13 恋心
その日は中学の卒業式があった。式の終わりに、紺のセーラー服に身を包んだエーデルワイスを連れて、万代は近くの喫茶店で一服していた。
エーデルワイスの前に置かれたカフェモカから湯気が立たなくなって、一体どれほど経っただろう。
彼女は先ほどからイヤホンをして、スマホをなにやらいじっていた。
「エル、もう冷めちゃったわ、カフェモカ嫌いだった?」
「あっ、ごめんなさい」
「…………」
万代ははっと息を吞んだ。
スマホの画面から顔を上げた娘の顔が、不思議な力に魅入られているのをたしかに認めたのだ。
目を閉じるのはいつものこと、白い・かわいらしい鼻先のこちらを覗く迫力が、普段に増して欠けており、なんとも女らしく、深情けの色がある。若い健康的な血潮がもの柔らかに表情として浮き出たような紅色の唇もまた、隙を誘うような、気だるげな色香のなよやかさ。耳から垂れたおくれ毛の金色に光るのも﨟たげに、ぽっとよどみない朱色の頬の、遠慮深い恥じらいを引き立てている。
――この娘は恋をしているんだわ。俗な物言いをすれば、それはきっと、身のよじれるような初恋を。
万代ほど、身の程を弁えるという言葉を印象よく自らの気品のなかに馴染ませた女もそういないだろう。無暗なだらしない救済とは対極の、品行方正なる寛容の態度を知っている万代には、稀に相手の方から彼女の間合いへ、他者の感情が無警戒に立ち込めるように感じられる。万代が無意識裡に複数の断片的情報を帰納的に処理する際に発揮される理智である。今がその時だった。喫茶店の窓から差し入る日の光が、エーデルワイスの頬にかかる仄かな陰影を浮き彫りにしているのを、万代の目はごく自然に捉えていた。その翳があんまりうっすらとしているので、あの第六感・虫の知らせの親類たる理智の力が、年頃の愛娘が親に対して抱いている秘め事の非常に健全であることを、万代にこっそりと教えたのであった。
このようにして万代は、幼少より躾けられ今日まで保たれた手弱女ぶりをあだやおろそかにせぬことと、荒れ狂う奔馬を宛らの危うい賢しさを、実に美しく両立させるのであった。
「……ごくごく」
誤魔化すように、エーデルワイスは温くなったカフェモカを喉に流し込んだ。
彼女は優と連絡を取っていた。
【会いたい】
【分かった】
長い謹慎期間に痺れを切らしたエーデルワイスの方から、それは提案された。この後、二人は数か月ぶりに麹町駅前で待ち合わせをする。それはまさに、世間の目を盗んで秘密裡に行われる甘い逢瀬以外のなにものでもなかったし、事実二人はそのような背徳的な罪の心地に酔いしれていた。これがよくできた小説ならば、なにか大いなる物語の力が、駆け抜けるような若い男女の恋路を妨げるかもしれなかった。しかし、かの美少年の前に運命は跪き、少女の無垢なる祈りは容易く神に了解されて、数時間後、彼らはまったく平穏のうちに遂げる感動的な再会に満悦するのである。敵のいない戦場で、十分な刺激となって彼らの恋心を駆り立てるものは別離の期間、そして中学時代の終焉であった。この日の夜が、二人にとっていちばんの可惜夜となるのである。邪魔者はいない、エーデルワイスは満たされていた。
「お母さん、私、これから友達と予定があるんだ」
「そうなの、気を付けていってらっしゃい」
「うん」
☽
娘と別れて万代は一人、家に戻っていた。中学に上がる頃は一人で出歩くことも珍しかったエーデルワイスも、今や自ら友人との約束を取り付け、自主的に外出するまでに成長していたのが、万代にはなによりの幸福に思えた。
鼻歌交じりに家事を済ませた万代は、エプロン姿でソファに腰を下ろし、何の気なしにテレビをつけた。
画面に映し出されたニュース番組では、去年の年の瀬、東京の市街地における出没情報が相次いだ更科優についての特集コーナーが流れているところだった。
『東京から約175km離れた長野県北部の街、果野市。更科優の出生地として知られるメッカへ赴き、現地で取材しました』
『謎に包まれた奇跡の男子中学生、その生態に迫ります』
――もうずっとこの人のニュースばっかりね……。
東京の各地で発生した騒擾から数か月、未だ全国のテレビ局やニュース情報サイトは、更科優の報道を繰り返していた。
「……あら……?」
万代の目に、一つ、小さな違和感が掠れるようによぎった。実のところ、万代は今の瞬間までその違和感に気づいていながら、無意識に無視していた。それが先程の娘の恋心に感応して知覚されたのである。
「……これ……」
テレビの映像には、更科優を映した数々の画像。その神気を遺憾なく放つ存在の横に、必ずと言ってもよい、金髪の少女が映っている。一度気づいてしまえば、今度は見落とす方が難しいくらいである。ほとんどの写真に写る彼女にはモザイク処理が施されていたが、インターネットで検索を掛けてみれば、処理の行き届いていない画像もすぐに見つかった。彼女は西洋人風の顔立ちをした、美しい乙女。
「……エル?」
世にも見習うべき賢母は、こうして一人娘の名前を呟くに至る。
☽
万代は狂ってしまったのか? 彼女は正常だった。万代の例の「奔馬」が暴走したのか? かの名馬は見事に手懐けられている。万代は憤っていたか? 彼女は変わらず闊達であった。なんとなれば万代には、娘が別れしなに麹町駅へ向かうと口にしていたのに配慮して、一つ隣の駅まで足を運ぶ親心さえ忘れていなかったのだから。――ではなにが彼女をこれほどまでに駆り立てるのか? おかしなことに、彼女自身もこの情念にはとんと見当がついていなかった。むしろそれを問い質すために彼女は燃えていたと言ってもよい。自身の心いっぱいに撓められた力の源、その張り詰められた緊張の糸の正体を、彼女は確かめずには措かなかった。
街外れの閑散とした大通りを、万代は音もなく歩いていく。すみずみまでが瀟洒に満たされた淑女の挙措に、いったい誰が不安を見て取れただろう? 完全性の模倣には必ず焦りが含まれることを、ほとんどの者は見逃すか、取るに足らないものとして忘れてしまう。
……そのドアの前に佇んで初めて、焦燥の熱りにとうとう耐えかねた万代は、眦と睫毛の先に媚態をしのばせる長い瞬きをした。この娼婦のようなだらけた仕草がむしろ、薄い瞼に重くのしかかっていた不安の種を、あたかも雪の垂れるごとく万代の身から洗い流すのであった。
「――ごめんください」
「……。……はい」
それゆえ万代を出迎えた雅には、目の前に立つ気品ある妙齢の女が、御伽噺の公爵令嬢のようにすら思われた。
「更科さんのお宅で……」
「ええ」
「私、源と言います」
「はい、どうも」
「突然で申し訳ありません、その、こちら……」
と、万代がなにか差し出すようにするのを察した雅が、
「ごめんなさい、私、目が見えなくて。どんなもの?」
「あら、そうなの?」
ようやく万代の方に、眼前の女に対する興味が湧いた。それと共に、これまで自身を内部から支配していたあらゆる圧力があっさり雲散していくのを、万代は確かに幻視した。驚きの程度においては、盲目の自白をあっさりと受け流された雅も同じ気持ちだった。
☽
「ねえ、私たちで二人を応援しません?」
「え?」
「あの子たちを後押ししてやるんですよ」
「まあ」
雅のような小気味よい子供らしさが、万代にはむしろ新鮮だった。娘の相手の親がこのような人であることを、彼女は心のうちに喜んだ。
すべてを共有した二人は、まるで仲の良い姉妹のように、あるいは色気づいた女学生のように、むずがゆさにも似た逸楽を互いの間に持て余すという豪奢な戯れに興じていた。
花笑みを浮かべる万代の傍で、雅が秘かに次のような恐ろしい決心を固めていたのは、果してこの淫らな幸福のせいであろうか?
――スグルの恋する子について、私は何も知らぬふりをしよう。それがきっと、あの子のためになる。それが、誰のためにも……。




