三十八、青い痣
「……旦那様」
夜。
アオサギに呼ばれ、ミサゴは振り返った。
灯りを落とした邸宅。石床に落ちる音は、ほとんどミサゴのブーツの音だけだった。
「なんだ」
「……いかがされたのです。顔色が悪うございます」
足を止め、そっと自分の頬に触れる。廊下の窓から差し込む月光は、ぼんやりと足元に影を作っていた。
「アオサギ」
「はい」
「……俺は、歯止めが利かなかった」
アオサギは目を細めて主人を見つめる。
「気づかれるかもしれない」
ミサゴは前を向き、シルクハットを深く被り直した。革手袋も整え直すと、杖を握り、また歩き始める。
「旦那様……。いえ、坊ちゃま」
また、足を止めた。
「いつかは、向き合わねばならないことです。
坊ちゃま。私は、坊ちゃまが愛した方とお世継ぎを残されることを、強く望みます。
先代様も、そう、望まれることでしょう」
ミサゴは振り返らず、歩き出した。
今宵も、案内人は死者を連れてあの川を渡らねばならない。
◇
鈍い朝陽が、湖畔のような青と白の部屋をゆっくりと這っている。部屋の暖炉には常に火が入れられるようになり、街も、ブラックソーン伯邸も、冬の貌へとすっかりと様変わりした。
私は朝の支度を終えると、自分の執務室へと入る。机に向き合い、書簡や、領地からの報告書を手に取った。
「奥様、お手紙が届いてましたよ」
顔を上げると、アゲハが赤い盆に乗せた封書を私に差し出す。
「あら、お兄様かしら」
見覚えのある封蝋。引き出しからペーパーナイフを取り出し、手紙を開ける。生真面目で朴訥としたお兄様のことだ。香など焚き込まれてなどいない。だが、どこか、懐かしい匂いが立ち上がる気がした。
紙を開く。
「やっぱりお兄様だわ」
すぐそばで控えていたアゲハに見せるようにすると、彼女は遠慮がちに顔を寄せる。
「見てもいいんですか?」
「あなたなら勿論いいわ。
お義姉様がもうすぐ出産されるのよ。そのことと、殿下からの“褒賞”の話について」
アゲハが手紙を受け取り、その金茶の瞳が文字を追うのを眺めた。
「貯水施設と水門? それを綺麗にするんですか?」
「えぇ、王家から人とお金を出してもらって、もともとあった設備を新しくするようね」
「へぇ……。申し訳ありません。見たことがないものでピンと来ないのですけど……。
奥様のシルヴァミア領ってどんな場所なのですか?」
アゲハから手紙を受け取り、丁寧に皮封筒に戻す。視線をゆっくりと部屋に向けた。窓から差し込んでいる光はガラス窓を通って、水面のように壁に揺れている。どこか、領内の川を思い出す。
「ヴェスパー川という大きな川が領地内を流れているの。水が豊かで、植物も多く、美しいわ。
だけど、数十年に一度、大雨で川は氾濫してしまう。その水害から守るための設備がたくさんあるのよ」
封筒を引き出しに入れた。
「ヴェスパーから水路を引いて、王都や各領地にも流れこむようにしているから、オルダーヴェイル王国で使われている水のほとんどはヴェスパー由来と言っても間違いはないわね。
だから、王家もヴェスパー川に対してはかなり気にかけてくれている。大規模な投資をしてくださるから、シルヴァミアの街も綺麗に整っているの」
「へぇ。見てみたいです」
「でも、水害と戦う街でもあるから、人が多いとは言えない。
昔から住んでいる人たちが、愛着を持って住んでくれている街……という感じね」
私がアゲハを振り返ると、互いに微笑み合う。
「屋敷の裏の森の中に、小さなお社があった。昔はヴェスパーは信仰対象だったのかもしれないわね。
今でも、その社だけは壊してならないってシルヴァミア家では言い伝えが残っているのよ」
帳簿を開いて眺めるが、さほど注視すべき点はない。王家が派遣した優秀な管理人の手が入っているおかげだ。
しかし、シルヴァミアは領主と領民の距離は近かった。だから、ブラックソーン伯領と旦那様の距離感は、私からすると少し不思議だ。
帳簿を閉じて立ち上がり、扉に向かって歩き出す。
「邸宅を見て回りましょう」
「はい」
水のような光が揺蕩う部屋。
それを、後にする。
午後になり、私はモーニングドレスからアフタヌーンドレスに着替える。
私室にも、冬の白い光が室内を満たしていた。冷えた空気の奥で、揺れる暖炉の火がじわりと部屋を緩めている。
手際よく着付けてくれるアゲハに向き合うと、私は椅子に座った。
客人など来ないのだからコルセットを巻かないティーガウンでもいいのだが、ジュリアン殿下などは突然いらっしゃるので、せめてティータイムを終えるまではドレス姿でいるようにしている。
アゲハが私のブーツを取り替えようと腰を落とした。
革の編み上げショートブーツを手に持ったアゲハの動きが止まる。
「……奥様」
彼女が顔を上げる。
「……どうしたの?」
アゲハの視線が、私の顔から脚へ、ゆっくり滑った。私もそれを追う。
スカートの裾を少しだけ持ち上げ、視線の先へ。
足首に青い痣。
「……ぶつけてしまったかしら」
アゲハは床に私のブーツをそっと置くと、私の痣を指先でなぞる。
「私、どんくさいから」
私が笑っても、アゲハは顔を上げない。
彼女は私の脚に触れた指先を擦り合わせるようにし、そして、息を飲んだ。
ぱっと顔を上げる。
「……私も、よくぶつけてしまいます!
奥様がどんくさい訳ではないですよ!」
アゲハが笑う。その美しい顔は、白かった。
「……アゲハ?」
「ティータイムが楽しみですねぇ!
今日はどんなおやつなのでしょうか?
私も少しだけ貰えるので楽しみです!」
私の足にストッキングと新しいブーツを履かせると、彼女は笑んだ表情のまま立ち上がった。
「ティータイムまでは本を読んで過ごすと仰ってましたね!
少し、離れます。シラトリに伝えておきますので、私が戻るまでは、何あればシラトリをお呼びください。では」
一息にそこまで言うと、彼女は脱いだドレスとブーツを抱えてさっと踵を返す。
「……えぇ、分かったわ」
彼女の制服の裾が、揺れる。
その背は、扉の向こうに消えていった。
今はブーツの中に隠れている痣。
私は腰を屈めて、そこにそっと手を触れさせる。
しばらくそうしていたが、やがて私は立ち上がり、書棚から本を一冊抜き取って出窓のソファに向かった。
本を胸に抱く。
こういうことは、たびたびある。
だが、どうしてか、私は本を開く気になれなかった。
暖炉の火は、静かに揺れていた。




