邪神のあやちゃんはわらう
玄関のドアを開けた瞬間、妙なにおいに気付いた。腐敗臭ほど不快ではないが、生肉や魚と似た種類のにおい。
玄関に並ぶ靴を見ると、娘の彩は学校から帰ってきている。通学路で何かを拾ってきたのだろうか。
「ただいま。彩ちゃん、帰ってきてる?」
「あ、お父さん。おかえりー」
返ってきた声の聞こえ方からして、彩は奥の部屋にいるらしい。変なものを持ち込まないよう、ガツンと一言いっておかなければ。
そう思いドアを開けた瞬間、私が逆にガツンとやられた。
娘の前には広げられたブルーシート、その上には人体模型のように「皮を剥がれ、内臓の露出した人間」がいた。
「お父さん、ビックリした?」
衝撃のあまり腰を抜かしてしまった私に、彩が声をかけてくる。いたずらが成功したときのような笑顔、その手には「からだのひみつ」とタイトルの書かれた本。
分からない、彩が何かをしたのは分かる。何をしたのかが分からない。
「……ごめん、やりすぎちゃった」
人体に顔を向けた彩の、妻に似てウェーブがかかった髪の中から、半透明の「何か」が伸びる。何本かのそれが人体を撫でまわすと、先ほどまで人体だったものは土の塊へ変化した。
周囲に漂う臭いも、どこか生臭いそれから湿った土のそれへと変わる。
「わたしに、こういうことができるって知って欲しかっただけだったのに」
「……彩ちゃんは昔から、こういうことができたの?」
「生まれたときから、できたよ」
「何で今日、それを教えてくれたの」
「お父さんに、聞きたいことがあったから」
髪の中に「何か」を戻して、彩はこちらに振り向いた。
「お父さん、私が産まれた日のこと覚えてる」
「もちろん、覚えているさ」
人生で一番不安に苛まれ、そして奇跡に感謝した日だ。忘れようとしても忘れられない。
「お母さんと私、二人とも死んでしまうかもしれなかったんでしょ」
「そうだよ。お父さんはお医者さんじゃないから、祈ることしかできなかった」
「その祈りが、届いていたの」
「誰に?」
「邪神に」
「……神様じゃなくて?」
「これ、見て」
彩が髪をかき上げて後ろを向くと、その背には先ほどみたものと同じ「何か」がつながっていた。
「触ってみてもいい?」
「良いけど、すり抜けちゃうよ?」
立ち上がり、手を触れようとしてみても、言う通りに透過してしまう。
「もしかして、邪神って言葉はお父さんの本棚で見た?」
「そう。でも、にょろにょろしてるから邪神って言ってる訳じゃないから」
彩はこの、触手のようなものを通して邪神とつながっていると言う。邪神の知っていることも知りたいと思えば頭に浮かんでくるらしい。
「邪神は別に、あの時のお父さんがかわいそうだから助けてくれた訳じゃないの」
こちらを振り向いた彩は、指で輪を作り目に当てていた。
「この世界を、誰かを通して覗いてみたくて。ちょうど良く私がそこにいたから、手を伸ばしてみただけ」
翼のように背から触手を広がり、何かをかき混ぜるように動く。
その動きに合わせて、周囲の風景が歪みだした。まるで、水に溶かした絵の具のように。娘と私以外の全てが、形を失っていく。
「すごい力があって、興味はあるけど人間の味方じゃない」
触手が動きを止めると、何事もなかったかのように周囲のものが形を取り戻した。
「だから邪神」
「……彩ちゃん。さっきの人体模型みたいなの、作る必要あった?」
「えっ?」
最初からこれを見せてもらえば、リアル人体模型のようなグロテスクな代物を見ないで済んだのではなかったのでは。
「気持ち悪くない?」
「そ、そう? ちょうど今日この本を借りたから、書いてあるものを出してみようと思ったんだけど」
「人間の体じゃなくても良いじゃない、なんでわざわざ」
「何となく、お父さんがビックリしそうなものがいいなと思って」
「そういうところはお母さん似なのかな」
確かにビックリはした。後に続く告白の衝撃が薄れるほどに。妻もスプラッタ映画が好きだった。一緒に見る羽目になったのは一度や二度じゃない。
「お父さんは、わたしが邪神とくっついてても嫌じゃない?」
「別に。生まれたときからくっついてたんでしょ?」
「えっ」
私の返事に目を丸くしている。思い出してみると、この子がこういう表情を見せてくれたのは今日が初めてかもしれない。
「質問、しなくていいかも」
「彩ちゃんは、どんな質問をするつもりだったの」
言いたくないことだったのか、うつむいてしまった。
「……もし、私が『邪神とつながっていなかった』ことにできたら、お父さんはそうして欲しい?」
「どういう意味?」
背中につながっているあれを切る、ということだろうか。ただ、だとしたら「いなかったことに」というのはおかしい。
髪の隙間から邪神の触手が伸び、彩がそれを指でつまむ。
「これを辿った先、邪神のいるところには『時間の順番』や『場所のつながり』が無いの。わたしのいる今だけじゃなくて、昔にも、これからにも手を伸ばせる」
「ああ、タイムマシンで過去を変える、みたいなこともできるんだね」
「そう。わたしの生まれた日に手を伸ばして、わたしもお母さんも助かって、わたしが邪神とつながらなかったことにしたら」
「それだとタイムパラドックスが」
「起こらない。邪神は『原因と結果の関係』に逆らうこともできるから」
想像よりも、娘とつながっている邪神は強大な存在だったらしい。
「でも、お父さんはそうしなくても良いんだ」
「だって、今までずっと『邪神とつながってる彩ちゃん』といっしょだったんだよ? いきなりそうじゃない彩ちゃんになるなんて言われても、困るよ」
「……普通の人はそういう風に考えるんだ」
昔から変わったところのある子だとは思っていた。彩は「変わっている」の幅が、よその子より大分広い。世界一大きいんじゃあるまいか。
「他の人がどう考えるかはわからないよ」
「お父さんが良いなら、やめとく」
「そうしてよ」
邪神と彩の心がどれだけ独立したものなのかは分からないが、話の分かる邪神?で助かった。朝目覚めたら並行世界の自分になっていたなんて、冗談じゃない。
それはそうと、気になっていたことがある。
「彩ちゃん、その触手でいたずらとかやってないよね?」
「してないよ」
「本当に?」
「やってもなかったことにできるから」
「それはいたずらしてるってことじゃないの?」
「なかったことにしてるから、やってない」
「……できれば、なかったことにしなくても済むと嬉しいかな」
これは一度、何をしたのか話を聞いておく必要がありそうだ。
……まあ、それは今日でなくても良いか。
「あ、言い忘れてた。おやつにケーキ買ってきたよ」
「本当!? 何のケーキ?」
「チョコレートのやつ。あの土を片づけて、手を洗ってから食べてね」
「はーい」