小話
「あ、」
ゆずきはスマホを見ながら呟くと、みるみるうちにその表情を満面の笑みに変えていった。
***
その日、ゆずきは朝から鼻唄でも歌い出しそうなほど機嫌が良かった。いつもより笑顔で、いつもよりテンションが高く、いつもより落ち着きがない。どこかそわそわしている彼女に、恭介は不思議そうに話し掛ける。
「どうしたの、今日凄い楽しそうだね」
「んー、んふふー」
笑うばかりで会話になっていない。しかし惚れた弱みというべきか、会話が成立しなくても嫌な気は一切しなかった。彼女の機嫌が良いと恭介も自然と嬉しくなる。
手を頬に当て幸せそうに笑うゆずきは年より幼く見えた。普段はあまり表情を変えないか、周りに合わせ作った笑みを貼り付けている彼女。それが今は心から嬉しそうな笑顔を浮かべている。
その理由が自分であれば良いのだが、さすがにそこまで自惚れてはいない。勘違い出来るほど彼女を知らない訳でもない。
浮かれているゆずきが落ち着くまで暫く待ってから、恭介は理由を尋ねた。
「あのね、追い掛けてるWeb小説がね、書籍化したの! 一週間後の木曜日に発売するんだって! しかも数量限定でアネメイト特典SSペーパー付きだって!」
ゆずきは組んだ両手を顎に当て首を傾ける。うっとりと熱に浮かされた様子は、同調していた頃に恭介へ歓声をあげていた時よりも熱烈だった。
「一週間後に?」
「一週間後に!」
スマホを操作しながら少女は弾んだ声をあげる。表示された画面を恭介に突き付けて、自慢するように言葉を紡いだ。
「この人の作品なんだよ! 貴族のお嬢様が前世の記憶を思い出して、バッドエンドを回避するために婚約破棄する話! あとこっちも面白くてね。勘違い系なんだけど、主人公は平凡なのにどんどん誤解されて一流の冒険者として崇められる話でね」
あとねあとねとまだまだ終わりそうにない紹介に、少年は穏やかに相槌を打つ。自分といて彼女がこんなにも楽しそうだったことがあっただろうか。深く考えると悲しくなるのでやめた。
きゃあきゃあとはしゃぐゆずきは忘れているのだろう。一週間後は進路相談があることに。
担当教員と一対一での面接は出席番号で割り振られている。HRが終わってから一人十五分ずつ、長ければ三十分ほど話し合う進路相談。
ゆずきの順番はその日の最後だった。そこからアネメイトに行ったところで、いくら急いでも開店時間内には間に合わない。
浮かれ気分の彼女を優しく見守りながら、少年は真実をそっと胸の内にしまった。
***
一週間後の週末。ゆずきは恭介と一緒にアネメイトへ来ていた。
発売日当日には忘れていた進路相談があり、見事に時間が潰された。翌日の金曜日は買い物を頼まれてしまい、アネメイトには行けなかった。書店に寄って通常版を買いはしたが、やはり特典の書き下ろしペーパーもほしい。二巻への布石になるならば二冊購入など安いものだ。
本当ならこの日もゆずき一人で来るつもりだった。しかしデートがしたい恭介が荷物持ちと言う名目で強引に着いてきたのだ。
本を買うだけなので特別面白いことがあるわけではないと伝えたのだが、本人曰く「ゆずきと一緒にいる時間が楽しいから別にいい」らしい。ゆずきは諦めて、彼の好きにさせることにした。
新刊コーナーに直行し表紙を探すが、そこに目的の書籍はなかった。
「んんん、もしかして、無い、の、かも、いやいやいや、まさか、そんな、まだ二日しか経ってない、のに」
小説棚を隅から隅まで見回るゆずき。恭介は品出し作業していた店員に在庫があるか確認する。結果品切れだと判明すると、ゆずきを捕まえ予約するかどうか尋ねた。
「うそぉ! 次入荷だと限定特典ペーパーつかないじゃん!」
迷惑にならない程度に悲鳴をあげたゆずきはその場に崩れかけた。恭介が慌てて支えるが、意識に入らない。そのまま体重をかけてもたれ掛かかった。
ずっと楽しみにしていた書籍の売り切れに立ち直れない。
いや、売れていることは喜ばしいことだ。一週間以内の売り上げは打ち切りか継続かが決まる重要な要素である。二巻、三巻と続きを望む少女にとって、この結果は喜ぶべきものである。
それはそれとして、特典がほしい。
ゆずきはやおら立ち上がる。握り締めたスマホを操作すると、ふらりと出口へ向かっていく。表示された画面には新幹線の時刻表が載っていた。
「ゆずき? どこに行くんだ」
「……他のアネメイトなら、あるかもしれない」
「は? 他って」
「……隣の県なら、あるかもしれない」
「え? いや、ちょっと待っ」
恭介の言葉を最後まで聞くことなく、ゆずきは外へ飛び出していった。慌てて恭介が追い掛けるも、外に出たときには既に彼女はタクシーに乗り込むところであった。
「ごめん恭介! この埋め合わせは必ずするから!」
「え、え、待って、ゆずき!」
手を伸ばすも無情にタクシーは走り去っていく。置いていかれた少年はしばし呆然とその場に立ち尽くした。
***
新幹線に飛び乗り隣県に着いたゆずきは、そのまま電車乗り場へ走る。あと一分で発車されるアナウンスを聞きながら乗り込むと、乱れた息を無理やり静めた。
まだだ、まだ落ち着いてはいけない。私はまだ特典SSペーパーを手にしていない。
スマホと財布を入れた鞄を抱き締めて目を閉じる。イメージするのは完璧な自分。特典付き小説を手に入れて、意気揚々と店を出る自分の姿だ。大丈夫、大丈夫。
そう思っても心配なので、とりあえずさらに隣県への新幹線の時刻表を調べる。新幹線をはしごする準備は万端だ。こちらの方が具体的にイメージ出来て悲しくなった。
目的地にたどり着くと一目散に新刊コーナーに向かうも、目当ての表紙はない。同ジャンル棚、同発売元棚にもない。関係無い漫画コーナーまで探したが、目的の書籍はそこになかった。
「うそ、でしょ………」
呆然と呟く。取り出していたスマホを握り締める。立ち尽くす彼女は一縷の望みをかけ、作業していた店員に話し掛ける。
画面を見ながら書籍名、発売元、発売日、さらに表紙を見せると、店員はバックヤードへ探しに行ってくれた。
待つ間に調べていた電車と新幹線の出発時間を表示させる。画面右上の現在時刻を見る。駅に行くための電車は三十三分後、隣県に行くための新幹線は二十分後に発車する。間に合わない。
アプリを起動させタクシーを調べると、近場にいるようだ。現在地アネメイトには五分後着の表示が浮かんでいる。ここから駅までは車で十分。新幹線の発車に間に合う。いける。
覚悟を決めた少女の元に店員が戻って来る。その手には一冊の本が乗せられていた。
「こちらでお間違いないでしょうか」
本を受け取る。表紙を見る。そこに、恋い焦がれ求めていた小説があった。
「これです、これです! ありがとうございます!」
「はい、良かったです。他にご用件はありますでしょうか」
「大丈夫です! ありがとうございます!」
喜色満面で何度もお礼と共に頭を下げる少女に、店員は笑って持ち場に戻っていった。
会計を済ませ急いで外に出る。大事なのは特典がついているかどうかだ。邪魔にならない端に寄り、袋から取り出す。梱包を剥がしページを捲る。震える指先で開いたその先に、折り畳まれた黄色の紙。特典SSペーパーだった。
本を抱き締めて天を仰ぐ少女を、通行人が気味悪そうな目で見ていた。
***
自宅に着いた頃には既に九時を回っていた。先に寝る準備をしてから、ゆずきは永原に電話をかけると土下座する勢いで謝り倒した。
「ごめん恭介。本当にごめんなさい。申し訳ありません」
「いや、いいよ。楽しみにしてたの知ってたし。それで、買えたの?」
「もちろん! 新幹線飛び乗った甲斐があった!」
「そっか、なら良かった」
恭介は笑いを含んだ声音で答える。彼女がその小説をどれだけ愛し、待ち望んでいたのか間近で見ていたのだ。
買い物中に置いていかれたことは驚いたが、彼女の喜びようを思えば怒るほどではない。
一方ゆずきはデートをドタキャンした申し訳なさと、特典付き小説を買えた歓喜で混乱していた。罪悪感に押し潰されそうだ。
それなら最初から置いて行かなければ良かったのだが、特典が欲しかったのだから仕方ない。
「本当にごめんね。今後恭介もデート中に用事が入ったら私置いて行っていいから」
「え、それは俺にメリットなくない?」
「そうなの? どうしよう。何でもする。いや、出来ないことの方が多いけど、出来る範囲で償う」
「じゃあ、デートのやり直しがしたいかな。明日空いてる?」
「空いてる。空いてなくても空ける。何時にどこに行けばいい?」
食い気味に返答するゆずきに恭介は声を出して笑った。少女はきょとんとまばたきを繰り返す。しばらく笑い続けていた恭介は長く息を吐いて落ち着くと、穏やかな声音で語り出す。
「いや、本当はさ、今日嬉しかったんだよね。普段は俺に合わせてくれるゆずきが、自分のやりたいもんを優先してくれたこと。いつもこっちが付き合わせてたからさ」
恭介が喉を鳴らすように笑う。表情は伺えないが、きっと満足そうな顔をしているのだろう。
ゆずきは電話越しの会話を初めて寂しいと感じた。彼の傍で、顔を見て会話したい。そう思った自分に驚く。
「明日のデート、楽しみにしてる。お休み」
「……うん。お休み、また明日」
会話が切れる。通話が切れる。普段ならすぐベッドに潜り込むのだが、どうにも心が落ち着かない。このまま寝るのが勿体ないような、すぐ眠って明日に備えたいような不思議な感覚に戸惑う。電話が終わったばかりなのに、もう声が聞きたいと思ったのは初めてだ。そわそわと逸る気持ちを持て余す。
部屋のクローゼットを開ける。初めてのデートで、偶然にもペアルックのようになったスカートを手に取った。明日の彼はどんな服装だろうか。
また揃いの服装になったら、彼はあの時のように喜んでくれるだろうか。
隣にかけてあった白のフレアスカートを取り出す。雑誌を見て買ったはいいものの、使うこともなく眠っていた。見出しは確か「男の子に聞きました。彼女に着てほしい服装ランキング!」だったか。
可愛い格好をすれば、彼はあの時のように褒めてくれるだろうか。
散々悩んだ末に何とか決めて、ふと時計を見ると深夜二時を過ぎていた。慌ててベッドに入り布団を被る。どきどきと高鳴る心臓が煩い。
目を閉じれば思い浮かぶ彼の笑顔。思い出すのは先程の楽しそうな声。既に今日になったデートの時間が随分と待ち遠しかった。
翌日、お洒落した彼女に気付いた彼氏がどうしたのかは、分かりきったことだろう。