1.アグニとアウラ
夢を見ていた。
小さな、とても小さな女の子が大きな庭を歩いている。かなりはしゃいでいるようだ。短い手足をこれでもかと振り回している。
女の子の後ろには女性がいた。女性はあらあらと柔らかく微笑みながら、はしゃぎ回る女の子を眺めている。女の子の歩く速さは段々と上がる。
彼女は後ろの女性を見ながら歩いていて、後ろで作業をしていた庭師に気付かなかった。女性が叫ぶ間もなく女の子は庭師にぶつかり、頭を地面に打った。
女性の顔から笑顔が消える。女の子は大きな声で泣いた。必死の形相で庭師は謝るが、女性はその庭師に見向きもしない。女性は泣き叫ぶ女の子の肩を掴み、女の子の大きな黒目を覗き込んだ。
『黙りなさい』
彼女は機械的に言葉を紡ぐ。
『貴女は何かを恨んではいけません。憎んではいけません。怒ってはいけません。妬んではいけません。貴女は貴女の道を行きなさい。そこに余計な物を入れる必要はありません』
女の子はまだ泣いている。その声に呼応するように彼女の背後では『何か』が渦巻き、それは周囲に影響を及ぼす。
しかし女性はその異常を意に介さず、当然のように続ける。
『貴女は一生、一人で生きることしか許されないのだから』
最後に哀し気に女性は微笑み、夢の世界ははじけて消えた。
目を覚ましてまず感じたのは、匂いだった。
ほのかに香るスープの匂い。焼きたてのパンの匂い。そして太陽でいっぱいの布団の匂い。なぜかどれもとても懐かしいと感じる。
瞼の上を柔らかい陽が照らす。自分が起きていると分かってはいるが、どうも意識を覚醒し難い。珍しいことだ。私の寝起きは控えめに言って、限りなく良い。だが今は感じたことのない、心地よいまどろみが体を包んでいる。
寝がえりを打つと、今度はトントンと食材を切るリズミカルな音が聞こえてくる。かなり熟練しているのだろう。音は早く、途切れることが無い。私はその洗練された音に耳を傾ける。一切の無駄がない音は、私を更なるまどろみへと引きずり込む。
無駄のないものは総じて美しいと、私は思う。勿論貴族として無駄を愛する感性は持ち合わせているつもりだが、個人的に好んでいるわけではない。極限まで無駄のないものは目的や意思がそのまま形となって現れる。その潔さは、どんな装飾にも劣ることは無い。
包丁の音が止むと今度は木々のざわめき、鳥の声、水流の音が耳に入る。ああ、なんとも素晴らしい。私は次はそれらの音に身を任せ、布団を自らの体で巻き込んだ。
その瞬間、上から水が降ってきた。
「よお、ブス」
布団は不思議な風に引っぺがされ、水はシーツを濡らすことなく私の顔だけに直撃した。
声の方向を見ると、二人の子供が立っていた。
声の主は赤い髪が目を引く、勝気そうな少年。身長は150センチほど、だろうか。兎の刺繍が入った可愛らしいエプロンをつけている。
その後ろには少年に隠れるように、灰色の髪の少女が立っている。身長は少年より少し低いくらいだ。二人とも麻のような素材の素朴な服を身に纏っている。
何よりも特徴的なのは、その耳だった。二人そろって長くとがった耳。そう。
「……エルフ、ですか」
「ケッ、それがどうかしたかよ。てめえは人間だろうが」
私の呟きに少年は忌々しそうに吐き出し、下を指す。
「いいから早くベッド片付けて、下に降りろ」
「……いきなり水をかけて、挨拶も無しに罵倒する相手の言うことを聞けと?」
「挨拶ならてめえもねえだろうが。俺はエルフなんて名前じゃねえ、人間」
彼の言った言葉をしばし反芻する。見た目通り、強気な少年だ。だが言っていることに筋が通っていないわけではない。乱暴な態度とは裏腹に、案外律義な性格なのかもしれない。ならば。
私はベッドから起き、手早く濡れた髪を整えてカーテシーを披露する。
「これは失礼しました。私はウルペ――いえ、ヘレナと言います。種族は人間です。お二人のお名前を教えていただけませんか?」
流石にウルペースの名を名乗ることは憚られた。ここがどこだか分からないなら、公爵家の名を出すことは危険を伴うだけだ。
何より、今の私がウルペースを名乗ってよいのか、名乗る気があるのか。分からなかった。
赤髪の少年は仰々しく礼をする私に数歩たじろぎ、唇を震わせる。
「……アグニ。種族は見ての通りだ。ちなみにお前のことが嫌いだ」
「奇遇ですね、私も寝起きに水をかける相手のことは嫌いですよ」
バチバチと私のアグニの視線が交錯する。互いに思ったことは1つだろう。
――やっぱり、嫌いだ。
私はアグニから視線を外し、後ろの女の子に笑顔を向ける。
「お嬢さん、よろしければお名前をお聞かせ願えますか」
「……アウラ」
「アウラさん、ですか。麗しくどこか儚いご容姿に合った、良いお名前ですね」
アウラ。その名の意味はそよ風。本当にこの小さな女の子に合っている。歯の浮くようなセリフに少し困惑するアウラを横目に、アグニは首を掻く。
「あのなぁ、てめえに水かけたのも布団引っぺがしたのも、こいつの魔法だぞ」
「やれと言ったのは誰ですか?」
「……師匠が下で待ってる。顔洗ってさっさと降りて来い」
返答に詰まったアグニはそう言い残し、乱雑にドアを閉める。アウラもパタパタとその後に続く。取り残された私は一人呟く。
「お陰様で、顔を洗う必要はありませんね」