1-1『囮作戦』
彼は味方だったのだろうか。お互いに同じ敵と戦っているのなら、味方のはずだと思っていたのに。
彼は人間だったのだろうか。少なくともその容姿は、確かにただの少年だったはずだ。
彼は化物だったのだろうか。いいや、化物に違いない。
「……話せる?」
少女を心配するようにかけられた言葉に、彼女は何も答えることが出来なかった。深夜の人通りのない道路の真ん中で、少女は雨に打たれながら横たわっていた。
自分の体から引きちぎられた左腕が、水たまりを真っ赤に染めているのが見える。銃で撃ち抜かれた胸部の激痛、腕を失った左肩から流れ出る血液が、少女の意識をこの世から遠ざけていく。
倒れた彼女の視界に映る黒髪の少年。髪は肩ほどまで伸ばしていて、男なのか女なのか一見判別できなかったが、男子の制服を着ていたためおそらく少年だろうと考えた。
名も知らぬ少年の右目には、仄かに青い光が灯されているのが見えた。右腕には水晶が埋め込まれた、黒い腕輪を装着している。暗闇の中で、彼の体に纏われた白い光がその存在感を際立たせる。その向こうには、暗く澱んだ雨空が広がっていた。
少年は携帯を取り出すと、誰かに電話をかけているようだった。何を話しているかは聞き取れない。もしかしたら助けを呼んでくれているのかもしれないし、ここで少女を始末するつもりなのかもしれない。
電話が終わったのか、少年は携帯をポケットに突っ込んだ。そしてチラッと少女の方を見て、少年は口を開いた。
「また今度、会えると良いね……」
少年の表情は影になって見づらかったが、微かに笑っているように見えた。少年は彼女に背を向けて、スタスタと立ち去っていく。そんな彼の後ろ姿を最後に、少女の記憶は途切れていた。
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「確かに、お前が倒れていた現場で三人分の遺体が発見された。こっちでも調べてみたが、死んでいたのは革新協会の連中で間違いないだろう」
向かいのソファに座って数枚の資料に目を通しながら、男は淡々と話す。最近白髪が増えてきたというアラサーの男は副メイドという謎のコードネームで呼ばれている。今はもう七月、梅雨明けを控え本格的な夏を迎えるこの時期に黒スーツは暑そうだが、事務所の冷房のおかげか彼の顔には汗一つなかった。
「だが、奴の痕跡は見つけられなかった」
持っていた書類を副メイドはテーブルに置いた。それには今回の事件の被害者の氏名と顔写真、大まかな経歴が載っていたが、そこに彼女、姫野織衣の名前はない。
この被害者達を本当に被害者と呼称していいのか、織衣は疑問に思うこともある。死んでいた三人は、いずれも革新協会という凶悪なテロ組織に所属する、人間の皮を被った化物達だ。
既にその三人が始末された事件から三日が経った。その間ずっとモヤモヤと晴れきらない織衣の頭は、さらに混迷極めていく。三日前、織衣の記憶では確かに瀕死状態にまで陥っていたはずだった。走馬灯じみた夢のような世界も見えていたはずだったのに。
だが今はどうだろう? 失ったはずの左腕は織衣の体に綺麗にくっついているし、傷跡すら残っていない。
私の記憶が間違っているのか、いいやそんなはずはない、と織衣は自問自答を続ける。組織の上司に助けられ本部で目覚めた時には、なんて無機質な世界なんだと死後の世界に思わず悪口を言う程だったのに。しかし織衣を助けた上司によれば、彼女には何の外傷もなくただ雨の中、道路の真ん中でスヤスヤと眠っていただけだったという。
ただの夢だと言うのなら、それはあまりにも質が悪すぎた。
「副メイドさん。本当に、私は……」
「わかっている。お前がこんなくだらない嘘をつくような人間じゃないことは俺もわかっているし、華が証明している」
葛根華は、事務所のデスクに座って優雅に紅茶を飲んでいるところだった。雪のような白い髪がよく似合う色白で上品な女性で、事務員として一応OLっぽい服は着ているものの、大体はネットサーフィンに勤しみながら事務所でくつろいでいるだけだ。今もネットサーフィンに夢中のようだが、華と目が合ってしまえば彼女の力で織衣の全てが丸裸になってしまう。心底目を合わせたくないと織衣は思っている。
副メイドはコップに入った麦茶をごくごくと飲み干し、「だが」と続ける。
「俺達は、ようやく奴の尻尾を掴んだかもしれない。奴は噂話や都市伝説で生み出された虚像ではなく、確かに実在するらしい」
半ば妖怪やUMAに近い存在を、副メイド達は信じてくれた。織衣自身、自分の身に起きた出来事だというのに半信半疑だ。だが、その存在がいることを認めるしかない。
奴は、背筋が震え上がるほど残酷で恐ろしい存在だ。それはかのジャック・ザ・リッパーやゾディアック・キラーに近いようで、全く異なっているかもしれない。織衣は彼の存在に兢々としている反面、彼に対する興味も大きいというのが本音だった。
「そこでだ、織衣」
「私を囮に?」
「うむ」と副メイドは頷いた。織衣は首を横に振ったが、構わずに副メイドは話を続ける。
「どういうわけか、奴はお前を助けた。わざわざご丁寧に治療まで施してな。
仮にまた偶然奴と出くわすことになっても、死にはしないだろう」
「怪我はすると」
「保証はできない」
三日前のことだ。組織から織衣に与えられた任務は、革新協会の協力者と思われる男の動向を尾行して探るだけだった。しかしターゲットに尾行がバレてしまったようで、増援を呼ばれて待ち伏せに遭ってしまったのだ。格上、しかも多勢を相手に織衣は戦ってみせたが、相性が悪く敗北同然の状態だった。
「今日の夜はまた大雨だ。まだ梅雨は明けないようでな。仕事をするには丁度いい天気だ。
まぁ、あまり無理はさせたくないが……」
「ううん、行くよ。私もあの人のことは気になってるから」
「ほう、お前が興味を持つとは珍しいな。確かに、『能力者狩り』なんていう存在が生まれたのは、こんなご時世だからかもな……」
能力者狩り。
その存在は、UMAやUFOのように未確認で曖昧な存在だ。最近東京で頻発する未解決の殺人事件の容疑者として、世間一般でもその存在が噂されているだけに過ぎない。当初はそういった未解決殺人事件の容疑者探しに始まり、次第によくある怪談話が尾ひれとして付け足されていき、その話を聞いてしまった人間は例の殺人鬼に殺されてしまう、というオチになっている。そういった噂を広める一般人は、能力者という生き物を知る由もない。
織衣達が彼をただの殺人鬼と呼称しないのは、一連の事件の被害者が革新協会と呼ばれるテロ組織に所属する能力者であると知っているからだ。それらの事件を警察がただの殺人事件として捜査し、ワイドショーで評論家達が的外れな犯人像を作り上げていくのは、革新協会という組織も、能力者狩りという存在も、いや、そもそも能力者という力すら、彼らは知っているわけがないからだ。
織衣はソファから立ち上がり、チラッと華の方を向いてから事務所を出る。廊下に人気はなく、昔はいつも誰かが時間を潰してくつろいでいた目の前の食堂も、今は織衣達ぐらいしか使わない。
誰かがバカみたいに騒ぎ、時空が歪みタイムパラドックスでも起きてしまいそうな喧嘩が起きるのが日常だったのに、それが嫌で嫌でしょうがなかったのに、今はその光景がとても恋しく思えた。それらを失ってしまった今の日常は、織衣にとってとても寂しく感じられた。
食堂横のトイレの落書きは、かつてのまま残されているという。自分達の裏世界での通り名を自慢していくという謎のスペースは、この池袋に組織が移ってからも数十年間に渡って皆が慣習として残しているらしい。
数百もの落書きの中に、『女郎蜘蛛』という言葉があった。それは織衣がこの組織に入った際に与えられた、彼女の能力の通り名だ。遊女と呼ばれる筋合いはないが、タランチュラやセアカゴケグモと呼ばれるのはもっと嫌だなと、なんやかんや織衣はその通り名を受け入れていた。
女子トイレはいつも清潔に保たれている。事務所に常駐している華が定期的に掃除してくれているおかげだ。
織衣は鏡を見る。不安に、何かに怯えているような表情を浮かべる銀髪で白いマフラーを首に巻いた少女がそこに映っていた。
──鏡よ鏡、この世界で一番怖いものは何?
大丈夫、あの人は怖くない。私を、助けてくれたんだから。
そう自分に言い聞かせるように、織衣は心の中で唱えていた。
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「おい詠一郎、急用だ」
織衣が事務所から出ていった後、副メイドは携帯でとある人物に電話をかけていた。事務椅子に座る華は棚から取り出した羊羹をつまみながら、テレビのニュース番組を眺めていた。未だに多くの人々を恐怖に陥れる謎のテロ組織に関する話題ばかりだ。
「……えぇ? わざわざお休みありがとうございますぅ?
違う、急ぎの用だ。今の仕事を中断してでも今晩までに戻ってこい。ボーナスはやる。多分な。
はぁ? 金じゃなくて休みが欲しい? それどころじゃない。能力者狩りの尻尾を掴んだかもしれん」
やや興奮した様子で副メイドは電話の向こうの人物に語っている。華は能力者狩りという言葉を聞いて、副メイドの方に目をやった。
「あぁそうか。何でもいいから早く帰ってこい。今日の晩、織衣を餌にする。
一匹狼を引っ捕らえることぐらい、お前には朝飯前だろう」
副メイドは電話を切って携帯をズボンのポケットに突っ込んだ。そして彼がテーブルの上の書類を片付け始めた時、華は彼に話しかけた。
「全く、いい餌ね」
その声色は透き通っていて、尚且つ威圧感を持たせていた。
「反対か?」
副メイドは華と目を合わせた。彼女と目を合わせると面倒な能力が発動することは彼もわかっているだろうに。華はハァと溜息を吐き、副メイドはフッと笑って華の羊羹をつまんでいた。
「いいえ、残念ながら私も善人じゃないの。
人の心を持たない深ちゃんでも、それなりの策があるんでしょ?」
能力者狩りを探し出すことに、彼らは躍起になっていた。能力者狩りは確かに存在するはずなのに、それらしき人物を見つけ出すことが出来ていない。この組織随一の情報通でもある副メイドですら探し出せない人物だったため、華も興味を持っていた。副メイドは羊羹をゴクンと喉に通すと口を開いた。
「本当に策があると思うか?」
「どうせ詠ちゃんに丸投げなんでしょ?」
「その通りだ。だが、能力者狩りが織衣を殺す可能性は低い」
「その根拠は?」
また羊羹をつまもうとする副メイドの手を華はバシッと手で払う。やれやれと副メイドは羊羹を諦めた様子で、その理由を話し始める。
「能力者狩りが能力者という存在、能力を操る者全員をターゲットにしているなら、織衣が帰ってくることはなかった。奴が人間という生き物に対して興味がなかった場合でも、結果は同じだっただろう。
だが織衣は生きて帰ってきた。つまり、奴が革新協会の連中のみを標的にしていると推測できる。さらに織衣との一件で、奴は俺達──『ツクヨミ』の存在を知った。おそらく何かしらのコンタクトを図ってくるはずだ。
そのタイミングを、こちらで用意する」
それは希望的観測だろうと華は考える。華も誰かを悪に仕立て上げようという気はないが、どうも能力者狩りの存在は織衣にとって危険過ぎるのではと不安がっていた。
能力者狩りによるものと思われる事件現場の惨状を見れば、彼が常人ではないことは明らかだからだ。
「もしも、能力者狩りが私達を敵だと判断したら?」
羊羹を食べ終え、砂糖をたっぷり入れた紅茶を飲みながら華は副メイドに聞いた。
「詠一郎に処分させる」
血も涙もない。副メイド自身も能力者狩りという秩序を乱す存在は放っておけないと考えているのだろう。今や彼は怪談話の一つとして、この東京で広く語られる存在となってしまったが、そういった噂が広がってしまうことはツクヨミとして好ましくないことだ。味方にならないのであれば、野放しにしているわけにもいかない。
「能力者狩りが、わざわざこっちの罠にかかってくれると思う?」
「引っかかってくれるだろう。奴はいつだって織衣を獲物にするタイミングがあったはずだ。しかし奴はご丁寧に治療までして助けたと考えられる。死に体ともなれば、殺そうが犯そうが奴の自由だったはずなのにな。
ただ……」
書類を鞄に入れ終わると、副メイドは腕を組んでソファに座り直した。
「俺達が考えているよりも、奴は人間らしいのかもしれない」
だからこそ、ツクヨミは彼の処遇に悩むのだ。彼は生かすべき存在なのか、処分するべき存在なのか。
織衣が無事に帰ってきたことから、能力者狩りがまだ冷静な判断を下せるほどの理性は持っていると判断できる。仮に能力者狩りが男なら、織衣に多少の下心を抱いた可能性だってある。それに能力者狩りが革新協会を目の敵にしているのであれば、彼らによって何らかの被害を被った人物が能力者狩りになったのだろうと推測することも出来る。
例えそうだとしても、なぜ織衣が無事に帰ってこれたのか華はまだ疑問に思っていた。この数ヶ月の間、都内各地で見つかる凄惨な事件現場を見る限り、彼がまともな正義感を持っているような人間だとは思えなかったからだ。その行為が本当に正義ならば、人々を恐れさせてはいけない。彼の行為は、まさに私怨や復讐のためだけに生きる鬼のようだった。
副メイドは腕時計を時間を確認するとソファから立ち上がり、鞄を持って彼の仕事場へ向かおうとする。が、ドアの手前で立ち止まり、華の方を向いて言った。
「お前はどうなんだ、華。奴のことをどう捉える?」
「そうね。私は早く彼に会ってみたいわ」
フフフと華が楽しげに笑うと、副メイドは引きつった笑みを浮かべていた。
「……相変わらず肝が据わっているな」
呆れたようにそう言って、副メイドも事務所から去ってしまったため華は再び一人ぼっちとなった。華は溜息を吐いて、窓から外の景色を見る。梅雨が明けきらない東京は、今日も大雨が降り続いていた。
果たして、能力者狩りは味方になりうるか。その運命は、今日決まると言ってもいい。
秘密能力者組織『ツクヨミ』は、革新協会に対抗するための戦力を欲していた。そのために、姫野織衣を囮にするのである。