第一部前編 四十三話 リンドバーグの調略 カオル視点
「リンドバーグだと!?」
カオルは驚きを隠せずに目を剥いた。
「ああ、そうだ。何だ、その顔? 知り合いなのか?」
「……いや。リンドバーグを調略するのは無理だ」
「どうして?」
「元々ローズ家との関係は良くないし、王議会員だろうが」
「表向きはな。だが、クロノス国王が即位する前から議会に居て辛辣な発言をする事で有名だ」
「横領で富を蓄えたという話を聞いてる」
サチはカオルの言葉を笑い飛ばした。
「その話は有名だな。だが、それは噂だ。王党派が意図的に流した」
カオルは息を呑んだ。
「これはローズ城に仕えている時、偶然知り得た。イアンの父上ハイリゲ・ローズ卿が隣接するリンドバーグ領を以前から狙っていて、俺にリンドバーグの事を調査するよう依頼したんだ」
サチはイアンの義父からも信頼を得ていたようだ。
「リンドバーグは金持ちだが、その理由は内海に持っている島から貴重なグリンデル鉱石が大量に採掘されたからだ。クロノス国王はリンドバーグからその島を買い取ろうとしたが拒否された。大陸の領主は小さい島であれば、個人的に所有する事を認められ徴税の対象にはならないと法律で定められている。内海の領主の力を削ぐために作られた法が仇となって、リンドバーグに富を専有されることになった訳だ。それに加えて議会で大きな発言権を持っており、国王の息が掛かった者ばかりの王宮では疎ましい存在だった……どうした? 顔色が悪いぞ。船酔いか?」
カオルは吐き気を必死にこらえていた。サチは海の方を顎でしゃくった。
「吐いた方がいい」
カオルが海に吐いている間もサチは話し続けた。
「リンドバーグは王党派から嫌がらせを受けていた。あらぬ噂を立てられ、領地をローズに奪われた事を国王に直訴しても無視された。恐らくシーマが知り得ていない情報だ。知っていたら沿岸の警備をリンドバーグに任せないだろうから。俺はローズ卿からリンドバーグの弱みを探せと言われたが、何も見つからなかった。派手な外見とは裏腹になかなかの人物で慈善団体を設立して多額の寄付もしている……おい、大丈夫か? これから話に行くんだから、身だしなみを整えないと」
「……俺も一緒に行くのか?」
「当然だろ。その為に同じ船に乗ったんだから。イアンの家臣の内、一番と二番がいないと。大丈夫。リンドバーグ卿は穏やかな人だと聞いている。好きだというエデンの酒も娼婦も用意してある」
カオルはサチの手際の良さにうんざりした。リンドバーグの顔は見たくなかったが、行かざるを得ない状況だ。
思い出されるのは八年前。
イアンとユゼフとカオルの三人でリンドバーグの馬車を襲撃した。
イアンには逆らえなかったのだ。カオルは嫌だったのに、無理矢理このゲームに付き合わされた。
字の通りリンドバーグの身ぐるみを剥ぎ、体に落書きまでした。
最低で唾棄すべきこの思い出は心の奥底に仕舞いこみ、ずっと思い出さないようにしてきたのに。
『大丈夫だ。八年も前の事だし、俺も見た目が変わった。そもそも素性はバレてないから気付かれない』
カオルは自分に言い聞かせた。
サチは機嫌良く、鼻唄を歌いながら着替える為に船室へ降りて行く。
リンドバーグの軍船から使いの者が帰って来たのは七時を回った頃だった。
乗船の許可が降り、サチと共にカオルはボートに乗った。リンドバーグの居る軍船へと向かうために。
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リンドバーグ卿は八年前と見た目がほとんど変わってなかった。
小太りな体に赤みを帯びた脂ぎった顔、白髪混じりの薄い頭髪……見ただけでカオルはまた気持ちが悪くなった。
最初、リンドバーグ卿はサチの話に耳を傾け、にこやかだった。サチはリンドバーグに酒を勧め、一緒に乗り込んだ酌婦達に給仕をさせた。そして自らも酌をし、カオルにもするよう促したのでカオルは首を横に振った。
「君はとても賢そうだ。愚か者であれば、私とは話し合おうとせず、攻撃を仕掛けていただろう」
リンドバーグ卿は言った。サチは物怖じせず、いつもの調子で話した。
「攻撃を仕掛ける事も出来ました。でも我々には貴殿の力が必要なんです。貴殿がローズ家を良く思って居ないのは知っています。ですが、クロノス国王に対して疑念はありませんでしたか?」
ジッと澄んだ瞳でリンドバーグを見る。
サチに見据えられると、大抵後ろ暗い人間は目を反らす。
リンドバーグは目を反らさなかった。
サチは再び笑みを浮かべ、話を続ける。
「長引いたカワウとの戦争で得た物は何もありません。民と内海の領主達は不条理に苦しめられたように思います。我々が王城へ攻め入った時にクロノス国王は刺され重症を負っています。もう長くないでしょう。
次に玉座を得るのはイアン・ローズか、国外に居るダニエル・ヴァルタン(ユゼフの兄)か、我々の捕虜であるジェラルド・シャルドンしかいません。
ダニエル・ヴァルタンはこの中で一番相応しいかもしれないが、時間の壁に隔てられた国外に居てあと一年は戻れません。
ジェラルド・シャルドンの命は我々の手中にあります。
ジェラルド・シャルドンの息子シーマが今シーラズ城で国王と王女を匿っていますが……」
カオルは学生時代のシーマを思い出していた。
病気がちなシーマ・シャルドンは十六で学院に入るまで城から一歩も出た事がなかったという。
長引いた病のせいで肌の色が異常に白く、頭髪は染めているが、全身の毛が睫毛に至るまで真っ白だった。
入学当初は世間知らずで体の弱いイメージだったシーマは、夏休み前にはイアンを凌ぐ人気者になっていた。
サチは話を続ける。
「今王立連合軍の指揮をとっているのはシーマですが、このまま上手く立ち回れるかは分かりません。貴殿にとってどちらにつくのが得かよくお考えいただきたい。ご協力をいただけないようであれば、我々は強硬な手段を取らざるを得ません。沿岸警備の人員はせいぜい全部合わせても五千といった所でしょう。今内海を巡回している貴殿の兵は三百程度。我々はその倍はいる。よく考えて下さい。貴方にとってどちらが得か。もしもローズにつくなら今までの地位の保持は勿論の事、ローズ家が以前奪った領地の返却と報奨として更に領地の拡大を約束します」
そこまで聞くとリンドバーグは肩をすくめ、ため息を付いた。
「なるほど。君の言う事は最もだ。若いのに堂々として大したものだ。だからこそ責任ある任務を任されているのだろうが……しかし、抜けている所がある」
「何でしょう? 何でもおっしゃって下さい。納得するまでお話しますよ」
サチは余裕の笑みを浮かべて、曇り硝子の杯に酒を注いだ。酒の好みも事前に調べてサチが用意しておいた物だ。
「君が抜けてるのはイアン・ローズの人格、または精神性についてだ」
リンドバーグは今までの穏やかな雰囲気とは変わって、強くはっきりとした口調で言った。
サチは一瞬たじろいだが、すぐに言葉を返した。
「……確かにイアンはまだ幼い所はありますが、王になれば成長します。まあ、多少利かんきで血気盛んな所もありますが……若いので大目に見て下さい」
サチはそう言って笑ったがリンドバーグは笑わなかった。
「私が言っているのはそういうことじゃない。君は一緒に居て自分の主君に疑念を抱いたことはないのか? だとすれば、一見理性的に見えても君自身にも問題がある」
サチの顔から笑みが消えた。リンドバーグの声が怒気を含んでいたからである。
「あの、どういう……」
「だから、イアン・ローズは君からはどういう風に見えてる? 率直な意見を聞きたい。君にこれを敢えて聞くのは、話してみて君が賢く理性的だと思ったからだ」
「……イアンは熟年の方から見たら未熟かもしれません。感情的で乱暴な所もあるかもしれないが……」
「違う。そういう事じゃない」
リンドバーグはサチの言葉を遮った。
「分かった。君は立場上、自分の主君の悪口は言えない。そうだろ?」
サチは困惑した表情で首を傾げた。
「何か失礼な態度をとってしまったのであれば、謝ります。でも、何分常識知らずで何故お怒りになったのか見当がつかないのです。不躾ながら理由をお聞かせ願えないでしょうか?」
サチは言葉を選びながら慎重に尋ねる。
カオルはその後ろでそわそわしだした。
リンドバーグは不愉快そうにサチを見た。
「そうか。君は何も知らないのだな。新しく家臣に取り立てられたばかりで。だが、ジーンニアという姓には聞き覚えがある。内海の出身かな?」
「ええ」
サチは小さな声で答えた。
リンドバーグは一呼吸置いてから話し始めた。まるで防波堤が崩れたかのように強い言葉の波が押し寄せて来る。
「八年前、私はイアン・ローズに侮辱され辱められ、持ち物を全て取り上げられた挙げ句、大怪我まで負わされたのだ」
「……それは、どういう事ですか?」
「後ろに居る彼に聞けばいい。その顔、忘れてないぞ。お前らのした事も」
リンドバーグは後ろでずっと下を向いていたカオルを指差した。サチはカオルを一瞥してから尋ねた。
「何か誤解されてる可能性はないですか? 人違いとか……八年前ですとイアンも後ろにいるヴァレリアンもまだ十二歳の子供ですよ。貴方のような方に何かする事はできないと思うんですが……」
「人違いなものか! 私は今でもはっきりとあのジンジャーの顔を覚えてるぞ。あいつは私の腹をアバラが折れるほど強く蹴ったのだ。この糞ガキ共は私を騙し、辱め、嘲笑った」
リンドバーグは怒りの余り元々赤い顔を更に赤くさせた。
サチは言葉を返せず、再び後ろに居るカオルを見る。
カオルはずっと下を向いていた。
「子供とは言え、余りにも酷い仕打ちに私はせめてもの謝罪を求めて彼らを探した……そしたら盗んだ宝石を持ってスイマーの宝石店に来た事が分かった。あの目立つ赤毛だ。聞き出した内容からすぐにローズの子息だと分かった」
カオルは宝石店の店主に怪しまれて、慌てて店を後にした事を思い出した。
その後、足がつく事を恐れて盗んだ物は全てスイマーを通るコーダン川の橋から投げ捨てたのだった。
リンドバーグは悔しそうに拳を握りしめる。
「相手が良家の子息であっても、盗まれた物はどうでもいいから謝罪ぐらいはして欲しかった。私はイアンの父ハイリゲ・ローズ卿にこの事をお話したのだ。そしたら……」
リンドバーグの怒りは頂点に達したようだった。真っ赤な顔からは湯気が出ており、今にもお湯が吹き出そうだ。
「証拠はあるのか……そう言ったのだ。あの男は。子が子なら親も親だ。私は謝罪を求めていただけなのに。泣き寝入りするしかなかった」
話が全部終わると、リンドバーグはハンケチで額の汗を拭いた。
「もう話す事はない。早く自分達の船に帰ってくれ。私は君らの船を行かす事はできない」