やって来た魔法たち(五、亡き伯母 <後半>)
「それは、いつの話なの?佐倉さんが伯母さんのところに来てすぐなの?」
「そう、五月の半ばくらいでね、もう伯母のところなんて出て、どっかに何とか下宿して一人でやってこうって密かに計画してたんだけど、あの日に璃久さんを見たもんだから伯母のとこにいることにしたんだよ。確かに『いやらしい子』に違いないか」
「璃久さんは、うちに来た時『ピアノを弾いてるのは誰なの?』って伯母に訊いたんだ。そうしたら伯母は『甥が弾いてるけど暗い子だから』とか言って酷い悪口を言うんだ。璃久さんはすごく上手ね、って言って、聴いてるんだよ。それなのに伯母は、すぐに上に行け、って玄関から怒鳴るんだ。ある日、私にこう言ったよ『璃久ちゃんやヨウさんにお前の目のことが知られたらみっともないよ』って。それで『会ってボロが出ないようになるべく出てくるな』ってはっきり言ってきたんだ!」
佐倉は完全に怒りを噛み締めていて、唇をかんで下を向いてしまった。
さくらはすぐに「最低最悪の伯母さんに違いないわ!」と言った。
佐倉はそれを聞いて少しだけ笑ったが、しばらくの間、むっつりと下を向いたままだった。
さくらはじりじりしてきたが、今にも泣き出しそうな佐倉の目を見つめているうちに、何かを口にすることが出来なくなった。
もっともっと、当時の話を聞きたかったが、佐倉がこのことで苦しそうに唇を噛む姿を見るくらいなら、昔話など、もうどうでもいいとさえ思えてきた。
さくらがちらっと腕時計を見て何か言おうとした時、佐倉は、自分が何分間も黙りこくっていたことを自覚していないかのように、突然続きを話し出してきた。
「それで……五月の終わりかそのくらいに、璃久さんが二日続けて来たことがあって、伯母はちょうど留守だったんだよ。璃久さんは下から『おばさん?おでかけなの?』って何度も言ってたよ。私は二階にいて、カーテンに隠れてずっと見てたんだ。さくらはいやらしいと思う?それでさ、伯母がいないもんで璃久さんが帰ろうとしたんだよ。私は『待って!』って思って、あわててバイオリンを弾いてみたんだ。そうしたら、璃久さんが戻ってきて下でずっと聴いてるんだ!三、四曲は弾いたかな。璃久さんは制服を着ていて、立ったままずっと聴いてくれたんだ。しばらく弾かないで上から見てたんだけど、璃久さんはずっとそこで次の曲を待ってるみたいにして……それでついに、下に降りて行こうと思ったんだ。だけどちょうどその時、伯母が帰ってきちゃってさ、もう最悪!」
「伯母さんに何か言われたの?またイヤなことを?」さくらは興奮してこうきいた。
「それが、バイオリンを弾いてたことには気付かなかったみたいで『璃久ちゃんどうしたの?』って訊いただけだったよ。ホッとしたけど、璃久さんはなんか変なこと言ってさ『水曜日はいつも学校帰りに本を読みに公園に行くの』なんて言ってたかな?それでその前にうちに寄っただけって言ってたよ。すぐにそのまま行っちゃったんだよ」
「ふうん、それでお母さんは何しにきたのかしら?ほんとは佐倉さんのピアノが目当てだったとか?ほんとに公園に本を読むために来たの?」
「そんなことはわからないけど……それでさ、私はまたいやらしくやったよ。さくらにどう思われるかな?伯母には河原で練習してくるって言って、バイオリンを持って追いかけたんだ、璃久さんを!」
佐倉は、またうきうきと話してきた。
「うそ!伯母さんにばれなかったの?公園に行ったって……近くの公園なんでしょう?」
さくらは身を乗り出した。
「そりゃバレないようにうまくやったさ。少し歩くけど、大きな公園があったんだ。あの日は、あんまり人がいなかったから本当にちょうどよかったんだよ。私は公園の外側からそうっと入って……まるで自分が先にいたように、木に寄りかかって後ろから璃久さんを見てたんだ」
佐倉はささやくようにこう言った。
「佐倉さん!それで、それでどうしたの?話しかけたのお母さんに?それともバイオリンを弾いたりしたの?どうなの?」
さくらは喫茶店にいることを忘れてしまったかのように大きな声で訊いた。
「いやらしいと思わないの?よかったよ、まあさくらは襲いかかってもいいっていうくらいだからね。それでさ、璃久さんをしばらく観察したんだ。でも笑っちゃうんだよ、璃久さんはきょろきょろして、なんとさ、教科書を持ち出して、ため息をついてぼんやりしてるだけなんだから」
「教科書?何を考えてるのかしらね?やっぱり、佐倉さんのピアノを聴きに伯母さんのところに来ただけなんじゃない?公園で教科書を読む馬鹿はいないわよ」
「馬鹿はないだろう、変だとは思ったけどね。それで、ついに……私は弾いたよ。笑ってくれて構わないさ!璃久さんがいることにも気付いていないような感じで、木に寄りかかってやったんだよ」
「素敵!ついにやったわね!それでお母さんはどうしたの?」
さくらは大喜びでこう言った。
「ああ、やったんだよ!ついにね。璃久さんは立ち上がって歩いてきたよ。それで私のすぐ近くまで来てずっと立って聴いてるんだ。私はわざとらしく驚いたふりして、ちょっと手を止めたりして……でも弾き続けたんだ。これが偶然でないって知ってるのは、さくらと私だけなんだから絶対に言うなよ。それでね、最後まで弾いて何も言わずにいたら璃久さんの方からこう言ったんだよ。
『さっきもバイオリンの音を聴いたけど、外で聴く方が素敵ね』ってさ!その時はバレてんだと思って、びくびくしたんだけど、すぐに璃久さんが『ここで練習してるなら私はあっちに行きますね』って言ってきたもんで、あせっちゃって、こう言ったんだ。
『邪魔にならないなら後ろで弾いててもいいですか?』ってさ!さくらは厚かましくていやらしいと思う?そしたらさ、璃久さんはにっこり笑って『ありがとう』って言ったんだ!
それでね、さっき向こうにある家の外で聴いてたんだけど、邪魔が入って聴けなくなったから嬉しいって言ってさ、よかったら聴かせてくれって笑ったんだ!
『邪魔』ってのが嬉しかったよ、あの伯母をあんなふうに言ってくれて。それでしばらくバイオリンを弾いたんだ。璃久さんはベンチに戻らないで、そのままずっと目の前で聴いてくれたよ。教科書はベンチに置きっぱなしで、立ったまま」
佐倉はこう言って、さくらの顔をじっと見つめた。
「それが二人の出会いなの?すごく素敵!それで?そこは公園だったんでしょう?二人が工場の裏にある大きな木をデート場所に決めたのはいつからなの?それとも、すぐにはそうならなかったの?その日はどんなふうに別れたの?」
さくらは根掘り葉掘りときいた。
「うん、まあ璃久さんには、私があの家にいる暗い奴だってバレなかったわけだから、うまくこのまま別人になりすましてさ、なんとか会いたいと思ったんだ。私は『もしよかったらまたここに来て、聴いて欲しい』なんて言ったよ。さりげないふうで……ダメなら仕方ないと思ったし。
そしたらさ、璃久さんが『水曜日にまた聴かせてくれますか?』って言ってきたんだよ。びっくりだろう?あんなに可愛い人がはっきりと言ったんだ。もったいつけたりしないでさ!すごく感動したよ。
それでその日は『健全』に別れたんだよ。家に帰ってから来週ほんとうに来るかどうか心配でたまらなかったけど、とにかく璃久さんを近くで見て完全に好きになったんだ!」
「佐倉さんたら、私が恥ずかしいわ。そんなにお母さんを?」
さくらはどきどきして恥ずかしくなり、こそっときいた。
「そうだって言っただろ?それでちゃんと水曜日に、恐ろしく早い時間に公園に行って……授業もサボってさ!わくわくしながら璃久さんを待ってたんだ。璃久さんはちゃんと来てくれたよ、学校帰りにそのまま来てくれたんだ!嬉しくってさ、バイオリンなんてそっちのけで、木に寄りかかっておしゃべりしたんだ」
「お母さんはバイオリンを聴かせてくれって言わなかったの?」
さくらは現実的にこう訊ねた。
「そうなんだよ、あの人はバイオリンを弾けとか言わなかったよ。『来てくれてありがとう』って、こう言ってくれて、ニコニコ笑ってるんだ。
『いつから習ってるの?』とかちょっときいてたけど、ずっと静かに笑ってるんだよ。だから一生懸命笑わせようとしたり、大学の話とか、好きな本のこととかペラペラ一人で話したよ。そのうちにあっという間に時間が過ぎてしまって、璃久さんはもう帰らなくちゃならないだろう?もうたまらなくなって、来週の約束をあわててしたんだ。私が『水曜の他にはダメなの?』って訊いたらさ、璃久さんは『決めてくれればまた来る』って言ってくれて……もう舞い上がったよ!だからすぐに会いたかったから、思い切って『明日は?』って訊いたんだ。そしたら『いいわ』って言ってくれて!あの時は死にそうになったよ」
佐倉は真っ赤になっていて、口を押さえたり自分の頬を両手で挟んだりしながらさくらに話して聞かせた。
さくらはドキドキして、まるで物語の中にいるような気分になった。
「私もそんなふうにやってくれる人がいたらどんなに素敵かしら」
「ほうら!またうらやましくなって。それでね、聞きたいの?次の日に璃久さんとまた会ったんだよ。わざとバイオリンを持たずに行ってみたんだ。でも璃久さんは何も言わなかったよ。つまりさ、バイオリン目当てじゃなくって、私に会いにきてくれたってことだろう?」
佐倉は目を輝かせてこう言った。
「そうでしょうね。きっと……佐倉さんを好きになったのよ!」
「少しはそう思ったっていいだろう?それでさ、その日も木に寄りかかって、二人で色々な話をしたんだよ。璃久さんはすごく楽しくて、優しい人だってことがすぐわかったよ。話し方が綺麗なんだ。あとね、時々おかしなことを言って笑わすんだよ。でも、何をやっても可愛いんだ!とにかく初めてだったよ、あんな人に会ったのは……きっと、さくらも知らない璃久さんの、秘密の姿を知ってるんだ。
それからは、週に何度も公園に来て木に寄りかかって話したよ。二人とも本が好きでさ、お互いに持ち寄ったりして感想を話したり、新しい本を貸してあげたりもしたんだ。でもそのうちに、この公園が危険だってことに、私が気付いたんだ。たいして家から離れていないのに、伯母にバレないのが本当に不思議なくらいだったからね」
「それで?それでどうしたの?佐倉さんはきっと、」さくらはどきどきしながら囁いた。
佐倉は嬉しそうに「ああそうだよ」と言ってから続けた。
「それで、私はどうしても璃久さんと伯母に邪魔されずに会いたかったから、必死でいい場所を探して歩いたんだよ。いろんなとこをうろうろしてさ!馬鹿みたいだろう? でも、璃久さんが無理なく来れる場所で、人に見つからないような、そんな場所はなかなか見つからなかったけど、とうとう私が見つけたんだ!話しただろう?あの工場を見つけて、こっそり入って、あの木を見つけて叫んだよ『僕のものだ!』って!何度も下見に行って……だって自分より先に璃久さんが行った時、危険があったら大変じゃないか!それで必ず私が先に行くから、って約束をして、七月の半ばくらいからはそこで会うようになったんだ」
さくらはもううっとりしてしまった。
これほどまでに大切にしてくれた人がいたのに、どうして璃久は、その愛を捨ててしまったのだろう?
さくらはそう思って、不思議な物語の中にどっぷりと入り込んで、ただぼんやりと佐倉を見つめていた。
「さくら?聞いてるの?それでさ、璃久さんと私は二人して、家の人には言わないでおこうって決めたんだ。璃久さんのお母さんも、そんな、どこの誰ともわからない男と、どっかの工場で会ってるなんて知ったらびっくりするだろうし、結構厳しかったみたいだしね。とにかく二人とも、まあそんなわけでこっそり秘密のデートをあの場所ですることにしたんだよ」
その時ちょうど喫茶店の鳩時計が四時の時刻を知らせてきた。
二人ともびくっとして顔を見合わせた。
「また、こんなふうになって……いいかげんみんなも、おかしいと思ってるでしょうね。どうしても私、佐倉さんとこうしていると夢中になってしまって、仕事なんかそっちのけになっちゃうわ!あんなにちゃんとしなくちゃって決めてたのに」
佐倉は首を振りながらふうっとため息をついた。
「私も同じだよ。でもこれは恐ろしいことだと思わないか?こんなふうに偶然が重なって……何年か前にミキオに会ったことだって、今から考えると恐ろしいよ。私はあいつなんて採りたくなかったんだから。あんな、愛想のカケラも無いような奴をさ!
でも香月ちゃんにデザイン画を見せられて、惹き込まれるような、吸い込まれるような変な気持ちになって、その場で採用を決めたんだよ。自分でも妙だったが……きっと、こうなるように決まってたって、そんなふうに感じるんだ!
璃久さんが幸せでなかったのだって、それはまるで自分のせいのような、そんな気がするんだよ!ちゃんとあそこに立ち戻って話し合ったり、見つめ合ったり、そうしていたら、こんなふうに……ならなかったんじゃないか?」
佐倉はせつない、苦しそうな表情で「どうしたらあの人を幸せに出来るの?」とひとり言のようにつぶやいた。
さくらはこれを聞いて、さっきまでのうっとりした気分が吹っ飛んでいってしまった。
佐倉の辛そうな顔を見ていると、自分もまたせつなく、苦しくなってきて、同時にたまらないほど佐倉を大好きでしょうがない自分を、璃久と重ね合わせた。
ーー『お母さんが、もしもっと早くに佐倉さんと再会出来ていたら?こんなにお母さんを愛してくれた人がいたのに!お母さんだって、きっと佐倉さんを愛していたに違いないのに!』
こうなると、さくらは、璃久と佐倉の再会を邪魔していたのは、まるで自分のような気がしてきた。
そして目の前の、佐倉のせつなそうな苦しそうな顔を見ているうちに、自分でもどうしたらいいのか、まず何をしたらいいのかがわからなくなった。
「佐倉さん!お母さんが幸せでなかったのは佐倉さんのせいなんかじゃないわ、そんなことは絶対に違うから。私はもっと頑張ってお母さんを、もうちょっとだけでも幸せにしてあげることが出来たのよ、だって近くにいたんだもの!でも結局そう出来なかったんだから。なんにも出来ずに、見殺しにしたようなものなんだから!
もっと早くに……もっと早く、お母さんを連れてあの家を出ていたら、佐倉さんに会えて、幸せになれたかもしれないでしょう?私がそれをさせなかったんじゃないかしら?私のために我慢してあの家に縛り付けられていたんじゃないの?」
さくらは話しているうちに、だんだん自分の存在そのものが恐ろしくなってきてぞっとした。
佐倉は、涙を浮かべてさくらに言った。
「同じようなことをミキオが言ってたよ。ミキオはさくらより大きかったから、さくらより、もうずっと前から、璃久さんがあの家で苦しんでたことを知ってたんだ。あいつは、自分が璃久さんを見殺しにして助けなかったって、ずっと苦しんでいたんだよ。でもそれは違うよ。さくらも、ミキオも悪くなんかないんだ!愛する人を……糸で繋がっている大切な人を、いつまでも放っておいた、馬鹿な私が璃久さんをさんざん苦しめたんだよ」
二人はこのまま見つめ合って静かに涙を流した。
四時半を過ぎて、佐倉が「もう帰ろう」と言うまで黙ったままで、ただそこに座っていた。
お読みくださりありがとうございます。




