厚顔彼女
今日は長者原先生に来院を義務付けられた日である。放課後また涼と一緒に、というか涼を引っ張って病院に行くことを考えると梶原の胃がキリキリと痛んだ。涼を丸め込み、こちらの損害を最低限に留めるにはどう策を練ればよいのか。ない頭をうんうんと捻らせていた梶原が顔を上げ、隣の席に向けたのはちょうど午前の授業が終わってすぐのこと。彼にしては珍しく、固い声を発していたからだ。
「……エクソシストごっこか?」
「……」
声の主は斜め後ろの道善。訝しげに目を細めて見るのは机の上、のけぞって逆さまになった涼の顔だった。道善の前の席が涼なのである。
「べっつに!」
じいっと黙って道善の顔を見つめていた涼は後頭部を道善の机から離し、起き上がった。そしてぽかんとそれを眺めていた梶原に気づくと、昼飯出しやがれといつもの不遜な態度で言って欠伸をする。面倒くさいのだろう、道善もそれ以上追及することはなく、梶原焼きそばパン三分で買って来いといつもの不遜な態度で言って欠伸をした。自分でしろや怠惰コンビ!
「なんで俺が!」
「それを言ったらお前の存在価値なくなるぜ」
「観晴は下僕以外の何者でもないんだから早くしろ」
「泣いていい?」
さっきとは違う理由で頭を抱え込んだ梶原に道善と涼は全く頓着せず欠伸を繰り返した。
「涼は俺の鞄の中から勝手に取って。道善くんはきちんと代金払え」
無駄だと悟った梶原が事務的に言うと、涼と道善は心底面倒くさそうに(実際つぶやきながら)不承不承行動を開始した。憎たらしい二人である。面倒くさいのはこっちなんですけど! 喉まで出かけた言葉を梶原は飲み込んだ。出来れば長生きしたいじゃないか。梶原の心情なぞ露知らず、涼は道善の財布から何かをかすめ取って騒ぐ。
「え! 何これ! まさか!」
「ちょっと涼ちゃん。返してくれよ」
「涼、人のお金を盗んじゃだめだって」
「金じゃねーよ地味男! これ、今朝言ったでしょ? 私が観たかった映画だ!」
ぐぐいと目に押し付けられたのは、紙幣とは違いカラフルな紙。興奮した様子の涼の腕を掴んで離し、良く見ると見覚えのある映画の前売り券だった。いつも通りのポーカーフェースの道善とそれを見比べ、梶原は今朝のことを思い出すのだった――
登校中、涼から今(涼の中で)猛烈に流行っているスプラッタホラー映画談義を頭に詰め込まれた約一時間後。合気道部の朝練が終了して、梶原は血みどろの怨霊の幻覚を振り払うようにせかせかと教室に戻っていた。涼の稲川淳二ばりの語りが梶原を追い詰めていた。
横には遅刻して何もしていない道善と、朝からガハハと笑う五郎丸と、朝から怒りで悪魔のような顔になった西戸崎が並んでいた。
「梶原くん。朝練中ぼーっとしないでください。午後もこんなだったら道着で校庭百周してもらいますよ。道善くんと一緒に」
「すみません! 命だけは許してください!」
「はあ?」
怯え切っている梶原には、西戸崎の顔が悪鬼にしか見えない。
「あ、あの!」
「「「「はあ?」」」」
「道善先輩!」
四人にかけられたのは緊張で凝り固まった声だった。見事な四重奏と共に全員が振り向くと、頬をほのかに染めた女生徒が立っていた。そわそわと手を後ろで組んでいる。すると今まで欠伸ばかりで、どんなに西戸崎に小言を言われても半目状態だった(※夜更かしはいけません)道善が、目をカッと開いて爽やかスマイルを女生徒に向けた。あまりの変わり身に三人が呆気にとられていると、緊張しているのだろう、女生徒は小さく震えている唇を開いた。
「ど、道善先輩。合気道部のマネージャーの子に聞いたんですけど、こっここういう、映画が好きなんですよっね!」
「ああ、まあね」
女生徒は後ろ手に持っていた小さな紙を取り出す。この甘酸っぱくてこっぱずかしい雰囲気に全くそぐわない、おどろおどろしいキャッチフレーズがおどろおどろしい文字で描かれたおそらく映画の前売り券だった。予想はついていたが二枚。
「ああああの、良かったら」
女生徒は必死に、それでいて可愛さ健気さに満ちた表情で前売り券を似非好青年道善に差し出す。引き際を考えあぐねていた梶原含む三人は、完全に期を逸して横に突っ立っていた。固唾を飲んで展開を見守るのみ。フレー! フレー! と思わずエールをおくりたくなるほど顔を真っ赤にしながら、女生徒は言葉を続けた。
「これ、私と――」
「え! 二枚も僕にくれるんだ。 ありがとう!」
そう棒読みで言うと、道善はぱっと女生徒の手から前売り券をしっかり二枚奪い取った。春の柔らかだったはずの空気に冷たい風が吹いたような気がした。そして居心地の悪い沈黙。梶原は縋るように三人に視線を送る女生徒から目を逸らした。痛い! 心が! 思わず倒置法!
「……そっそそそそうなんですよ! 楽しんで来て下さい、ね! じゃあ私はこれで!」
道善に背を向け走り去ってゆく女生徒。キラキラと太陽光線で輝いたのは、青春の雨に他ならない。梶原は女生徒を呼び止めようとしていた五郎丸の口を塞ぎ、西戸崎は走り出しかけていた五郎丸の腕を掴んで道の端に寄せた。正義感が強いが空気の読めない彼は彼女を更に追い詰めかねない!
「道善くん今のはひどすぎだよ!」
「どこが。赤の他人にかける義理は持ち合わせてねーよ」
いや、いつもあんた初対面の女子とでも遊び呆けてるだろ!
それを口にするのはあの女生徒に対してアレだったのでつむぐ。しかし顔が怖い割に今のように誘われることが多い西戸崎はきちんと断っているのに、これはどうだろうか。例えに自分を出せないのが虚しい。
あんなに頑張っていたのに、断ることすら面倒くさがって気持ちを捨てるのは人として駄目だろう。道善はそれなりに異性と付き合っていながら、こんな風にされたことも、誰かをちゃんと好きになったこともないのだろうか。初恋すらまだ体験したこともない自分を棚に上げ、梶原は溜め息をついた。自分があしらわれたかのように半泣きになっていた五郎丸(彼はモテないからその辺センシティブなのだ)を落ち着かせた西戸崎は、渋々といった様子で言う。
「道善くんには今彼女がいるからしょうがないんでしょう。誉められたことじゃないですが」
やはり面倒くさがる気持ちも分かってしまうのだろう。これは迂闊に羨ましいとは言えない。
「いや、あいつとはとっくに別れた」
「「「はあ?」」」
今度は三重奏と共に目を見開いた三人に、道善は奇しくも指を三本上げて言った。
「三日。最速記録」
三人がかける言葉もなく天を仰いだことは、言うまでもあるまい。