5 三草の風
三草山を離れ、一ノ谷へ。
戦局は大きく動き、平氏の軍勢は次第に追い詰められていく。
それでも師盛には、どうしても戻らなければならない場所があった。
――知盛のいる、一ノ谷へ。
戦って、わずかに前に進み、また戦って、退く。そんな戦を何度繰り返したか……しかし、気づけば戦場は徐々に山を下り、ついには義経軍の一ノ谷侵入を許してしまっていた。
義経が一ノ谷背後に到着したのは、六日の夜だった。
ちょうど同じ頃、師盛は加古川岸で資盛、有盛と合流した。
「このまま川沿いに下れば、高砂浜に落ちる。そこまで行けば味方の舟に乗り、屋島に戻ることが出来るだろう」
そう言ったのは資盛だった。
「屋島へ?」
資盛の提案は、師盛にとっては意外であった。
「何故、屋島へ? 明日七日には、一ノ谷で矢合わせが始まるというのに……」
「一ノ谷に戻ったとて、何もできまい。このように疲弊した軍では」
師盛は資盛の目をのぞきこんだ。
そこには、不安と絶望しか見られない。
もう、資盛は戦えないだろう。たとえ無理矢理一ノ谷に引っ張っていったとしても、足手まといにしかならない。
「有盛兄上も、同じお考えですか?」
あきらめて、有盛を振り返る。
「仕方あるまい」
そう言ってうつむいた有盛の目は見えなかった。
しかし、その目が資盛と同じであることは見なくても分かる。
師盛はすっと立ち上がった。
「私は、一ノ谷に参ります」
「師盛!?」
兄二人が同時に叫んだ。
「兄上達に、同道していただくつもりはありません。私は、一人でも一ノ谷の陣中へ戻ります」
そして、生田の森で知盛さまと一緒に戦います。とは心の中だけで言い、師盛は馬に向かって歩き出した。
「師盛、無茶をするな!」
と、叫んだのは有盛。
「一番年下のおまえだけを、一ノ谷陣中に戻すなど、出来るわけがない」
そう言ったのは資盛だった。
「ならば、一緒に来てくださいますか?」
振り返り、二人の顔を見つめる。しかし、二人の返事はない。
師盛は兄たちに背を向けた。そして、そのまま言い放った。
「戦の渦中に飛び込む勇気がないのなら、私を止める権利などありません」
我ながら皮肉なもの言いだとは思ったが、止められなかった。
分かってはいた。師盛も感じていたあの恐怖……眼前に迫り来る炎に、全ての気概が燃やされてしまうような喪失感……それは、師盛自身も経験したことだ。
そして、自分はその恐怖から逃れ、立ち直り、戦う勇気を取り戻せたけれど。
兄たちには無理だったのだ。
なぜなら、兄たちには『知盛』がいないから。師盛に勇気を取り戻させたのは『知盛』の存在。そして、自分を肯定してくれた江見が見せた知盛に似た笑顔。
それを与えられなかった二人には、恐怖に打ち勝つことなど出来るはずがない。
兄たちに失望は感じていない。ただ、ほんの少しの寂しさを感じるだけだ。言うなれば、もうこの兄たちと自分とは違う人種になってしまったのだというような。
愛馬に向かって歩く師盛のすぐ後ろに、付き添うように歩き出す姿があった。
師盛がちらと振り返ると、そこには江見の笑顔があった。
「お供いたします。師盛さま」
「江見……」
「この江見次郎の仕える主は、師盛さま以外にあり得ませんから」
「……江見、礼を言う」
師盛に従ったのは、江見次郎とその配下。そして、伊賀平内兵衛清家。
彼らは、屋島に戻るという資盛達を振り返ることなく、師盛と共に一ノ谷本陣を目指した。
翌七日早朝に始まった一ノ谷の戦は、容易に雌雄を決するものではなかった。
源氏大手の範頼軍は、生田の森に進軍し、知盛軍との合戦を開始した。知盛の率いる軍はきわめて堅固で、一進一退を繰り返していた。
そんな中、勝敗を喫するきっかけとなったのは、絶壁に近い鵯越を駆け下りた、義経以下七十騎の精鋭達だった。
思いも寄らない裏手からの襲撃に、平氏軍は浮き足立ち大混乱となった。そして、平氏軍の諸将は相次いで討たれ、生き残った者は先を争って海上へ逃れた。
師盛が一ノ谷陣中にたどり着いたのは、まさにそんなときであった。
「これは……」
呆然と立ちすくむ師盛の耳元に、江見が告げた。
「これ以上、ここにとどまっていても益はありません。舟を調達いたしますので、屋島にお戻りになられますように」
「しかし……」
そう言った師盛の頭の中にあったのは、知盛の姿。
知盛は、生田の森の大将軍であったはずだ。まだ、戦いを続けているのだろうか。それとも、すでに船上に逃れているのか……あるいは……すでに討たれ、亡き人になってしまっているのだろうか……。
「状況は……どうなっているのだろう?」
さすがに、知盛さまは? と訊けずに、そんなふうに江見に尋ねた。
「赤目によりますと……」
と前置きをして、江見が答えた。
赤目というのは、資盛配下の「間者」である。
四日に船中で行われた仏事の後、そのまま船にとどまっていた宗盛は、安徳天皇をともないすでに屋島に向かっている。
西城戸を守る忠度は戦死。
生田の森の副将軍重衡は生け捕りにされ、知盛は海上に落ち延びた。
今も戦っているのは、山の手軍の教経のみ。同じ山の手軍の大将軍通盛は、現在は行方不明。
「知盛さまは、今は船の上なのだな?」
師盛は、改めて確認をした。
「はい、知盛さまをかばわれて、ご子息知章さまは亡くなられましたが……」
江見のもの言いは淡々としていて、なんの感情も表していなかった。しかし、思っているのだろう。親が子を守るのではなく、その逆というのは情けない……とでも。
しかし、師盛には知章の気持ちが分かるような気がした。知盛は、今の平氏には欠かせない人物。彼を守るためならば、自分の命を犠牲にする価値はある……と。
そして、自分もその立場にあったなら、きっとそうしただろうと。
師盛の沈黙を、江見は誤解したらしい。
「師盛さま。戦いたいお気持ちは察しますが、我らの手勢はすでにわずか……ここはひとまず、退かれるべきかと」
「分かった」
師盛はうなずいた。
戻らなければならない。そして、知盛に会わなければ……師盛は考えた。
子供を失って、おそらく絶望の淵にいる知盛を励ますなどと不遜なことは言わない。しかし、せめて、そばにいてあげたい……と。
「戻ろう、屋島へ」
江見は力強くうなずき、師盛は彼の指し示すまま海辺に向かって駒を進めた。
浜にたどり着いたとき、師盛主従は七人になっていた。
そして、季節はずれの雪が舞い始めていた。
「師盛さま」
江見に急かされて、小舟に乗った。
何をそんなに急ぐのだろう……とぼんやりとは思ったが、それ以上考えるには疲れすぎていた。
四日夜から、ろくに寝てもいず、食べてもいない。いや、立ち止まり休む暇もなかった。
常に強いられてきた緊張が、船上の人となったことにより、ふっつりと切れてしまったらしい。
このままでは眠ってしまう。
師盛はあわてて視線を沖合に向けた。
安徳天皇と宗盛、そして女性達を乗せた唐船はとうに姿が見えない。
何艘かの小舟は海上を漂っている。あの中に、知盛はいるのだろうか?
必死に目を凝らしている耳に、人の声がした。浜辺で一人の武士がこちらに向け怒鳴っている。
「おおい! おおい!」
必死に叫ぶその武士に、師盛は見覚えがあった。
「あれは、清衛門公長だな?」
念のため、江見に確認をする。
「はい、間違いなく」
知盛配下の侍である。おそらく、知盛に後れをとったのであろう。
「戻ってやれ」
師盛は言った。
「しかし……」
江見は、めずらしく言いよどんでいる。
「どうした? まだ、この舟には乗れるだろう?」
小舟とはいえ、あと一人くらい乗せても大丈夫なはずだ。
そう言うと、江見は言いにくそうに口を開いた。
「間近に、義経配下の軍が迫っております。戻れば……」
「それならば、なおさら戻ってやらなければ。あの者一人を犠牲にするというのか?」
江見は、はっとしたように師盛を見た。そして言った。
「おっしゃるとおりです。申し訳ありませんでした」
と。
江見の指示で、舟が浜に戻り、公長を乗せようとしたときだった。
駒音がしたかと思うと、十数騎の源氏の武士が姿を現した。
名乗りによれば、畠山重忠の郎党本田次郎親経。
「急げ!」
江見が怒鳴り、公長が慌てた。
とたん、舟がぐらりと揺れ、
「焦るな!」
という江見の声を聞いた次の瞬間、師盛は海中に投げ出されていた。
「師盛さま!」
差し出された江見の手はつかめなかった。
本田の郎党が海に向かって伸ばした熊手に、草刷りがかかってしまったから。
「師盛さまー!」
江見の絶望の叫びを聞きながら、師盛はつぶやいた。いや、叫んでいたのかもしれない。
「知盛さま」
と。
名前を呼ばれたような気がして、ふと知盛は振り返った。
しかし、向こうに見えるのは海。そして対岸。激しくなってきた雪にかすんで、よくは見えない。
ふと、その声が師盛のものだったような気がした。
「そんなはずはない」
知盛はつぶやいた。間者の報告によれば、三草の資盛軍は、加古川沿いに落ち、屋島に逃れているはずだ。
敗走したとはいえ、それなりに善戦していたという。会ったら褒めてやらなければ……生真面目な師盛の顔を思い浮かべながら、知盛は思っていた。
知盛が、
「見るべきほどのことは見つ、今は自害せん」
と入水するのは、これより一年後のこととなる。
雪混じりの風は、三草の山から吹いていた。
「三草の風」全五話、これにて完結です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
十四歳の師盛が、知盛に憧れ、認められたいと願い、戦場で恐怖を知り、それでも自分の意志で前へ進もうとする。
そんな少年の一夜と、一ノ谷の戦いを描いてみました。
史実では、師盛は一ノ谷の戦いで討死したと伝えられています。
一方、知盛の最期は、その一年後。
二人が再び言葉を交わすことはありません。
だからこそ、最後に吹く「三草の風」が、師盛から知盛へ届かなかった言葉のように思えて、この物語を書きました。
『雪月花義経抄』本編とあわせて、お楽しみいただけましたら幸いです。




