動機
良心とは何か。
道徳的な善悪をわきまえ区別し、正しく行動しようとする心の働きだ。
道徳とは何か。
守るべき行為の規準で、善を行い悪を行わないことだ。
善とは何か、悪とは何か。基準は何時人に根付くのか。二年で、あの子と逢ってから居なくなるまでの時間全てで知った。彼女の心は自分の倫理になった。
そこに定義も理由も理想も無い。あの子が望んだものが善となり、望まぬものが悪となる。例外はなく、曲げる気もない。
バルベ家で餓死者ばかりの内情を知って、最初に抱いた感想は驚嘆だった。
非効率と非合理的の極み。此処まで無能な領主も居るのかと驚き、積み上げられた死体の塊すら想像出来なかった。しかも同じ内情の領が其処彼処にあると云う。思っていたよりずっと、この国には膿が溜まっていた。
それらを潰すことに否は無い。元から彼女を追おうとした命、失う事に躊躇いはなく喜びすら有った。別に王家の側に立つ必要は無かったが、悪に善は必要だ。悪を悪と定義づける為にも、見目麗しく暴力を是としない一家は丁度良かった。
だから王家に思い入れはなく、助けた赤子に対してすら碌に感情を持たなかった。健やかであってくれ幸い満ちた生で在れ、きっと彼女は其れを望むから。けれどそこまでで、自分が死ねるなら何の罪の無い赤子が共に殺されようと最期に残るのは歓喜だ。
感慨と云うなら、王家よりも王妃付きのメイドに対しての方が余程強かった。
ジャグリーン。
誰よりも強い狂信者、唯一の為に世界を殺せる人。彼女が何を見ているのかこそ分からないが、本質を垣間見て思ったのは羨望だった。彼女と王妃の関係こそ、もう叶わない理想だった。
命より尊い人が生きている彼女が羨ましい。
その人の為に息出来る彼女が羨ましい。
どちらも自分にはもう出来ない事だ。出来なくなった事だから、羨ましく口惜しく妬みすら覚えた。
あの子が何処にも居ない今、どうせ自分がやる事などエゴに過ぎない。
エゴで、何人も何十人も何百人も殺す。
それを知っていても既に決めた、今更止まらない。
目の前に汚泥が在って埋める手段も有るなら、やらない理由がなかった。
髭だらけの当主の治める家を潰した。教会がこの状況を起こしたと知り、命を懸けて潰せと言われた。死ぬ事が許されたと嬉しく思い、足を止める理由が一つ減った。
人を死なせた。
誰かの悲鳴を見て見ぬ振りした。
声にならない慟哭を、静かな嗚咽を聞いた。
汚い物を見る度にあの子を想った。
彼女は、沢山愛していた。
部屋を覆い尽くす宝石よりも、枯れかけた花を愛していた。
覚えている。憶えている。
何度も彼女との記憶を繰り返しているから、それしか残っていないから。彼女が何を愛するか、何を守るべきかだけはよく憶えている。
普通で平凡な人に手を差し出せる人だった。そんな人間こそ愛せる、とても優しい人だった。
あの子が愛するであろう人々を守ろうと決めていた。
だから、堪えた。
知らない誰かが教会で慰み者にされる姿が、薄暗い地下室で甚振られ、助けてと叫ばれても何もしない己の醜さが堪えた。あの子が愛するだろう人間が、自分の所為で暗い世界で踏み躙られる。許せない事が目の前で起きているのに何もしない自分が憎かった。
堪えるなど聞いて呆れる、なんて醜いのか。苦しいのも悲しいのも彼等なのに。自分には傷つく権利すら無いのに。
進むほどに人の醜さと血の臭さを知った。
噎せた赤の中で、奴等を殺すと決めた。
彼女の望まない事をしているから。彼女を傷つけようとした事が有るから。きっと彼女は此奴等の居る未来を望まないから。彼女が彼女は彼女に彼女へ彼女だけが自分が死んで殺して。
鏡越しの顔は奴等と同じ、醜い顔をしていた。
何年も足音を殺して歩く中で、男と出逢った。
あの子のいた屋敷の片隅にいつの間にか住み込んでいてベルと名乗った男は、何処かあの子に似ていた。
怖がりな所だろうかあっけらかんと笑う顔だろうか、兎に角あの子を彷彿とさせて、だから思わず気が抜けた。教会帰りなのも悪かった。自分の汚さをまざまざと見せつけられた後に彼女の影を見たから、その場から立ち去る事が出来なかった。
偽名は咄嗟だった。あの子を思い返していたから、あの子と植えた花の名を呟いた。未だその名で呼ばれた事は無い事に喜べば良いのか悲しむべきかは、まだ分からない。
弟の様に似ている訳でも王太子の様にメリットが有る訳でもなく、それでも何故か会いにいった。
寂しかったのだろうか。一人で歩く事が、治す間も無く傷が出来る道のりが。とうの昔になくなったと思った感情がまだ残っていたのだろうか。雨の中でも馬を走らせる理由に気付いてはいけないと警報が鳴ったので、思考はそこで打ち切った。
光の漏れる部屋に固執した理由は知らないままでいい。気付いてはいけない。気付いてはいけない。「 」はあの子だけに向ける感情だ。「 」を彼に向けるなど有ってはならない許さない。自分はあの子だけを愛したくて守りたくて生きている、それだけ有れば良い。
だってもう、誰もあの子を覚えていないのだから。
私まで君を忘れれば、君はほんとうにきえてしまうでしょう?
殆ど家から出る事なく死んでしまった小さな女の子を、誰も覚えていない。
君だけに幸せになって欲しかったのに、君は何処に行ってしまったのだろうか。空の向こうか違う世界か、それよりもっと遠く遠くの、誰も知らない何処かなのだろうか。
遺書の一枚でも一欠片の言の葉でも良かった、何故君は何も遺してくれなかったのだろう。たった一つ、君の最期の願いさえ知れたなら、其れを心の一番奥に置いて君の心だと慈しめたのに。
君が大好きな事も君が私に心をくれた事も憶えてる、けれどもうきみのこえをおもいだせないんだ。
傷が増えた。生きる為の技術が身に付いた。敵にも味方にも信用される様になった。どんな地獄を見ても辛いと感じなくなった。沢山の事を知って憤るべき世界を見て少しだけ美しい物を感じて、目の前でそれらが踏み潰されて怒りを殺意に変換する方法も識った。
差し出された手もあった。一人で抱えるな、離れてくれるなと美しい手が伸ばされた。掴む選択肢も有った。縋ってあの子も畜生共も何もなかった事にして、安寧の中を沈んでいく生き様も有った。振り払ったのは自分の意思だ、この手はすっかり血塗られているのに如何して美しい手を掴めようか。
けれど、助けは要らないと宣う癖に別荘に通う事を辞めなかったのは、紛れもなく弱さだった。性別年齢体格色彩、ベルとあの子の違いなど幾らでも理解していたのに離せなかった理由を考えたくない。
あの子が生きていたら何と言うだろうか。喜ぶだろうか、悲しむだろうか。分からない。あの子が生きていればこの道は選ばなかっただろうから。普通に学び着飾り、王太子の隣として頂点に立っただろう。平凡に退屈に貴女の言葉に一喜一憂しながら、笑って過ごしていたのだろう。
それでも会えて良かったと、いつか失ったとしても出逢えて良かったと繰り返す心だけが意識を繋いでいた。
教会の力の殆どを削いだ。王家だけでもこの国を纏められる位、あちこちから権力を奪って王に還元した。この国は大丈夫だと太鼓判を押したのは誰だったか、自分だったか。後は諸悪の根源にトドメを刺すだけだった。
その手筈も整って、ふと想った。
全て終わったらどうしようか。
気付いた。何処にも未来がない事に。
悪を嫌った、殺そうと思って走り抜けてきた。血に塗れた連中を消そうとした。
自分の手も身体も全身が、血に塗れていた。
じぶんはとっくに、ころすべきあくだった。
あの子の笑う顔が思い出せなくなった。
十三年で記憶が薄れて、いつかあの子を全て忘れる日が来る。沢山の人を見てきたから上書きされようとしている。いつか貴女を忘れて、エゴばかりの心臓を持て余して纏った血を辺りに散らかす日が来るのだろうか。醜い自分が、あの子が愛するだろう綺麗な人々を汚す。
許せることではなかった。許す訳がない。絶対に有ってはいけない事だ。許さない。許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない。
だから消そう。自分を、跡形残らず。
元からあの子を追おうと死にたがり続けた生だ、久しぶりに安堵する様な鼓動を聞いた。
消えれる事に安心している。 綺麗な物を汚さない事は、自分の命よりずっとずっと大事だった。
良かったと、久しぶりに心から笑った。悪も記憶の中の彼女も皆々連れて逝こう。天国も地獄も信じていないけど、何処に行こうが後悔はなかった。
姉さん。
私が外に連れ出したりしなかったら、貴女は病にかからなかったのだろうか。
別荘に送られるきっかけを作らなかったら、家で完治したのだろうか。
だったら、貴女を殺したのは私になる。私が貴女を死なせた。
そう思うとやっぱり死にたくなるんだ。
ねえ、姉さん。
一人で逝かせてごめんね。寒かっただろう、寂しかっただろう。あの時すぐに後を追うべきだったんだ。
けれどもどうか、どうか教えてくれないか。
貴女は、最期に何を想ったの?




