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46 私だけとっても出遅れている気がするんだわっ!

 気が付けば、やかましい三人娘も消えて、この氷の屋敷のなかには僕とノワキの二人だけになっていた。

 彼女に着させられた舞衣を脱いで、僕は目の前の美しい銀髪の少女に話しかける。


「ようやく落ち着いて話ができそうだな、ノワキ」

「――っ」


 ふっと、僕らの周囲に冷たい風が舞い上がった。


 雹を含んだその風は、どこか僕を主人から突き放すようにごうごうと吹き荒れる。


「――たしかに今のわたしはノワキよ。でも、それでもやっぱり分からない。どうして? どうしてあのわたしじゃダメなの?」


 舞い散る雪の向こうから、ノワキの困惑する声が聞こえてくる。


「わたしは――もう一度、わたしのなかにいるお母さんの目を覚ますわ」

「ダメだよ、ノワキ」

「――どうして?」


 僕は一歩一歩、彼女の元へと歩み寄っていく。


 風の影響か、いつの間にか解けていた彼女の髪は逆立ち、その着物姿と相まって、おとぎ噺の鬼女を思わせる。


 霞む視界のなかでもしっかりとこの目でノワキを見据えながら、僕は口を開いた。


「ノワキのため――なんて言うつもりはないよ。さっきノワキに言われたように、僕はそれほどできた人間じゃないから。だから誰かを救ったりするようなことはできないんだ。僕はきっと、自分を押し付けることでしか誰かと関わることができない」


 その時点で、僕はなにかに失格していて、それ自体が人間としてなんらかの罪なのだろう。でも、僕はそれで構わないのだ。


「僕が、ノワキと話がしたいんだ。ノカゼじゃなく、ノワキと」


 これは開き直りではない。なぜならそもそも、これが僕だからだ。


「なら話は簡単ね。――わたしはそうは思わない。わたしはこんなわたしで、あなたとお話したくない」


 あまりにも明確な峻拒に、この身が抉れるような思いだ。足が竦む。体の芯から震えが止まらない。寒さのせいではなかった。


 こんな体験は初めてだ。こんな屈辱は初めてだ。これほどまでに苛立つことを、僕はこれまでの人生で経験してこなかった。

 なにもかもが僕の思い通りになるはずのセカイで、こんなにも僕の意に沿わない存在は、初めてだ。


「だって、そうでしょ? このわたしがあなたといたって、いいことなんて何一つないわ。今もそう。さっきまでは明晰だったはずのわたしのセカイが、ひどく朧気なの」


 僕らはどうしても、異物を看過できないのだ。それを知らないから。セカイの平穏を望むから。


「さっきまで、あんなに近くにいたはずのあなたが、今では遠く感じるわ。あなたのことが、どんどん分からなくなっていく。理解できない存在になっていく。――そんなの、嫌よ」


 ノワキの感情に応えるように、銀色世界の氷雪は、みるみる勢いを増していく。


「ああ分かるよ。僕だって同じだ。ノワキがノカゼでもあると知ってから、ノワキを疎ましく感じるようになった。従わせたくなった、突き放したくなった。自分のものにならない存在を、このセカイから消してやりたくなった」


「――分かってくれるなら! どうして無理やりわたしを引っ張り出したの! ノカゼでもあるわたしなら、あなたの理解は容易だったのよ! 我が子のように愛おしいわ! あなただってそうでしょ? この場所で、あのわたしを求めてくれたでしょ!?」


 ノワキがノカゼでもあると知ったあの日。僕は母親のような雰囲気を醸す彼女に、たしかに一度、救われるような心地になった。


「それでいいじゃない! 理解できないものは嫌なのよ! お互いに相手を理解できていると思い合える、そんなセカイを持つわたしが出会ったのよ! どうしてそれをわざわざ壊してしまおうとするの!? 変わる必要なんてないじゃない!」


「それが、相手を見ていないからこそのセカイでもか!」


 僕らはほとんど同じだけれど、その根本はかなり違う。


 ――僕は最初から相手のことなんか見ていない。目の前の存在は存在しているだけであり、存在者ではなく、僕の道具であり、所有物である、そうあるべき世界を僕は、産まれてこの方保ってきたのだ。


 ――ノワキは自身のセカイにノカゼを取り込んだ。ただ家族だけを愛する少女が、大好きな母と共に、その他のあらゆる他者を排除し無視するセカイを形成してきた。


 支配するか無視するか、その二つがどれくらい異なるものなのかは、さしたる問題ではなかった。


 ともかく僕は彼女のそんなセカイを知った。僕はそれが嫌でたまらなく、彼女はそのままでいいと言った。だからこそ僕は苛立った。彼女に恐怖した。 


「そうよ! スグルだってそう言ってくれたじゃない! 見なくていいって言ってくれたわ!」


「僕だってそう信じてたさ、だってあの時のノワキなんか僕はどうでもよかったからな! そこら辺のやつと、顔の区別がつかないって言ったろ? 大したことのない存在、どうでもいい顔の女になんて、僕だって見てほしいと思わないよ!」


「失礼よ!」


 ノワキは憤慨し、僕を引き離すべく、激しい雪嵐が巻き上がる。小さな氷の結晶が僕の頬や腕を撫で、次々と裂傷を作り出す。体のあちこちから薄っすらと血が垂れて、氷の床に赤い染みを落としていく。


「でももう変わったんだ、今は違うんだ。僕はノワキの顔を見てしまったんだ、見たいと思ってしまったんだ。ノワキに見てほしいと思うんだ」


 初めて出会った他者。僕だけのセカイに勝手に訪れてきた他者――

 

「この自分勝手! 意味が分からないわ! そもそもどうしてそんな風に思えるの!? あなたの言っていることはとても大変で苦しい生き方だわ! わざわざ険しい道を選ぶ必要なんてないじゃない!」


 ――僕はそんな彼女へ向けて、今この足を踏み出さなければならない。


「それでも僕はノワキを求めてるんだ!」


「――――」


 叫ぶとともに、彼女の両肩を掴む。


 パキパキと、ノワキに接する僕の手の先から、凍り付いていく。


 彼女が気圧されたようにその場に座り込んだので、僕もそれにつられる。

 氷の床から伝う冷気が可視化されたように、彼女や僕の足先から、膝、腰の上まで、氷の中に閉じ込められていく。


 逃げたいと思う。焦ってしまう。けれど、それではいけないのだ。


 死への不安よりも先に、伝えなければならないことがあるのだ。


「今のノワキは僕にとっての、どうしようもない他者だ! どうしたって理解なんかできない! 自分のものにすることもできない、かといって完全に無関係というわけでもない! ともすれば鬱陶しいと感じてしまう! 僕の横に立ち、理解の及ばないノワキに、僕は恐怖し、反発し、不安を覚える!」


「それなら――」


「それでも僕はノワキを求める! 他のやつらならどうだっていい! 有象無象のことが理解できなかろうが放っておけばいい! けど一度でも他者を望んだなら、そう思ったなら、そこで逃げ出しちゃいけないんだ! 無理に従わせちゃいけないんだ! なぜなら他者は、既に存在してしまっているから! そんなどうしようもない他者を、理解できない他者を、それでも理解しようと自ら近づいていかなければならない! もしかしたらそれは、一生かかっても叶わないことかもしれない。完全に理解の及ぶものなんて自分だけなんだ、どれだけ近づいても他者が他者である限り、その先に広がる無限の無理解に、僕らは必ずぶち当たってしまう。それはとても苦しく、痛みを伴うものだ。他者はどこまでも思い通りにならない。ノワキに拒絶されるたび、裸の僕を否定されるたびに、僕は挫けそうになってしまう。ついさっきだってそうだった。――それでも、それでもなんだ! それでも僕はノワキを理解したいんだ!」


「知らないわよ! そんなのあなたが勝手にしてればいいじゃない! わたしは――」


 どれだけの恐怖が襲い来ようと、僕はノワキを見たい。ノワキに見てほしい。


「――ノワキだって、本当はそれを望んでいるんじゃないのか!?」


「妄想乙ね。なにを根拠にそんな――」


「だって!」


 寒さで動かなくなっていく喉を、それを上回る魂の熱で溶かし尽くして、僕は声を張った。



「――君はいつも、自分のことを『ノワキ』と呼ばせたがってたじゃないか」



「…………っ!」


 僕がノワキのことを「君」だとか「お前」だとか呼んだときは、必ず。


 ――『僕がなんでストーカーしてるか? 君には関係ないだろ』

 ――『君じゃなくてノワキ』 


 ――『君たちは自分を過大評価しすぎるところがあるよな』

 ――『君じゃなくてノワキ』


 ――『ツツジの真似事かな。お前いうほどナルシストでもないだろ』

 ――『お前じゃなくてノワキ』


 ここにいる自分は、ノワキなんだと。


 わたしは、不知森野分であるのだと。

 他者からの呼びかけによって、それを確かめようとしていたはずだ。


「………………そ……そんなの、ただのその場のノリよ……売り言葉に買い言葉で……」

「つい、本音が出ちゃったんだな」

「違うの!」


 ノワキは否定しようとしている。目前に迫る恐怖を、広がる闇の存在を見ないように、そっぽを向いてしまう。


 それが裏返しの反応であることを信じて、僕は言葉を繰り返す。


「だから僕もつい、ノワキ以外を認めたくなくなっちゃったんだよ。僕は、ノカゼではなく、ノワキがいいんだ」


 ……風の勢いが、幾分か弱まる気配がした。


「……どうして?」


 彼女から返ってきたのは、怒りでも、恐れでもなかった。

 それは至極純粋な疑問だ。


「ノカゼとしてのわたしじゃなくて、わたしなのは、ノワキなのはどうして? あなたからしたら、どちらも変わらないでしょ……?」


 ――僕は言葉が軽いと、ノワキに何度も言われていた。


「……こんな気持ちは初めてなんだ」


 それはきっとこれまで、僕が独りだったからだ。

 誰かと一緒ということを知らなかったから。


「これまでの人生で、いちばん腹が立ったよ。いちばん恐怖した。いちばん混乱した。困惑した。自惚れというものを味わわされた。怒りも焦りも恐れもすべて、更科優という人間が、この人生において知る初めての感情だったんだ」


 彼女はそんな完成されたセカイのなかに、土足で上がり込んできたのだ。


「それを僕に与えたのは、その全部を僕に無理やり教えてきたのが、君なんだ、ノワキ」


 これまでずっと分からなかったものが、流れるように理解されていく。


 それはまるで雪解けのごとく。雪が溶け、水が流れ、そこに芽生えた儚い命を、見つけたみたいに。


「ノワキと一緒に下校した五日前から、僕はノワキのことばかり考えるようになったよ。取るに足らない女、僕を裏切った女、頭のイカれた女、腹立たしい女……」


「……上半身まで凍らされたいの?」


 ジト目で睨みつけてくる彼女の愛らしい姿を見て、僕は心が決まった。


 体の芯からじわじわと込み上げていた熱いものが、一気呵成に噴火するのを幻視した。


「それが不満であるとしても全部、ノワキについての不満であることには変わりなかった。一時も頭から離れることがなかった。僕は……」


 ようやく、気づくことができた。

 

 ああ、そうか。



「僕は……ノワキを好きになってた……のか」



 心臓が、うるさいくらいに拍動している。四方を氷に囲まれ、吹雪のなかに閉じ込められているというのに……どうしようもなく体が熱い。気を抜いたら倒れてしまいそうだ。言い切ったらそこで終わりなどではないのだ。むしろ言った後こそ緊張するのだと、僕はまた一つ初めて知ることとなった。


「こんなことは初めてなんだ。ノワキと共にありたいと思う。時間を、存在を、分かち合いたいと思う。救うことはできなくとも、この僕が、ノワキに対する責任くらいは持ちたいと思っている。こんなことは初めてなんだ」


 恥ずかしいと感じる、上手に感情を伝えられない自分が情けないと感じる。これも初めてのことだ。


 それでも言葉だけは誠実であるつもりだった。


「…………そ、そんなの……」


 驚き半分、気恥ずかしさ半分といった様子で、ノワキが僕から視線を逸らしてしまう。

 

「それだけじゃ、理由として足りないか?」

「そんなこと……ないけど。……いつから、だったの?」


 ほんのりと紅く染まった頬が、彼女の雪のように白い肌も相まって、妙に際立っていた。 


「いつからと聞かれると……今から、かな。僕も今、話しながら自覚した感じだ」

「……なにそれ」

 

 彼女は呆れたように、おかしそうに、微笑んでくれた。


「そんな素振り、まったくなかったわ。少しも気づかなかった」

「僕もだよ」

「僕もってどういうことよ」


 これまでなら笑って流していた、ノワキの何気ない疑問。


「いや、あれだぞ。初めてのことだったから、自分でも気づかないうちにというか、気づくのが遅れただけで……この気持ちは、本物なんだよ。それだけは、疑わないでほしいんだ……けど」


 それにいちいち反応して、誤解されていないかと怖くなってしまって、こんな弁明を付け足してしまう。


「もう、分かってるわよ。そこは疑ってないわ」

「……そっか」


 誤解されていなかった嬉しさと、杞憂だったことによる羞恥。


 全部全部、初めての経験だ。知らない感情だ。


 だが……そう、悪いものではない。 


 これまでになく、更科優が生きているという感覚があった。


「ねえ、わたしの返答は、聞きたくないの?」


 僕がいつまで経っても「ノワキの方はどうなんだ」的な質問をしなかったせいで、少し拗ねている。


「聞きたい気持ちはあるけど……とりあえずこの場は僕から伝えられたら……それだけでいいかなって、思って……」


 怖くて聞けなかった、のだがそれは口にしたら負けな気がした。


「そうなの? ――じゃあ、あなたの彼女になれるのはまだ先なのね」

「……いいのか?」


 なんでもない風の澄ました顔でとんでもないことを言うノワキに、つい確認を取ってしまう。


「……言ってたでしょ、あなたを愛してるって」


 訂正、隠しきれなくなったのか、ノワキも顔を真っ赤にして照れていた。


「でもあれは、ノカゼでもあるノワキの言葉で……」

「あ、あれだけはわたしの気持ちだったのよっ。だいたい、あなたと同じでわたしだって、どうでもいい人にここまで執着したりしないわっ」


 よく分からないところでご立腹するノワキは――


「わたしもあなたが好きよ!」


 もう一生懸命というか自棄気味に、叫んだ。


「それは、ノワキとして……?」

「何回確認すれば気が済むの。――わたしは……不知森野分は、更科優が好きなの! あなたがいいの、わたしがあなたを想ってるのっ!」

「…………」

「……いい加減、信じてくれたかしら……?」


 嬉しさのあまり、何を言っていいのか分からなかった。


「……嬉しいよ、ノワキ」


 だから僕は、この気持ちをそのまま口にした。


「……ん。わたしも」


 目に涙を溜めて、僕の大好きな少女も同意を示してくれた。


「…………あなたが言った通りだった……ちゃんと、好きが返ってきたよ……お母さん……」 


 ボソッと囁いた彼女の言葉は、どこか震えていた。


「……ん?」


 ふと、胸に手を当てる彼女の……その拳に、なにかが握られているのを認める。


 ノワキが拳をやわらかく開いた際に、ちらと見えたのは……黄色地に、「えんむすび」という五文字。


 そういえば、そんなものをプレゼントしたような気もする。


「……それじゃあ、スグル」


 しかし、そんな感傷を振り払うように、ノワキは頭を切り替えて言った。


「カネコリサマの力を止めるわ。ユキが言ってた、ひめ……なんとかをちょうだい」

「いや、こんなものはいらないさ。消化に悪そうだ」


 言って、僕はポケットの中から取り出した木片を、外へポイと投げ捨てた。


「え、ちょっと……どうするのよ。ユキの言う通り、市内に降る雪を止められる自信なんてないわよ、わたし」


 眉を下げて機嫌を悪くするノワキを、僕は微笑ましいと思った。


「そんなわけないだろ。だってカネコリサマは、半分はノカゼの力なんだぞ」


「……えっと?」


「――子供が困っていたら、親は助けたくなるものだろ。さっきの真鉄がそうだったように。もしかしたら、これまでもずっと……そういうことだったんじゃないのか?」


 彼女の顔に広がる驚きは、すぐに安堵へと変わった。


 納得した様子で、ノワキは頷く。


「……そうかも、しれないわね」


 すると……


 ノワキの意識に応じるみたいに、パキ、パキパキと音が鳴り、氷の屋敷が徐々に崩れていく。


 子の及ばないところを、親が陰ながら、手助けしてくれているみたいに。


「――それならこれが、お母さんにしてもらう、最後の手助けね。いつまでも、親に頼ってばかりじゃいられないもの」


 きっと――彼女には今、親離れの瞬間が来ているのだ。

 

 他より少しだけ早く……ノワキは大人になろうとしていた。


「この八年間ずっと、甘えっぱなしだったもの。いい加減、お母さんを安心させてあげなくちゃ……」


 屋敷の氷が解けると、僕らの遥か頭上に、悠久の空が顔を覗かせた。


 いつの間にか雪は止み、分厚い雲が散りゆき、代わりに晴れ間が広がろうとしている。


「――今まで……わたしの傍にいてくれてありがとう……わたしを守っていてくれて、ありがとう、お母さん……」


 雲の切れ間から降り注ぐ陽の光が、冷たい雪の町を懐かしいぬくもりで満たしていた。

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