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サイレント・キラー  作者: 喜楽 一膳


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1/4

タロちゃん捜索願




以下の文章は、とある警察署へ届いたものです。






こんにちは

私の名前はサイレントキラーです

お城に椎名さんを埋めました

これは最初の犠牲者です

次は井上さんの番です

目標は7人です

私を止めてください

おねがいします






 ふと、自分の半生を遡るといい思い出ばかりである。それほど苦労をすることもなく、基本的には周囲に馴染めて友達も多く、いじめられることもなかった。周りでいじめがなかったということも、重要である。


「山田さんって真面目だよね。」


これが悪口ではないと私は知っている。けれど、真面目だけが取り柄という人物像、真面目だけではやっていけないよという自己肯定を散々聞いてきた。皆、私を信頼してくれるけれど、私を常に対比の材料として利用しているはずだ。あの子と比べてどうか、あの子と比べて不真面目かどうか、その度に


「山田さんのようにちゃんとしましょう。」


それがとてつもなく嫌いで、屈辱的で、恥ずかしかった。私は、ただ普通にやるべきことをやっていただけで、何も褒められるようなことはしていない。それなのに、あの子も先生も大人たちも、口を揃えて


「山田さんは、ちゃんとしている。」


違う。あなたたちが不真面目なだけよ。私はちっとも真面目じゃない。


「いやいや、そうやってなぜ真面目ではないかを説明するところが、真面目なんだよ。」


誰に言われたかは忘れたが、言葉だけは明確に覚えている。これってイジメじゃないんでしょう。みんな不真面目だから、誉め言葉に受け取るような仕組みを持っている。私は違う。違うからこそ声を上げても


「真面目は良いことなんだ。山田さんの個性だよ。」


都合の良い押しつけだけをもらってきた。


「腹が立つ。」


 ベットから起き上がって眼鏡をかける。まだぼやけた視界を馴らすために、重心の定まらない電柱になっている。スマートフォンに指を触れ、ホーム画面には(11:59)と表示されていた。


「もうすぐ5月か。」


この時間から一階のリビングに行くのは、親に迷惑になるだろうとわかっている。大学を卒業したけれど、就職ができずにズルズルと時間だけが経過してしまった。もちろん実家に住んでいるわけで、親の顔色を窺って生活をしている。私が贅沢に物申すなどということはあってはならないので、最大限言葉に気を付けているつもりではある。 ゆっくりと音をたてないように階段を下りる。足裏の皮が板にくっついて、剥がれるたびにニチッと嫌でも音が鳴ってしまう。その音を聞きつけ、隣の部屋にいた母が小さく答える。


「なに?」

「トイレ。」

「降りる時いつもうるさいから、静かに。」


がさがさと布団の擦れる音の後に、大きなため息をついた。なるべく音をたてずに、時間をかけてリビングへとたどり着く。冷蔵庫から残り少ないお茶を取り出して、その半分ほどをコップに注ぐ。全部飲み干してしまえば、やんや言われてしまうからだ。自分で作って補充しようとしても、その度に違う違うと仕事を取られてしまう。二回で飲み干した後、また自室に戻る時に静かに昇ることを忘れて、ぺちゃぺちゃと響かせてしまった。


「ぁ。」


思い出したときにはすでに遅かったが、起きていないことを願ってそろりと寝床に入る。 静かな夜を彩るのは、虫の声と電化製品の動作音と、大きな音を出して走るバイクの反響音。無音ではなく、微かに社会や世界が動いている状況を耳で感じることができることが好き。しかし、蠢く社会の中で昨日と変わらない私という存在は、この世界や社会にどうやって貢献できるというのか。


 朝。あれから7時間ほど経ったであろう。父親が仕事に行く音沙汰を、ベッドに寝ころびながら聞いている。お金を稼ぐ偉大な背中を邪魔するわけにはいかない。母が一人で作業をしているのを確認してから、夜とは違っていつも通りの足取りで朝ごはんを食べようと向かう。


「おはよう。」

「おはよう。」


家族仲が悪いわけではないし、仕事に就けと愛のあるしつこさで毎日言ってくれる。その愛を私はうまく受け取ることができていない。早く、一日でも早くお金を稼いで家族を安心させたいとは思っている。


「京子、あんた運動不足でしょ。陽にもあたってないし仕事見つけるついでに、外行ってきなさい。」

「はいはい。」


外に行って陽に当たることが、精神衛生上でもいい効果を与えるということは周知の事実である。しかし、私の体のことを思っての発言ではないというのも周知の事実で、お客さんが来るから外に行ってなさいという意図である。はいわかりました、が模範解答であって仕事もしていない身分ゆえに、職を探して徘徊するという行動は進んで行うべきである。身支度をして、通いなれた道を歩いて回ろうと思う。 

 その前に、私にはやるべきことがある。ここ2か月の間に書き溜めていた小説がやっと完成したので、それを応募しようと思っている。テーマとしては、”恋愛”で高校生の男女が濃密な駆け引きの果てに、強く結ばれるという物語。応募するのは、日本恋愛大賞2026というものであり、応募要項にあった"2万字以上"を達成するのに2か月間もかかってしまった。毎日パソコンに向かって物語を書き進めていたのではなく、ダラダラと怠惰な時間を送りながら、自称悪戦苦闘しながら昨日完成させた力作である。しかし、締め切りが間もなくという状況で、ギリギリになって応募する自分が少し嫌だった。学生時代もこうして、ギリギリにならないと行動ができない性分であったため、期限内での提出が達成されて問題はないはずなのに、勝手に自己嫌悪に陥っている。

 そもそも、学生時代に恋愛をしたことなんて一度もない。他人に興味を持てなかった私は、迷惑をかけたことぐらいしか周りに影響を及ぼせなくて、人間関係もうまくいってない。喧嘩やいじめはありませんでしたし、陰口を言われたこともないし、仲間外れ的なことをされてもない。クラスメイトという強制的な関係性と環境から解放されれば、すぐに切れてしまうような縁でしか繋がっていなかった。だから、学生時代を恨むにも恨めないのです。


「こんな作品があったんだ。」


過去に賞に選ばれて、出版までありつけた作品が実績として掲載されていた。絶対に読みたくはない。なぜなら絶望してしまうからだろう。やはり、小説を書くにあたっては、様々な経験や人間関係がないと面白くならない。手元にあるただの2万字の羅列では、到底及ばざるがごとし。しかも、高校生の恋愛とくれば、その微かな心の蠢きを丁寧にさらって描かねばならないし、読者の過去を想起させるような実体がないと、とても”恋愛”小説とは言えない。だけども、せっかく完成させたのだから応募してみよう、応募するだけならタダなんだし精神で、応募フォームから送信をする。と言いつつも心のどこかでは


「もしかしたら大賞を受賞するかもしれない。」


と期待している自分が、客観の客観ぐらいの立ち位置にいる。審査員としては、本気で作ったものを読みたいはずだが、一歩引いて冷笑ぎみな視点でものを語っている私には、受賞させるだけの価値は無いにも等しい。作品だけでなく、その作品を作った作者のことも含めて審査をしていると思われるし、優秀な読者というものは、自然と作者の考えや内面を考えてしまうものである。 着替えを揃えて洗面台に置き、39度のシャワーを浴びる。顔・頭・体の順に汚れを落として、白桃の柔肌に触れて本当の姿が露わにならないように、さながら撫でるような手つきでかすめる。

 それが終われば髪を乾かして、乳液で顔を沈めるように包み、お出かけの準備を完了していくまでだ。スマホの充電完了に合わせて時間を構築しているからか、行動のすべてを支配されているような感覚がずっとある。10年前なら陰謀論でも、現在では当たり前の光景となり、思想も変わってしまった。


「さて、行きますか。」


必ず言うこの言葉はある種のおまじない化しており、無意識のうちに発せられている。これは、独り言ではない。


「じゃあ行ってくるね。」

「気を付けてね。」


先ほどの忠告とは裏腹に、気分良く背中を見送る。なぜだか、その声を聞くと首から背中にかけて憑りついていたムカデのような感情が、すっと剥がされるような気分である。やはり親子なんだな、と思ったり思わなかったり。


 散歩をしていると、無意識のうちに緑のあるほうに向かっている気がしている。それは、都会の喧騒に嫌気がさしたというようなサラリーマンの嘆きがなくとも、無気力で惰性的な毎日を過ごす私であっても求めているようで、建物の間からにょきっと顔を出す銀杏の頭を見て、近寄り、その足元を確かめては見上げて雄大さを感じている。ただ見つめていても何も起こらない。何かを起こさなければ、ただ風に吹かれて葉を揺らすだけなのだろうと、まるで自分に言い聞かせるように繰り返している。


「昔も今も変わらぬ背丈、なんと立派でなんと安定的か。」


呟くような独り言を噛みしめる。ふと、その幹につまらぬイタズラがあるように見えた。やはりと感じるのは、最近若い男たちの喚き声やら騒ぎ立てるような笑い声が響いていたからで、目立つ場所にある大きな銀杏なら標的されるのも頷ける。 しかし、そこにあったのは迷い犬の知らせが書かれた紙であった。銀杏を傷つけまいと簡易的なロープで縛られている。


「あ、タロちゃんていうのか。」


ふと我に返り、一瞬の冷や汗と動悸の後に罪悪感がぽつぽつと湧いてくる。


「柴犬、中型、3歳。5月20日の夕方より行方不明。何かありましたらこの住所まで。ご協力お願いいたします。」


こういう時、飼い主はどういった写真を飾るだろうか。愛らしい姿か、家族との思い出のようなものか。しかし、タロちゃんはなんとも悲哀のある顔をしている。物事を見据えたような眼差し、白亜の壁の前に定位置かのように佇む姿。わたしは、スマートフォンを取り出して写真を撮り、ホーム画面に設定した。散歩のついでに犬探しを手伝ってあげようと思う半分、先ほどの罪悪感を解きたい。 交通量が多い道ではなかったが、死角の多い住宅街では迷うに迷えない。今の私と同じように、緑を求めてさまよっているはずである。

 ここから一番近いところで言うと、還熊という神社が山と一体になっていて、60段ほどの階段はタロちゃんほどの若い犬であれば上れそうである。神社の前は一本の長く傾斜の緩やかな道路であり、山の口に還熊と掘られた石柱があって、鳥居をくぐれば階段がある。本来の作法ならば、一礼をして真ん中を避けて歩くべきなのだろうが、周りに人がいなくとも頭を下げるということが恥ずかしく、熱心な信徒のように誤解されることが我慢ならなかった。とても行方知らずの犬を探す人間の心情ではないことは承知の上で、ほんの軽く首を前に出すような形で礼とした。そこから20歩ほど進んだところで、嫌な妄想が脳を支配する。


「まさか、呪われないよね。」


あれを無礼と言うなら無礼であろうが、祟る理由など神の気まぐれである。長くもない後ろ髪を引かれ、膝は来た道を指して笑っている。かすかによぎった呪いの一言で、元の場所に戻って再び礼をする機会を頂いた。今度は深々とやりすぎなぐらいに頭を下げ、どうか見つかりますようにとお願いもして鳥居をくぐる。古びた心の扉を押す陰鬱とした感情を置いて、晴れやかな気分で階段を踏みしめる。まるで神に認められたような解放感が全身を纏っているように感じるが、これは運動をしたおかげだろうな。 踏み外して死の底に落ちてしまわないように、神経をとがらせてながら頂上を目指す。

 長らく訪れることの無かった神社は、まるで枯れた葉を集めたような色合いと静けさで、明るいポスターカラーで塗ってあげたくなるような地味さで、始めて来たかのように感じる。参拝用の社の後ろに本宮がどんと構えており、残念なのは陽の光が遮られて全体を把握することができない。何かを隠すためにあえて設計されているかのようで、その右脇に誰のとも分からぬ墓が、左脇にはこれまでの支援者の名前と金額が掘られた石柱が、私の腰ほどの高さで20数個並んでいる。入り組んだ葉と鋭い枝によって、本当の頂上までの道は閉ざされている。いくら勇敢な犬と言えど、その隙間に入って目指していくには無理だろう。


「ここにいるわけないか。」


手水舎の水も枯れ空っぽの社に、もはや力などないと思わざるをえないが、一応の作法としての参拝をし、誰にも見られていないはずだが、誰かに見られている気配の中で儀式を終えた。捜索の続きをするために踵を返した時、ポンと背中を押される感覚があった。あなやと思った時には、階段の淵まで重心のままにとぼとぼ足を運んでいた。優しいはずの風が、張り付いた上着を吹き通って汗ばんだ脇に触れた途端、私だけが感じる不快感と畏敬の念の混ざった特別なものになった。大きな空洞ほど音をたてるように、現代を生きる無気力な20代の空箱には良く響き、受け取った意味以上の想像を促すだけの力があった。


「・・・真面目に探そう。」


 もしも、タロちゃんが私と同じことを考えていたなら、静かに落ち着ける場所を探しているだろう。同じく育ててもらっている身だからこそわかる、種族の垣根を越えた独特な着想であったが、妙に自信があった。こういう時、小説家ならどういう書き出しにするだろうか。


「ーその可愛げのある姿に惚れたわけではないが、私は犬になりたい。どこか遠くへ。どこか静かで平穏な場所へ。ーみたいにしたらいいのかな。」


物書きに憧れているはずだが、文字にあまり興味を持てていないのである。事実、還熊神社にあった詳細が書かれたパネルや石柱に掘られた文字を読んですらいない。目的であるタロちゃん捜索願いの張り紙にも、少し興味が薄れていた。それを風は見越していたのだろう。命の危機に触れた時、人に眠る大いなる力が呼び起こされて、奇跡を起こすことができる。それに賭けたのだろう。であるなら


「待ってさいよタロちゃん、私が見つけてあげるんだから。」


俄然やる気が湧いてきて、その熱を冷ますべき場所を巡らすには容易く、忘れ去られた古城跡を静けさは終の住処としている。美術館と図書館とコンサートホールが一体となった広大な敷地は、ここ一帯を治める城主の敷地であった。三方を10メートルほどの堀に囲まれて背は山城と一体化して、古代山城に覆いかぶさるように作られた城は歴史を感じさせる。攻めにくい構造をした山城ではあるが、戦をしてでも手に入れたい物が無いこの地では、攻められることも当然なく、第二次世界大戦時の空襲によって多少の損害はあった。その慰霊のための石碑や墓がいくつも並ぶ中で、象徴的である天守閣はあの当時のままの輝きを放っている。夜になればその姿がライトアップされて、さながらポップに燃えているように見えなくもない。この姿、観光客はおろか地元の人間も見上げているためか、その下にあるいくつかの跡を見過ごすことも珍しくはない。


「あそこが一番静かだな。」


確信を持って言ってはみたけれど、私だけが心落ち着くだけかもしれない。 

 還熊から徒歩で15分ほどで、堀(地元の人間は、お堀と呼ぶ)に着く。想像するような、家族・友達・学生の団欒や和気あいあいがある。それを目にして、どんな激しい感情を抱いていても無に帰る。見てはいけないものを見るように、やけに強く吹く風にちょっかいをかけられながら、前髪を気にして直す間に通り過ぎている。少し目頭がうるんで、なぜだか過去に戻りたくなる。着実に目的地に近づいているのに、何も達成されていないのだ。罹る病もない身体を、形容しがたい手によって二つに引き裂かれそう。その手の色は白黒であろうな。色を付けることさえ恐ろしい。回り道をすれば通ることもないけれど、緑を体に浴びて目にすることが何よりも好きだから、両者を天秤にかけたとしても後退することはない。それに、いつかはこうした風景や声にも慣れていくかもしれないし、慣れていかなければならない。目的は、天守閣に向かって登っていく正規の道ではなく、裏山から上り下りが可能な階段である。暗く見通しの悪いけれど、れっきとした道である。その上りの途中にかつての石垣が存在し、予想通りの亡骸の状態であるが、清涼な青々しい木々の色を移した姿は、趣がある。そして、何といっても静かで風がある。正規の方は、坂になってはいるがシングルリフトがあり、売店や食事のできる店が立ち並ぶ。物好きでない限り、ここは選ばない。思うに、ここにタロちゃんはいるだろう。 危険とは分かりつつも、足場の悪い石垣の方へ足を運んでみる。わかりやすく今にも崩れるぞというような所は避けて、安定して積まれた所を選んで進む。すぐそこが交通できる道であるはずなのに、もう山の中腹に来たような景色であり、遭難するということもありえてしまうだろう。幸い石垣が目印になって後には戻れるが、犬の気を探ることはできない。


「はぁ、、、。」


堰き止めていた不安や疲れが、息を揃えて両肩にのしかかる。それは、こんなに美しい場所にいたとしても、どんなに美しい青年の寝顔を見ていたとしても。思わず石垣の端に腰かけた。普段なら虫の一匹で大騒ぎするような私でさえ、この空間と疲れに抗うことは難しい。ふと我に返り、感傷に浸りすぎていたとわかった。何をこんな危険な場所で、たらたらと馬鹿げた陶酔に溺れているのだろうか。そんな私を叱ってくれる人が現れてくれた。


「ちょっと、そこの人。なんでいるの。」


 うす青い清掃服を着たおじい様が、右手に使い込まれた箒を持って訝し気にこちらを見ている。


「はい、すいません。今すぐどきます。」

「あなた地元の人?」

「はい。」

「あのね、この辺りはね、滑りやすいんよ。立ち入り禁止ね。」


その青い服は汚れと混じって、晴れた日の水たまりのような色をしている。穂先も荒々しく、掃除の跡を示すように葉が刺さっている。


「わかりました?」


不機嫌そうな顔に映っただろうか。声をかけてくれたうれしさと、注意されたことへの微妙な気分が、陽炎のような未知の境界を作り出していた。


「はい。すいませんが、、、。」


後を去ろうという背中を呼び止められて、少し驚いた面持ちである。


「この辺りで、この犬を見ませんでしたか。」


スマートフォンのホーム画面を見せる。おじいさんは私の手から取って、顔を近づける。画面を舐めたり食べたりするのではないかと、注意深く指先の動きを監視する。犬探しを手伝ってもらっているし、注意をしてくれたし、けれど複雑な気分で早く返してほしい。


「もう少し上に行ったところで、この色の毛がたくさん落ちてましたね。もしかしたらこの子の毛かもしれないね。」

「本当ですか、ありがとうございます。」

「行方が分からないのかい。寂しいだろうね。」

「いえ、うちの子ではなくて。捜索願いの張り紙があって。」


ほうほうと妙に納得するように顔を揺らしている。


「感心だが、あまり危ないところは止しときな。俺も見たら捕まえとく。」


颯爽と去る背中に、一礼をして見送る。ただでさえ複雑な感情が、この間に幾度も塗りなおされたような気分である。 

 頂上へ続く道は、参道のようである。というのも、仏さんや石柱が並んでいるところもあって、飛びかかる準備をした蛇のようにウネウネと蛇行ぎみに道が続いている。攻めづらいように、労力を少しでも削るための機能であろうし、ちゃんと整備されていないので、砂を掠る足音がガッガッと響く。重い鎧を着た状態では、より大きな音が出て気づかれてしまうだろうな。その名残は、ただ膝に負荷がかかるだけの道になっている。なので、人とすれ違うこともほとんどない。私のように、人込みを避けたい人種は喜んで進む道である。ただ、人気のない場所というのは、かえって落ち着くことができない。当然ながらそこに生活の跡はなく、往来の足跡もなく、響く声さえ見当たらない。緩やかな坂になっていることが有難いのは、もし平坦であればどちらが前で後ろで、西で東であるかの見当がつかないのである。だから、陽当たりのいい今日日であっても、服の裾を引かれるような想像をするし、振り返ってはいけないと決心めいた心持ちでいるのだ。歩くのをやめて、周りの残響に耳を澄ませると、途端それまでの草木のざわめきが止み、穏やかな死が胸に迫る。目を閉じていても開いているようで、あらぬ深追いが脳裏に走り、隠されているべき感覚器が無防備に晒されている。悪意には棘があるだろう。それは己の中から生み出されようとも。その見えない先端でスッと刺し、体の中に溜まった毒風船を割って憑依させる。振り切るためにも俄然足取りを早く、もうタロちゃんのことも片隅に追いやられ、早く頂上へ早く頂上へ、焦りが心を支配していた。


「だれぞそこにおるのか。」


映画かなんかで覚えたセリフを少し誇張気味に演技をして、悪意に抵抗してみせた。当然返答はなく、我が名は~と名乗りを上げて斬りかかる者もいない。奇妙な体験はあったとしても、幽霊や呪いが存在して襲いかかるなどありもしないはずだ。もし恐れているとすれば、無知からくる恐怖や見えないものに怯える古来からの生存本能であって、自ずから湧いてくるわけであるから、私という視点を変えるだけで解決するのだ。 恐怖の道を抜けて、開けた場所に出た。木の高さは揃えられていて、人の気があるということだけで安心できる。心を落ち着けることで本来の目的が鮮明になってくる。


「タロちゃんもここにいるはず。」


気に敏感な犬であるなら、先ほどの道を急いで駆け上がるはず。初めて毛が逆立つ思いをしたであろうし、今なら言葉でなくとも通じるはずだ。ふと、振り返れば眼下に広がる城下町が見える。と言ってもかつての姿をそのまま映すものではなく、現代風の建築が立ち並び、市の名前を冠す駅を見下ろすとまっすぐに道が伸びている。人と車の往来をこの目で見た時、目じりに輝く涙の粒が頬を締め付けるためではなく、輝きをより拾うために瞼の中に戻った。肩まで浸かった安心感の中、往来の人の群れは夜を照らす蝋燭のように見え、気づけば悪意など腹の底に押し込めてしまったようだ。


「やっと風が吹いた。」


額から体の内部を通過して、空っぽの体内はびゅーびゅー騒めきだす。


「汗かいてたんだ。はぁ、疲れた。」


 この気分の良さのまま捜索をしたいところだが、腹の底で暴れる違和感を外に出したい気分であった。溜まるほど押せば固くなっていて、我慢できなくもないけれど、ちょうど公衆便所があるので利用させてもらおう。古びて虫が床を這うのを容易に想像できるけれど、仕方ない。三つある中で、一番奥の便所を使いたい。


「うわ、和式か。」


想像通りだが、久しくこの体勢で座ることもないので、後ろにコケて恥をかかないか心配。しかし、こういった場所でやる花摘みは、極上の心地がするのである。なにかとてつもなく下品な行為をしている気がして、しかしそんなはずはない。保証された下品という名の排泄をしている時は、他者の声が聞こえると軽い電気が管を流れるような感覚があり、神の見えざる手が聖水の儀式に介入しているようである。そう表現するのは危険かもしれないが。


「あら。」


 見慣れた色の見慣れた動物が、扉の下から覗いている。お世辞にも可愛いとは言えない、けれど私は好きな哀愁のある顔。まじかに見ると、眉毛の角度や濃さが表情に影響しているのだな。手も足も汚れて、けれど腹は空かせていないようである。


「タロちゃん、あんた物好きね。」


頭を引っ込めてすたすたとトイレから出ていく。私も手を洗い外に出てみたが、行方不明を知らないだけの健康的な犬そのものが、駆け回っている。


「誰にご飯もらってたの?」


頭をスムーズに撫でさせてくれた。頭から尾にかけて撫でられるのが好きなようである。普段なら汚いと思っても、探し当てれた喜びでかき消されている。ニヤッと笑うかわいらしい柴犬であるが、よく見ると目が真っ黒なのである。動物特有の白眼が見えていない状態は、正月に食べる黒豆のような透き通った漆黒の薄皮で、その目の中に私が映っている。じっと見ていると吸い込まれそうな夜の世界だったが、それとは違う妙な深みがあるような気がする。見つけたことの報告として、写真を撮っておこうとスマホを取り出し、タロちゃんと画角に入るように座って写真を撮った。やはり、哀愁漂う貫禄があった。


「あれ。」


ホーム画面にしていた、あの銀杏の張り紙にあった写真とは少し違うように思えた。


「そういえば、あの写真っていつのかしら。」


背丈や毛並みに大きな違いはないし、模様も一致している。しかし、どことなく雰囲気が被らないというか、中身が違うというような。初対面の犬にこう言ってもしょうがないが、飼い主が一番理解できるであろうし、もし犬違いであっても発見の知らせを待つ別の家族がいるかもしれない。役所などに一方入れたりするのが常識だろうが、このまま連れて行ってしまった。首輪はあってもロープがないので、辺りに落ちていた古びた紐を使って疑似散歩を整える。暴れることもないので、しっかりとお世話してもらっているのだと思うのだが、背後から見てみると全く別の犬に見える。それよか、別の生き物とすら思える。


「あんた、変なもの食べた?」


舌を出して荒々しく呼吸するだけで、返答はない。まぁ、犬が返答すること自体おかしいし、期待する私のほうがどうかしていた。 

 元来た道を通って帰宅する。一周りする形で別の道を辿った方が面白いだろうが、犬を連れての人込みは絶対に回避したく、タロちゃんとなら先ほどの嫌な道も大丈夫だろう。私よりもずいぶん小さな背中に、背負いきれない期待をしょわせているな。わんわんと軽やかに走り出し、蛇行の下り坂もなんのこれしき走っていく。その足取りに不安と、最悪の想像を抱きつつ、いざとなれば頭だけでも守らねばならない。けれど、タロちゃんと走っていると、行きの不安や悪意は一切なく、自然と笑みもこぼれるほどだ。


「私たち、いいタッグかもね。」


お互いに息を荒げながら、タロちゃんも振り返って返事でもしたように思う。


「ねぇタロちゃん、もしかしてさっき見てた?一人ごと言いながら歩くの見てたでしょ。なんかそんな気がしたんだよね。」


当然返事はない。足の速さが加速する。


「視線感じたように思うんだ、わたし。」


今の自分は馬鹿げているかもしれない。けれど、頭に浮かんだ疑問を言わずにはいられなかった。


「あんた、犬じゃないでしょ。」


 何を言っているのかと思われるだろうが、本気だ。こいつは犬ではない。犬の皮を被った、得体のしれないものだ。この生物から大きな悪意を感じる。今にも、私を崖から突き落としたくてたまらないはずだ。

 その答えが出ることもなく、階段の一番下まで着いて元来たルートを真面目に辿って帰る。堀を流れる水を見て、私もタロちゃんもどこなく理解し合えたような気がした。言葉の交わせない二匹が、何の間違いか”気がする”ということだけで、理解し合えた空間が実際にある。堀の魚を見る眼は、捕食者としての犬の眼ではなく、どこか物憂げな感慨深い眼差しである。ただ私がそう見える、そう思うだけで、実際には何の悪意も存在せず、ちゃんとした犬のタロちゃんであるかもしれない。ただ私が、久しぶりの運動で頭がおかしくなっただけかもしれない。 

 住宅街へと戻ってきたら、噂を聞きつけたような人物が、銀杏の下に佇んでいた。


「もしかして、佐藤さんでしょうか。」

「はい。」


私は、その時の顔を生涯忘れないだろう。私の顔を見て、一瞬のうちに顔がまるで夕焼けのように赤くなって、その一瞥の後に目線を下にやった時に目が震えていた。はいと言った後の口が閉じきれない姿を見れば、誰しもが背中をさすってあげたくなる。ゆっくりと膝を崩し、顔を誰にも見せないように手で隠す。私だってそういうリアクションになるだろうな。この人の今までの思い出や人生の一部を、この数秒の間に受け止めたような感覚があり、タロちゃんに謝りたかった。


「すいません、ありがとうございます。」

「タロちゃん、お母さまに会いたがってましたよ。」


背中をさすりながら、良くないことと知りつつ顔を覗こうとした。


「(あれ、泣いてない。)」


てっきり泣き崩れていたのかと思ったが、小刻みに震えているだけであった。足に力が入っておらず、私の方にもたれかかってきた。


「今日はごゆっくりお休みください。」

「そうですよね、すいませんご苦労掛けました。」


なんとか自力で立ち、ふらふらとしながらタロちゃんを抱える。指先がわずかに震えていて、小指の爪の端に赤いものが見えた。


「あ。」


ツーっと鼻血が出ていた。


「すいません、ティッシュを持ってなくて。」

「大丈夫よ。」


 先程とは違う芯のあるどっしりとした声で答える。まるで人が変わったように、重心をうまくとらえて立っているようだ。その目の輝きを、かつてのどのパターンと比べても見当がつかない。それはまるで、全てを悟ったような覚悟の目つきである。安堵が一瞬にして緊張に変わり、重たい風のが足を掴んでいる。日が暮れるのも早いもので、銀杏の大きな影が私たちを包んでいる。


「わんわんわん。」


その静寂を切り裂くように、タロちゃんは帰ろうと吠える。タロちゃんはお母さんを見ているが、佐藤さんは私を見ている。


「では、失礼いたします。」


まだ、一度も愛犬に甘える様子は見ていない。虐待も疑った。何か声掛けをしないと、一つの家庭が壊れるような悪い想像をしたが、あながち間違っていないはずだ。何か引き留める言葉を言わないと。


「もし、お手数じゃなかったら。あの、タロちゃんに会いに行ってもいいですか?」


振り返ったその顔は、沈みかかった太陽を背にして夜へと変わっており、ほのかに目と口元が見えるだけ。赤く塗ったリップとは裏腹に、欠けた歯の一部が見える口元で私にだけ聞こえるように


「無理よ。」


と放った。腕に抱かれたタロちゃんの、あの吸い込まれそうな暗闇を私は忘れない。

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