいのやいのー」


「そういえばさ」


「緩急」


「ひと昔前のエロゲには、よくあったよね。がんばらなくていいんだよ、弱くたっていいんだよ、みたいなメッセージ性。あなたがあなたであるだけで素晴らしくて、そんな主人公をヒロインは求めていますっていうの。逆もまた然りだったけど」


「あれはとても優しい言葉だよ。どんなに非現実的であったとしても肯定したくなるほどに、希望に満ち溢れてる」


「でも最近は……って言っても、ここ十年くらいずっとだけど、そんな救済に対するメタフィクションが流行ってるよね。誰かが救われなければならなかった時代が終わって、悲劇的な現実は平和に読み替えられて、誰もが変わり映えのしない日常を受け容れる時代がやってきた。あの頃子供だった人たちは現実を知って、すっかり落ち着いた大人になってしまった」


 時代を築いた一大潮流が、一つの節目を迎えたのだ。


「そういう議論、よく聞くけどさ。みんな、時代に引っ張られて、当事者性を手放してるように感じるんだよ。僕は今、ここで子供なんだけど」


「うんうん。はい優くん、おっぱいだよ~」


 僕を赤子かなにかと勘違いしているな?

 

「――ねえ、優くんは、どっちの世界が好き?」


「どっちって?」


「身に余る運命を抱えていて、たくさんの困難が待ち受けているけど、その先でありのままでいることが価値となって、勇気とか愛とかさえあれば、弱くたっていい世界。

 もしくは、どこまでも等身大な現実のなかで、相応の苦労や不幸があって、その先で身の丈に合うちっぽけな、けれどかけがえのない幸福を見つけていく世界」


「僕が第三者だったら断然、前者の世界だな。見ていてとっても面白そうだ」

「後者はもう、そのまま現実だしね。でもだからこそ、選ぶことに意味があるんだけど」


 僕はきっと、どちらでも構わないのだ。ただ自分が信じられるものがあったり、「たしかな充実感」みたいなふんわりとしたものがありさえすれば、それはどこだっていいのだと思う。


「僕は……とりあえず、頑張りたいよ。頑張らなくていいとは、思えない」


「ほんと? 不安で辛いなら、私はありのままの優くんを肯定してあげるよ?」


「それはとても魅力的だけど……僕はさ、エル。このバカらしい顔に依拠しない、自分で努力して掴み取った魅力……みたいなものが欲しいんだと思う。だから漠然と、頑張らなくちゃいけないんだと思ってる。だけど、何を頑張ればいいのかが分からない」


「私は優くんの顔が見えてなかったときから、優くんが好きだったよ?」

「正味、エルはチョロインの部類だと思ってるから除外で」

「ひどい!」

「むしろ攻略してからが面倒なタイプだ」

「それは……ちょっとだけ自覚あるかもだけど?」


 可愛らしく首を傾げたって、現実は変わらないのだ。


「でも、なんとなく分かったよ。つまり優くんは、私じゃない目の見えない女の子を惚れさせたいんだ? あの悩みなんてなかった時とは違う、今の優くんが」


「目が見える見えないは本質的じゃないけど、まあそういうことだよ。顔以外の部分で……エルやノワキに、好きになってほしいんだと思う」

「私もあいつも、優くんの顔以外も大好きなんだけど……それは自分で納得しないと意味ないことだもんね。まったく、一般人は人に好かれるだけでも大変な苦労をしてるのに、優くんは贅沢さんだ?」


 だから僕は最初から罪人なのだろう。僕はそういう人間で、もうそれは仕方のないことなのだ。


「でも……そっか。優くん。優くんがそれを望むなら、そのためには、絶対に目の前の現実から目を逸らしちゃだめだよ。それさえ気を付けてれば、頑張るべき出来事なんて向こうからやってくるんじゃないかな?」


 それはなんとも拍子抜けするような、呆気ない返しだった。


「そんなんでいいの?」

「だって優くん、頑張る頑張るってそればっかりだけど、四六時中頑張ってる人なんて社畜くらいだと思わない? 普通は頑張るべき機会みたいなのがあって、そのときに頑張ればいいんだよ」


 本当に……それでいいのかな。


 エルは僕のことを考えて、一生懸命に言葉を紡いでくれるけど、僕はどうしても最後のところで自信が持てないでいる。


「もうそこのところは、自分でじっくり考えるしかないよね。優くんがんばえ~、君にはとびきりかわいい彼女が二人もついてるぞ~」


 それならいくらでも頑張れる気がする! 


「…………」


 ……なるほど。こんな感じで結局なんにもよくならず、落ちるところまで落ちたのが真鉄なんだろうな。今、あいつの苦しみの一端を垣間見た気がする。先達の遺産は偉大である。


「私はこれからもこうやって、優くんにいろんな問いかけをしていくよ。これはその二回目!」

「一回目はラブホのあれか?」

「うん。そのたびに優くんはどちらかを選んで、その分だけ成長していくの。はやく一人で歩けるようになろうね!」

「エル、それじゃまるで育児だ」

「だって、優くんが子供なんだからしょうがないよ」

「やっぱりそう思ってるんだな……」


 ならばせめて、僕は彼女に対する感謝を忘れてはならないのだろうと思った。


「まあ? 子供な優くんの大人な部分は、そろそろ我慢の限界みたいだけど?」


 バレバレだった。


「水着姿の彼女とこんなにベタベタつっくいてて大人しかったら、そいつはきっと下の毛も生えてない子供だよ」

「大人しいのに子供なんだ?」

「有事の際には逆転現象が起こるんだよ。今みたいな場合、子供みたいに欲望のまま突き進むのが大人なんだ」

「優くん、すごく真面目な顔。えっちなことしか考えてないときの顔だ~!」

「……とりゃっ」

「きゃっ♡」


 膝枕の状態から体を半回転させて、目にもとまらぬ速さでエルを押し倒す!


 下卑た欲望だけが可能にする、人外の動き――


「これが《覚惺》……」

「あんまりバカなこと言ってると夜が明けるよ?」

「ならぱぱっと済ませようか」

「……ダメ。……丁寧に、大事に愛してください……」

「――――」


 辛抱たまらなくなった僕が、エルと深く口づけを交わしていくのを、夏の夜の星空だけが見ていた。

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