林檎 ~りんご~
最終話。ベアトリーチェのターンです。
青い空。
見渡す限り、どこまでも続く一面の青。
抜けるような青空の下、あの人は逝った。
パイロン=アドラム。
私がこの世で最も愛した、最初で最後の人。
開け放った窓から入る穏やかな風が、私の髪を優しく撫でる。
窓から見えるのは、いつもと変わらない王都の風景。
広場には、あの日の事がまるで夢であったかのようにたくさんの人々が憩う。
この一週間、私の周辺は目まぐるしく動いた。
カイルの呼吸が止まった瞬間、飛び込んできたのは一人の少女だった。
有無を言わさぬ勢いに、ただただ面食らう私に彼女は一言「助ける」と言った。
彼女から放たれる白い光が二人を包む。苦し気に顔をゆがませる少女と対照的に、青白く精気を失ったカイルの頬が徐々に赤みを帯びていく。
少女と共に駆け付けたパイロンが私の肩を抱く。金色の髪の青年が少女に寄り添い支える。
祈るように見守る私たちの前で、カイルの口が小さく動いた。胸が大きく上下し、瞼がゆっくりと持ち上がった瞬間、私はあふれる涙を止める事も出来ずその場に崩れ落ちた。
強い風が吹き込み、白いカーテンに煽られ何かが落ちた。
ゴロゴロと転がるそれを拾い上げる。
それは、真っ赤な林檎。
パイロンが私に残した最後の林檎だった。
「…結局あなたはまた、私に何も話してはくれなかったわね」
絶対的な権力と冷たい眼差し。逆らうものは容赦なく切り捨て、庇護や慈愛など到底持ち合わせていない氷の宰相。人々は皆口を揃えてそう言った。
「本当はそんな人じゃないのに…。笑っちゃうわ」
本当の彼は、心根が優しく気弱で控えめで、からかうと真っ赤になって狼狽えて、でもはにかんだ笑顔がとてもかわいくて幸せそうに笑う。そんな人だった。
彼に仮面をかぶせたのは私。
背負う必要のない罪悪感に心を閉ざし、一人ぼっちにして苦しめたのも私。
全部、私のせい。
私があなたを好きにならなければ、きっとこんなことにはならなかった。
初めてあなたに会ったあの日、十歳の私の胸は締め付けられるように高鳴った。
穏やかで優しそうな雰囲気に知的な顔立ち、カナリートルマリンのようなキラキラと輝く瞳がとてもきれいで、目が離せなかった。あんなにドキドキしたのは生まれて初めてだった。
もちろんこの想いが叶わない事はわかっていた。三大公爵家の嫡男である彼と辺境地の領主の娘。身分もさることながら、まだ子どもな自分なんかと到底釣り合うわけもなく、目に留まるはずもなかった。分かっていた。分かってはいたけれど、少しでもいいから彼の目に触れたかった。たった一言でもいいから言葉を交わしたかった。
そんな私の拙い初恋が、結果彼の人生を大きく狂わせる事になった。
もしも出会いをやり直せるなら、あの日の事をなかったことにしたい。
あなたの気を引くために林檎を落としたりなんかしない。
絶対にあなたの前に姿は見せない。
あなたを好きになった気持ちだけ、胸の奥にしまい込んでおきたい。
拾った林檎に顔を押しあてると、爽やかな香りが胸いっぱいに広がる。
いつの頃からか、毎朝決まって届けられるようになったアドラム領の林檎。甘くて瑞々しいそれは、病で固形の食べ物が喉を通らなくなったカイルが唯一喜んだ食べ物だった。
「よければ君が食べてくれないか?」
いつもの従者ではなく、彼自身が直接届けに来たのはその日が初めてだった。
「どうしても君に食べてもらいたくて、僕が選んだんだ」
そっと差し出された林檎を、私は静かに一瞥した。
「……私がマールムの林檎以外口にしないのは知ってるはずよ」
いつもの常套句。
幼い頃から言い続けたこの言葉が、どんなに彼を傷つけているか知りつつ、私はその日も冷たく言い放った。
「わかってる」
少し彼が笑った気がした。
「でもこれだけは…どうしても君に食べてもらいたいんだ」
めずらしく食い下がる彼に、少しだけ違和感を感じた。
彼が私の膝の上にそっと林檎を置く。
もう随分と見慣れた林檎。
鮮やかで艷やかなそれは、大きくずっしりと重い。
「今年の林檎は特別出来が良いんだ。蜜も多くてはちみつみたいに甘い。きっと君も気にいるはずだよ」
普段と違いパイロンは饒舌だった。まるで昔のように、砕けた口調で話しかける。
「…いらないわ。持って帰って」
つまらない意地をはる自分に嫌悪する。
なんで私は、彼に対してこんなに可愛くない態度しか取れないんだろう。
顔を背けはしたものの、パイロンの視線はずっと感じていた。その気配を間近に感じた時、私の手に彼の手が重なった。驚いて振り返ると、悲しそうな笑顔の彼と目があった。彼の手は私の手を林檎に導くと、スッと離れた。
「…今日で終わりにする」
その言葉に心臓がツキンと痛んだ。
「カイル殿下の病状も回復されたし、もうこれは必要ないだろうから」
「……」
「今日まで君を苦しめて、本当にすまなかった」
謝罪の言葉は私のモノのはずだ。それなのに…彼はまたこうやって私に頭を下げる。
「やめて…っ! 聞きたくない!」
あなたが謝ることなど何もないのだから。
全部、私のせいなんだから。
「ごめん…」
顔を覆う私に、彼はもう一度謝罪の言葉を口にした。
「…もう、行くよ。いらなかったら捨ててくれて構わない。でも…絶対に人にはあげないで欲しい。これは君のために選んだ物だから…。他の人の手には渡って欲しくないんだ」
もしこの時、私が素直になれていたら。
あなたを寂しいまま逝かせることはなかったのかもしれない。
「じゃあまたね。ベアトリーチェ…」
ドアがパタンと静かに音をたてた。
「いい香り…」
この甘い香りが、ずっとずっと好きだった。
あなたと一緒に食べられる日をずっと夢見ていた。
涙が一筋、頬を伝う。
「もし…っ もしもあなたが一度でも抱きしめてくれたなら…、もし共に生きようと言ってくれたなら…私はあなたの手を取っていたかもしれない……。もしあなたが一言「愛してる」と言ってくれたなら…私はきっとあなたと…どんなに辛くても…一緒に…生きる覚悟を……っ」
涙があふれる。嗚咽が喉を塞ぐ。
私はそっと林檎に口づけ、ひんやりとした固い表面を唇でなぞる。
「もう良いよね…パイロン」
そのまま歯を立てると、シャクリと音を立てて果汁が滴る。
初めて口にしたアドラムの林檎は想像以上に甘く、瑞々しかった。
「私ね…ずっと我慢してたのよ。ずっと食べてみたかったの、あなたの林檎…」
初めてあなたがくれたあの日から、ずっとずっと憧れていた。
「おいしいわ……本当においしい……」
気づけば私の体は床に倒れていた。胸の奥が熱くなり視界がぼやける。
視線を上げると開け放たれた窓から見える青い空。
「…すぐに…行くから……待ってて、パイロン…」
徐々に意識が遠のく。
霞む視界の向こう、にこやかにほほ笑みこちらに手を差し出すパイロンの姿が見えた。
私は今度こそ、迷うことなくその手を取る。
「愛…してるわ…パイロン…」
そうして、私の命は静かに幕を閉じた。
ようやく終わりました。(私の遅筆のせいで)
すれ違いと後悔ばかりの二人は結局生きて結ばれることはありませんでした。
「もし」ばかりを連呼する二人にイライラしながら書いてましたが、過ぎた話を追いかけてるのでどうしようもありません(笑)
ブックマークをしていただいた皆様、お待たせして本当に申し訳ありませんでした。
ありがとうございました。