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紫苑






ミュート・アクスバリは優秀な子供だった。

その姉は、異常な子供だった。


ミュートは普通の子供に比べてかなり早く言葉を覚え、歩行という動作を行う事が出来ると理解すれば机の上に置いてあった手紙や本から文字を把握した。


親や使用人などの周囲は其れを珍しいものと受け止め、気味悪さと少しの期待を込めた視線で将来の王妃となりうる子供を見た。愛より先に身分を覚えた娘への対応など、そんなものだ。


そんな子供には、姉がいた。

母譲りの亜麻色の目と髪をした、3つ程上の少女だった。賢い子供だった。異常に賢い子供だった。


ミュートが異端扱いされなかったのは姉が居たからだろう。少なくとも妹の方は初めて見る道具は使い方が分からなかったし、言葉を話す前に文字を理解したりもしなかった。


姉が産まれて初めて話した言葉は「赤ちゃん」だったそうだ。

部屋に飾られた妊婦の絵を指差しながら、繰り返し赤ちゃんと言い続けた。

その額縁は、飾り文字で赤ちゃんと彫られていた。


不気味だ、異常だ。けれど初めて生まれて来た自分の子供を両親は殺せなかった。出来るのはなるべく放置して、知識を付けさせないようにするだけだった。

だから姉は一室に閉じ込められ、かなり放置気味に育った。



ミュートは優秀な子供だったから、身内が貴族にとって重要だと教えられたのは三歳の頃だった。

重要なら会わねばならないと判断し、姉の部屋の扉を叩いた。


細い手足と亜麻色を持った六歳の少女に、姉さんと呼んでくれと言われた。姉上や姉様など無礼にあたらない呼び名なら何通りか用意していたが彼女の言う事を優先した方が自然だと判断し、それからミュート・アクスバリにとって亜麻色の少女は「姉さん」になった。



姉さんは利発な人だった。

彼女は部屋を出る事を許されなかったので室内で沢山話をしたが、とても衝撃を受けた。

それまで優秀であると分析していた己の頭が比べ物にならない程、彼女の知識量はずば抜けていた。一を見る前に百を知っているのではと錯覚する程聡明で、知識を使う事を惜しまない人だった。時折この国の何処にも存在しない話を語ってみせたがそれらは全て複雑な法則の上に成り立つ事象で、一月も話せば彼女は自身より遥かに賢いという事実を理解した。



姉さんは不思議な人だった。

半強制的に閉じ込められて暮らしていたにも関わらず、家の外に出る許可が下りて最初に、庭に咲いていた花を触れに行った。陰口を叩いた使用人や閉じ込めた両親を恨まず、似合うと笑って妹の為に花冠を作った。辛くなかったのかと問えば、今が幸せだと蒲公英の綿毛を飛ばしてスカートを翻した。



姉さんは明るい人だった。

見目だけではなく心の有り様が輝いていた。怪我した小鳥の為に涙を流し、雨が屋根に当たる音を歌い、夕暮れの虹に笑った。彼女が見る世界はいつだって輝いていて鮮やかで、その癖とびきり優しかった。

行こうと手を繋いで家を飛び出して、二人なら何処にだって行けると本気で信じてしまいそうだった。


会って半年もすれば、すっかり彼女にのめり込んでいた。退屈で塗り潰されていたキャンパスが、どんどん鮮やかな色で満ちて行く。其れはどうしようもなくこそばゆくて、泣きたくなる程暖かく胸に満ちた。



嬉しいの意味を知った。

優しさの価値を知った。

愛しいの理由と、手を繋いで歩いた。



両手いっぱいの宝石よりも柔らかくて、ずっと暖かいそれが何より大好きになった。隣には彼女がいて、きっと明日も一緒にいれて、大好きだって言い合える。それはまさしく奇跡のようなものだった。同じベッドで布団を被って内緒話をした夜は、毎晩奇跡の夜だった。



一歳の弟と初めて会った日、その目と髪が姉さんと同じ綺麗な亜麻色な事が羨ましくて、けれど彼女と同じ色と言うだけで弟が好きになった。何年も彼女を閉じ込めたから両親の事は好きではなかったけれど、弟は世界で二番目に好きになった。家族で集まってお茶をした時、こんな時間がずっと続けば良いと思って、明日は何をしようかと心が弾んだ。





姉が倒れたのは、その日の夜のことだった。

細い腕が真っ白で、唇も真っ青でずっと震えていた。ベッドの上でか弱く息する彼女を見た時程自分の無力に恐怖した事はない。大丈夫だよと手を伸ばしてくれて、でもその指が凄く凄く冷たくて。怖かった。沢山泣いて、伸ばされた指先がしわしわになるまで涙が止まらなかった。


次の日、沢山の大人が来た。姉さんの病気を治すって名目で来たそいつらは姉さんの手首を刃物で切ろうとした。姉さんが怯えた顔をして、だから、私はーーーー


瀉血と云うのだと、後で姉さんに教えて貰った。

病気を血と一緒に出すらしい。効果は無い事も教わった。精々ぷらしいぼ効果だと。何で姉さんがその事を知っていたのかは分からないが、あの大人達は効果が無い癖に姉さんを傷つけようとしていたと言う事は分かった。私が暴れて奴等を追い払ったのは、間違ってはいなかった。

連中は教会の人間だった。病気は悪魔の所為だと信じ、治す為には神に祈り、多額の金を払わなければならないと宣う連中だった。使用人の一人が独断で教会へ赴き、そのせいで治せもしない癖に奴等が来た。

邪魔したのは妹として、彼女を守りたい人間としては正しい行動だった。けれど貴族としてはやってはいけない事だった。

泣きながら彼等を叩き出した事は当然教会の不興を買った。この国で一番権力を持つ存在を怒らせた、その意味は重い。姉は家に居られなくなり、妹は毎週末一日中教会に赴き祈る事を命じられた。これで済んだのは軽かったと言われた。公爵家でなければ、私が子供で雨の日に生まれていなければその場で刺し殺されていたと、苦々しい顔で父は言った。



姉は別荘に移される事になった。森を抜けた先に在る、丘の上の煉瓦造りの建物だった。私のせいでごめんなさいと馬鹿みたいに泣いた妹に、寧ろ嬉しいよここから見る夕焼けは絶対に綺麗だもんと、白い顔で彼女は笑った。


毎週の教会で、彼女の事を祈った。知りもしなかった神様に、どうか姉を連れて行かないで下さいと悴んだ指を組んで膝をついた。その様は教会の連中の好む物だったらしく、馴れ馴れしく教会の歴史や威光など自慢されるようになった。

如何でも良かった。大切なのは姉で、神でも悪魔でも良いから助けてくれとお願いするのに忙しかった。色々な書物に手を出した。外国の書物や昔の文献、黒魔術に至るまで。医学書に分類される本が山のように家に届き、人体に関する知識ばかりが増えていく。たった五歳の子供に出来る事なんて高が知れているが、学ばずにはいられなかった。いつ姉の体調が悪化するか分からないと考えれば気が狂いそうで、何もしないでいるのが一番しんどかった。



家にいるより別荘に居る時間の方が長くなった。何度も脱走を叱られて部屋に閉じ込められたが、その度に家から飛び出して彼女のいる場所に走った。迷子になって森で一夜明けた事も多々あったが、野生生物に食い千切られるより彼女の所に行けない方が怖かった。

止められなかった使用人が折檻を受ける事を知っていて、それでも森へ走った。六年も姉を放置した大人より自分の我儘を取った。

鍵を掛けられた部屋から脱走したが道に迷って三日間帰ってこなかった次の日、一頭の動物を与えられた。背中に乗せて運搬が出来る生き物で、最初馬だと思った。姉の命名で、その動物はガバーリョと名前が付けられた。


両親は脱走しない事を諦めた。印を付けた木をガバーリョと通って、週末以外会いに行った。体調を崩す事が多くなって長居は出来なくなっていったが、眠りを妨げないように、息を殺して隣の部屋のベッドで眠った。部屋に花を置くのは私の役目で、彼女の為に色とりどりの花を摘んだ。



姉さんの細い手足が枯れ枝のようになって、歩く事も出来なくなった。彼女の命だけを願った。彼女が長く生きられるなら、喜んで彼女以外の全ての心臓を抉ろうと思った。如何して彼女なのかと思ったら悔しくて悲しくて眠れなくなった。大丈夫だから泣かないでと色の無い指に頬を拭われる度、その手が失われる事が怖くて堪らなくなった。


泣いて泣いて眼の中が空っぽになって、それでも涙は止まらない。あの時、世界で一番泣いていたのは間違いなく私だった。



ある日の事だった。

久し振りに彼女の容態が安定して、軽くなら言葉も交わせる日だった。ずっと側に居たかったけれど週末で教会に行かなくてはならなくて、後ろ髪を引かれる思いで別荘を出た。

少しでも良くなるように必死に祈って、夜になれば飛び出るように馬車に乗った。







別荘に戻ると、彼女は冷たくなっていた。

誰よりも優しいあの子は、静かな骸になっていた。



枕元の花瓶が倒れていて、溢れた水が亜麻色を濡らしていた。今朝摘んだ花が亡骸を彩っていて、それだけが鮮やかだった。血より明るい赤い花を縋るように握り締めて、何処か安堵したように口元を綻ばせた彼女は、たった一人逝ってしまった。


それは如何しようもなく悲しくて、愛おしくて、寂しい死だった。


何かが、壊れる音がした。

心臓が溶けて代わりに爪先から頭の上まで黒い水に侵食されているみたいで、あの子に会う前が退屈ならこれは絶望なんだと思ってそれは凄く納得したのでこのまま死のうと思った。





それからの事だけは、よく覚えていない。












ベッドの上に、座り込んでいた。

口からぽろりと鈴蘭の花が落ちて、茎が膝の上に在った。酷い頭痛に胃の中が空っぽになる位吐いて、辺りを見回すと夜だった。

姉が死んだ日から半年が経っていた。しばしば死のうとして、花瓶に鈴蘭が飾られていて思わず食んだのだと思い出したのは明け方だった。

痛む頭に起き上がれなくなりながら、また死ななかったと悔しく思った。邪魔され、止められ、閉じ込められ、それでも自殺未遂を繰り返した。理由はなく、敢えて云うなら疎ましかった。あの子がいなくなって尚息する身体が悍ましかった。



如何しようかと考えた。

夢が覚めたみたいに頭の中がクリアで、冷静に思考回路が組み立てられた。

何をしたいか思い浮かばなくて、取り敢えずあの子を傷付けた全てを殺しておこうかと思った。教会と使用人と両親と自分を。名案に思えたが、あの子が教会や使用人を恨んでいなかった事を思えばやる気は萎んでいって、だから止めた。


あの子の為に何が出来るか。その答えを生きる意味にしようと思った。その考えはしっくり空っぽの胸に落ちたので、少しだけ満足した。



あの子の為に何が出来るか。

あの子は何も恨んでなかった。唯々愛していた。身の回りの在り来たりな美しさを愛していた。

あの子が愛した全てを、守ってみようかと思った。

好きといったものなら覚えていたから、彼女の愛した全てを守る。彼女が一番喜んでくれる気がした。


そうしようと決めて、手始めに弟と交流を持つことにした。彼女と同じ色を可愛がるのは、成る程悪くなかった。ほんの少しの寂しさを殺せれば痛みもなく、唯優しい時間だった。あの苦しい程の喜びは無いけれど仕方ない。それを与えてくれたたった一人の人はもう、この世に居ない。




落ち着くだけの時を悪くないと思えるようになった日、自分の生まれがそれを邪魔をするようになった。雨の日生まれは王妃にならねばならないの決まりは、どうしようもなく邪魔だった。

色々な所に連れ回されて彼女が美しいと言うだろう景色を楽しく思う事もあったが、大抵は興味のない物だった。彼らは姉さんを知らない。姉が物差しの大部分を占めている自分にとって、其れは他人に興味をなくすのに十分すぎる理由だった。

それなのに関心を持たざるを得ない一番は王族で、次期王妃の勧誘が五月蝿かった。国の上に立つとはやるべき事が増えると云う事だが、興味ないものまで背負うつもりは無い。

守りたい物を守り、愛しいと思うものの為に生きてみたいのです。王太子に言った言葉に嘘はない。あの人が愛しいと思う物を守って朽ち果てたかった。

だから産まれたばかりの赤子が殺されかけて守る為に死にかけた時、疲れと同じ位嬉しかった。罪の無い子供が死ぬ事を彼女は決して望みはしない。彼女と同じ年月生きて死ねるなら、彼女の為に何も出来ずともきっと幸福だった。



結局死ななかったが、その代わり面白い位置を手に入れた。



スパイになる。それは、姉さんからの倫理観を発揮すると云う一点においてのみ、素晴らしい立ち位置だった。








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