21 いらっしゃい、スグル。
激しい勢いで、雨が降りしきる。
住宅街からほど離れた場所に、ノワキの家はあった。さざれが共有してきた住所へ向かって、そこへたどり着いた僕は……未だに、この家屋が彼女の家であるのか確信が持てずにいた。
なぜなら、僕はこの場所を知っているからだ。と言っても、実は忘れてたけど彼女と幼馴染でしたとか、そういう意味合いではなく。
誰が住んでるのも分からない、広い古風な屋敷――誰しも地元に一軒くらいは覚えがあるものじゃないか?
別になにか噂になるわけでも、ましてや直接訪ねたことがあるわけでもなくとも、幼い頃から意識せずとも、なんとなくそこにあるのは知っている――というような、そんなお屋敷。
その家が――この近所においては、ノワキの実家だったらしい。
さざれが適当な住所を寄越したんじゃないかとも思い、しばらく武家屋敷みたいな土塀の周囲をぐるぐるしていたのだが……木製の表札には、たしかに『不知森』の字も確認できる。ここで間違いなさそうだ。
――ピーンポーン……。
3メートルはありそうな武家屋敷門にくっついてるインターホンを押してみるが、誰も出てこない。これは想定内だ。僕に惚れているか……そうじゃないにしても、風邪をひいていて本人が出ないというのは納得できる。両親は……仕事だろうか。
敷地内に足を踏み入れると、屋敷の厳めしい古めかしい雰囲気に、少し委縮してしまう。
「……は?」
……委縮? 僕がこんなもののために?
……やはりどうかしている。徐々に僕の澄み渡る世界の平穏が、乱されている。
それに気づいた僕は、なにか無性にノワキに文句の一つでも言ってやりたくなった。
どうしてあんな女のために、僕が動揺しなくては――……いや、動揺それ自体ではなく、もっと恐ろしいこの悦びが問題だ。
まったく理性が情念を制御するということが、僕には少し窮屈な理想論に思える。ゆえにある程度、心のざわめきを看過する寛容を、僕は意識的に持しているはずである。
だというのに、この焦燥と怒りの原因はなんだ?
……余裕がない、僕には余裕がなかった。
この屋敷の不思議な魔力が、僕を無意味な、出口のない、くだらない懊悩へと誘うのだった。
「――おい、僕だ」
戸口の前に立った僕は、思考の霞を振り払うように、少し低めの声で呼びかける。
声は届いたはずだ。僕の声なのだから。世界のなによりも優先される更科優の発した音なのだから。
「…………」
だから僕は、ひたすらそこに立ち続けた。
「…………」
五分、十分経っても家の中から物音一つしない。構わない。寝ていようと留守だろうと居留守だろうと知ったことではない。
「…………」
僕が、この僕が呼んでいるのだから、世界はその通りにならなければならない。
「……?」
しばらくすると、家の奥からガタゴトと音がした。かと思えば、タ、タ、タ……と小さな足音が聞こえてくる。誰かが、玄関まで来たようだ。
ガラガラと音を立てて、戸が開かれる。
「――だあれ?」
出迎えたのは――
長い銀髪を後ろで一つに束ねたポニーテール姿で、夏の到来を予感させる涼し気な黒の縦絣の着物を着た美しい女性。袖のあたりがうっすら透けているので、絽の生地のものだろう。帯は麻の葉柄の絞りで、鮮やかな紅色。その日本人離れした特徴的な銀髪にもよく似合う色合いの夏の装いを、見事に着こなした和風の美人だった。
「あら、スグル? どうしてわたしの家を――もしかして、わざわざユキに聞いて来たの?」
「あ、えっと……ノワキ、だよな?」
今までのイメージにないその姿に、思わず疑問形になってしまう。
それはあの、魅力的な姿に目を奪われて……といった類の暢気な驚きではない。
彼女のどこか大人びた落ち着いた雰囲気も、誘うような惑わすようなその挙措も……いつものノワキと変わらないはずなのに。
……どこか、それが別人のように感じてしまう。妙な違和感があった。
「誰かと見間違えるような見た目してないでしょ、わたし」
「そりゃ、そうなんだけど……家だと、そんな恰好なんだな」
「――ねえ、せっかく来てくれたんだから、上がって。もてなしてあげる」
「あ、ああ」
その提案に、半ば頷かされるように、頷いた。なんだか調子が狂う。取り立ててなにかが変というわけでもないのに。
「お邪魔します」
玄関框に上がり、ノワキの後ろをついて歩く。
前方を歩く彼女は、体の動きに合わせて銀のポニテを揺らす。その度に衣紋から覗く白いうなじがちらちらと見え隠れするので、なんだか落ち着かない気分になる。
「なあ、なんで今日は学校休んだんだ」
僕が背中に声を掛けると、ノワキは目線だけこちらに向けてくれた。
「え? だって、関係者以外立ち入り禁止だもの。それともスグル、わたしに会いたかったの?」
からかうような上目遣いを返してくる。
「連絡もつかないから心配だったんだよ。昨日の別れ際だってなんか熱っぽかったし、結局、なんともなかったのか?」
「そうなの。心配かけちゃったのね、ごめんなさい」
「……いや、体調崩してないならいいんだけど……」
「スグルが心配してくれて。訪ねてきてくれて。わたし嬉しいわ」
「…………」
長い縁側を渡って、案内されたのは畳の和室だった。その外観に反して、置いてあるのは薄型テレビやソファなど普通に現代的な内装で、物も多く散らかっているので分かり難いが、本来はかなり広い部屋だ。
部屋の明かりはついておらず、うす暗いこの空間に差す光といえば、締め切ったカーテンから洩れる仄かなそれだけだった。
「っ……」
その部屋に入ってすぐ、僕は鼻を摘まんでしまう。
……嫌な、異臭だ。生ごみの腐敗臭か、すえたような、とにかく色々なものが混じった不快な臭いだ。
「なんだ、この臭い……?」
「……なんのこと?」
ノワキは、本当にそれを感じていないとでもいう風に、首を傾げて……
「ねえ、ほら、そこに座って。飲み物持ってくるわ、何がいい?」
「……水でいいよ」
「麦茶ね」
「なんで聞いたんだよ」
ふふ、と微笑み一つ残して、ノワキは台所へ消えてしまった。
こんなやりとりには、とてもノワキを感じてとても安心する。
だが……なんだろう。今日の彼女には、どこか……いつもより棘がない、ような気がする。
そりゃ、普段からなんだかんだ優しいけど。
――それにしてもあいつ、こんなところに住んでたのか。
一人残されて所在ない気を紛らわせるため、部屋をぐるりと見渡す。
ほどよくボロくなった生活感のある調度品の数々。床にはプリント類や衣服、空のペットボトルなどが散らかっており、足の踏み場がないとまではいかないが……全体的に、汚らしい印象を受ける。
――あの奥の部屋は……
しんと静まっていて気づいたのだが、襖で仕切られたこの部屋の奥からも、なにか……これは、テレビの音がする。誰かいるのだろうか?
などと、ちゃぶ台の前に腰掛けたまま、しばらく考えていたら……
ああ、たしかに慣れてきたよ。この、鼻がひん曲がるような異臭にも。四六時中これを嗅いでるから鼻がバカになってたんだな、ノワキのやつは。
「おまたせ、スグル。何か気になることでもあった?」
「……いや」
すると丁度、お盆に麦茶の入ったグラスを3つ載せて、ノワキが戻ってきた。
――3つ?
「はい、スグル」
「……どうも」
ノワキは両膝をついて、ちゃぶ台の上に僕の分、自分の分の2つのグラスをそっと置いた。
お盆にはあと一つ、グラスが残っている。
「ノワキ、それは……」
「ん?」
彼女は立ち上がり、お盆を持って僕の横を通り過ぎていく。
僕の質問に、ノワキはいたって自然体で答えた。
「お父さんのよ」
例の襖の前に立った彼女は、コンコンと軽くノックをする。
「お父さん、ねえお父さん、お茶入れたわ」
…………。
「入るわね」
返事がなかったので、襖を開けて、ノワキがその中へ入る――
「なっ……!?」
……その光景に、僕は思わず、声を上げてしまった。
この部屋の奥にある、もう一つの部屋。カーテンの光さえ差し込まない暗がりのなかに、ノワキの銀髪が、溶け入るように吸い込まれていく。
襖が開かれると、換気されていない部屋に特有の、むわっとした嫌な空気がこちら側にまでゆっくりと流れてくる。そこに混じった、臭さ――この部屋の異臭は、あの奥の部屋から漏れていたものだったのだ。
「――――」
そこには――
――ゴミ。ゴミ。ゴミ。丸まったチリ紙がゴミ箱から溢れている。タバコの吸い殻が灰皿から溢れている。脱いだ衣服がそのまま山をつくっている。空の缶ビールが大量に転がっている。
油が白く分離したカップ麺の容器。裏返しになったかば焼きの缶詰からは汁が、飲みかけのペットボトルからはコーラが、シミだらけの畳の上にぶちまけられている――のが、放置されている。音もなく、羽虫が生ごみ付近を飛び交っている。
その、不衛生極まりない空間の中央に……男が、寝そべっている。
角刈りで、小太りの、中年男性。身に纏っているのはよれよれの白いタンクトップ一枚のみで、毛深い下腹や、下半身もすべて露出したまま、仰向けに寝ている。
暗闇のなか、男の顔を微かに照らすのは、つけっぱなしのテレビの画面の光だ。
『――まだまだ梅雨は続き、明日も全国的に一日中雨模様となる予報です』
そこから流れる天気予報士の淡々とした声が、妙に耳に残る。
あれが……
あの男が、ノワキの父親なのか。
「ん……ぐがっ……」
「ねえお父さん、お父さん起きて、お客さん来てるの」
男の傍に座り込んだノワキは、その部屋にも父の姿にも反応を示さず、ただ優し気な声音をかけながら、男の肩をゆさゆさと揺する。
「…………あぁ……?」
娘の呼びかけに、男は低い、唸るような声で返事をするばかり。
「昨日もお酒飲んでたの? ……ほら、お茶。飲んで。少しは気分も良くなるわ」
「……そこ置いとけ」
寝ころび、目をつぶったまま、怠そうに応じる男。
「友達も来てるのに、だらしないわ。下くらい履いて?」
「…………っぜぇな……」
あからさまに機嫌の悪そうな声を漏らしながら、上体を起こした男がこちらを見る。
がりがりと、痒そうに頭を掻く男の顔は、不健康のためか、目の下の隈も手伝って、予想される年齢よりも老けて見える。
目元には目ヤニが出ており、髪は白いフケが目立つ。もう何日も風呂に入ってないのだろう。
「おい男じゃねーか。彼氏かよ、連れてくんじゃねーよ。うるさくなんだろ」
「友達。いいから、お父さん、服着るのよ」
もう興味がなくなったという意思表示の無反応で、男はその場に再び寝ころんだ。
……ノワキは困り眉のまま、襖を閉じてこちらに戻ってきた。
「ごめんなさい、せっかく来てくれたのに、待たせちゃって」
「……それはいいんだけど」
何を言ったものか、沈黙が怖くなった僕は、逃げるような気持ちでちゃぶ台のグラスを掴み、麦茶を喉に流し込んだ。
……なにか聞いた方がいいのか?
僕には父親の記憶があまりないから……どれくらい触れていいのか、その基準も分からない。
「……どうしたの?」
「え?」
ノワキが、いやに優しいトーンでなにかを訊ねてくるので、訊き返してみると……
「そんなに、悲しそうな顔して」
「……悲しそう?」
ノワキが僕の横に座る。僕の目を見て……くすりと微笑んだ。
「気づいてないの? おかしいわね」
言いながら、ノワキは僕の正面に向き直り……黒絣の着物の袖を軽く広げて、僕を受け留めるようなポーズを取った。
「おいで?」
「な……なんだよ、急に」
「いいから、いいから、ね?」
かわいらしく小首を傾げ、もう一度「おいで」と言いながら、ノワキは僕の頭を両手で、自らの胸元にゆっくり引き寄せた。
「お、おい……」
その行為に……僕は抵抗することもできたはずなのに……されるがまま、ぽふ、と頭を抱かれてしまった。
「……なにしてるんだ、ノワキ」
「抱き心地悪くて、ごめんなさい。わたしにもあなたの彼女くらい、胸があったらよかったのに……」
「別に、僕は……」
「それでも、嫌がらないでくれて、嬉しいわ」
「な、なんなんだよ……」
「……よし、よし……」
「……っ……のわ、き……」
もはや何を聞いても問答無用で……頭を優しく撫でられる。
なで、なで……なで、なで……
一定のテンポで、宥めるように、落ち着かせるように、大事そうに、撫でてくれる。
ノワキの手のひらから、そのぬくもりが、そのやさしさが、伝わってくるみたいに。
だんだんと、頭の先から、眠気がやってくる。
この心地よさに、意識を手放したくなるまどろみに、うつらうつら……抗いながらも……僕は……ノワキの言葉に、耳を傾ける……。
「ねえスグル……わたし、あなたのお話が聞きたいわ」
「……僕の、話?」
「ええ。あなたのこと、もっとわたしに教えて? わたしの知らないあなたを、わたしにちょうだい、スグル」
なんだか……こうしていると、すごく落ち着く……
「……ぼくの、こと……」
「スグルのこと、知りたいわ」
……ノワキ……あったかいな……
「……のわき」
「あ、もう……どうしたの? 眠たくなっちゃった?」
僕が彼女の胸に頭を預けたまま、その背中に腕を回すと、ノワキは気恥ずかしそうに身をよじった。
「ぼくのはなし、きいてくれるのか……?」
「ええ。あなたのこと、何でも聞かせて。なんでも聞きたいわ」
「ぼくのこと、きらいにならない……?」
「ならないわ」
「ぼくのこと、すきにならない……? ぼくにほれて、のわきもほかのみんなみたいに、おかしくならないか……?」
おそろしいのだ、おぞましいのだ、だって、なぜなら、いまののわきは、すごく、すごく……
「かあさんみたいに、ならないよね……?」
「……スグル」
のわきは、すこしだけおどろいて。
でもすぐに、また、ぼくのあたまをなでてくれて。
「大丈夫、大丈夫だから、スグル……あなたのお母さんのお話も、わたしに聞かせて?」
「……うん。ありがとう、のわき……」
ぽつり、ぽつりと――外の雨よりも弱く、小さな声で、僕は自分の過去をノワキに語る。
ああ――
ああ、ああ……
僕は一体、何をしているんだろう?
僕は一体、何のためにここに来たのだろう?
一体、僕は何をするのがよくて、何をするのがダメなのだろう。
なにもかも、曖昧になっていく。
「ずっと、離れないんだ……あの光景が、僕を縛るんだ……」
「……そう」
「それからいっぱい頑張ったけど、みんなおかしくて……僕が、おかしくして……」
「そうなの」
「この世界で……僕だけずっと、仲間外れなんだ……」
「そう、そう、そうなのね……」
さす、さす。
ノワキが、僕の背中を優しくさすってくれる。
僕はただ、目を瞑って、うわごとのようにノワキに過去を語る。
今まで誰にも言えなかったことを――それは、彼女であるエルにすら、言えなかったことを――ぽろぽろと、ぼろぼろと、零していく。
もはや壁は決壊していたのだ。止めるものはなにもないのだ。こんなの大人ではない。こんなの人間ではない。理性が極限まで弱まったそれを、人々はなんと呼ぶだろう?
「…………ああ……」
僕はノワキの胸に顔を埋める。できるならばずっとこうしていたいと思う。離れたくないと強く思った。
「もう……スグル、甘えんぼね?」
「……だめか?」
「だめなんてことないわ」
僕の頭をぽふぽふ撫でながら、ノワキは僕の勝手を許してくれる。
「いいのよ、スグル……わたしだって、嬉しいんだもの……」
「…………」
ぎゅっとノワキを抱きしめる、その力を強める。
彼女のキンモクセイのような、懐かしい、落ち着いた匂いに包まれるようだ。僕は、ノワキにもたれかかったまま、彼女を見上げる。
「あなたが幸せなら、わたしも嬉しいの」
「…………」
……ああ……
これが、これが、いいんだ。
僕は本当は、ここにいたかったのだ。
ずっと、最初から、ここがよかったんだ。
それだけで、僕は幸せなはずだったんだ。
――それなのに、僕はどんどん成長してしまって。
僕を取り巻く環境が、目まぐるしく変化し続けてしまって。
それで、いつからか、僕はもうそこには二度と戻れなくなってしまった。
もうそこには、戻ってはいけないのだと思うようになってしまった。
「満足したら、また一緒に頑張りましょう。ねえ、スグル」
だけど――
だけどノワキは、僕を――
「――――おい野風! こっち来い!!」
男の野太い声が響く。
ノワキの肩がびくっと震えたのを、僕は彼女の懐でたしかに感じた。
「……ノカゼ?」
誰だろうか。
もしやツツジのように、ノワキにも隠し妹キャラがいたりしてな。
などと、間抜けなことを考えていたら。
「はぁい、今行くわ」
「………………え?」
その返事は、至近距離から発せられた。
ノワキの声だった。
「スグルごめんなさい、呼ばれたからいかなくちゃ」
「あ……今のは、ノワキのことなのか? 愛称かなにかか?」
「……?? なんのこと?」
と言いながら、僕の体を手放して、すくっと立ち上がる――
「い、行かないでっ」
――反射的に叫んでいた。
「スグル……?」
「まだ……まだもう少し、いてくれ……ここに、いてくれ、ノワキ……」
分からない。分からない。知らない。僕はこれを知らない。
だけどどうしてか。どういうわけか。
「そんなこと言ったって……」
ノワキの着物の袖を掴んで、裾を引っ張って、引き留めたくなる。
行かないでほしいと、思ってしまう。
「――行くな」
……やめてくれ。
「行くな」
なにがなんだか、よく分からない。
「行くな!!」
――なんなんだこの恐怖は!
「もう、わがまま言って困らせないの。お父さんが呼んでるでしょ」
「だからなんだよ! 僕がお前にいてほしいんだ、ノワ――」
「ノカゼ! 何してんだオイ!!」
「――――」
襖の奥から、聞こえる――
あの男。あの男だ!
「なあノワキ、あの男がなんなんだよ。ノカゼって誰だよ、なあ……」
僕に恐怖を与えるあの男! 僕から幸せを奪おうとするあの男!! 僕が倒すべき存在!!
――ふざけるな!
なんの用事でノワキを呼び出してるんだ!
今は僕がノワキと一緒にいるんだ!
僕からノワキを奪うな!
僕からノワキを引き離すな!
僕からノワキを取るな!
――ノワキは僕のものだ!!
「……のわき……」
彼女に縋る。ノワキの手を――行かないでと、ここにいてと、願うように、祈るように、つよく、つよく握る。
ひんやりとしていて冷たい手。白くて細い綺麗な手。僕の頭を優しく撫でてくれた、僕を抱きしめてくれた女性の手。
「いい子だから、聞き分けて。ねえ、すぐ戻ってくるから、スグル」
「……あ」
それが、離される。
ノワキが……困っているのが、分かってしまう。
僕が……ノワキを、困らせている。
僕はただ……一緒にいてほしいだけなのに。
ノワキは僕よりもあの男を優先した。
「……なんでだよ」
ノワキが、あの襖の奥へ消えていく。闇のなかに溶けていく。
――知らない。
この感情を、僕は知らない。
ノワキへの思い、だけでは終わらない、その延長線上にあるこの底知れない恐怖、泣き出したくなるような、寂しさ――
「そんなの嫌だ……」
――負けた――
僕は、初めて負けたのだ。
――開けっぱなしの襖の向こうから、二人の会話が聞こえてくる。
「どうしたのお父さん、急に大声出してびっくりするじゃない」
「……外出るから鞄持ってこい」
――……は?
一瞬、自分の耳が拾った言葉が信じられなかった。
そんな……
そんなのもののために、あいつは僕からノワキを奪ったのか?
なんだよ。なんだよそれ! 鞄くらい自分で取れよおっさん!
その不摂生な体型と見るに堪えない醜い顔つきで分かるよ、お前無職のろくでなしだろ!
酒とタバコばっかりで娘に対して横暴な、典型的な、絵に描いたようなダメ親父だ!
狭い世界の中で王様気取りかよ!
お前なんか、僕がその気になれば一瞬で殺してやれるんだぞ! いいか、世界のみんなが僕の言うことを聞くんだ。容姿も性格も醜悪なお前ではなく、世界でいちばん美しいこの僕に! 僕はお前よりカッコいい! お前より性格だって良いし、お前より身長が高くてスタイルもいい! ツツジやエルのような美少女に囲まれている! 僕が嫌がったって向こうから寄ってくるんだぞ! お前と違って僕は魅力的なんだ! 強者なんだ! そんな雄として圧倒的強者の僕に、みんな従うんだよ! 今お前が生きて、娘に好き勝手言っていられるのは僕の慈悲のおかげだ。僕が優しいから! 僕がお前に譲歩してやってるからお前はそうやっていられるんだ。
そう、そうだよ……僕が本気になれば、お前の娘だって意のままだ。今は意識して僕の魅力を抑えてるだけだからな。完全で完璧で完成された自然体の更科優でノワキに命令してやれば、あの女も一発で僕のものだ。やってやろうか? いいのか? やるぞ、僕は冗談が通じない男だからな……!
お前の、お前のその幸福が成り立ってるのは、単に僕が手を下していないからだ! お前は、僕に生かされてるんだ! それをしっかりと理解しておけ!
それをしっかりと……
「そんな髪で外へ出たらみっともないわ。ほら、軽く櫛で梳くからこっち来て」
……それ、を……
「細けぇんだよ、ノカゼは」
「…………」
………………。
………………。
「……………………」
……もう……
……もう、帰ろう。
僕は……少し、おかしいから。
だから……今日はもう、帰ろう。
ここにはいるべきじゃないから。
ここには僕の居場所なんてないから。
だから僕は、僕の家に……帰ろう。




