第十五話
「旦那様!」
「飛び込まないよ、だから放っておいてくれないか」
雅臣は井戸の淵に腰を下ろしていた。
巡査たちも意識は向けているが、取り押さえる様子はない。
栞は汗だくでフラつきながら近づくと、両膝に手をついて呼吸を整える。
一緒に走ってきた黒川警部補に巡査が近づき、何かを伝えた。
「……わかった、これで一安心だな」
黒川警部補は大きく息を吐き、葉巻を口に咥えると、扇子を取り出して仰ぎ始めた。
栞の視線に気付いたのか、腰を屈めて小声で説明した。
「井戸に足場を設置したから、もう安全だよ」
黒川が何か言いたげにしている。
栞は、意味を理解できずに首を傾げた。
「ほら、嬢ちゃんと仲がいい後藤だよ。彼が設置したんだ」
「後藤……ああ、わかります。後藤さんですね。後藤さん」
黒川は不思議そうに栞を見ているが、これは後藤さんに教わった名前を覚える秘術だ。そう簡単に教えるわけにはいかない。
(さて、行ってくるか)
栞は静かに雅臣の元へ歩いて行った。
雅臣が気付いて、近づくなと声を上げる。
「もう疲れたんだ、ハルの元へ行かせてくれ!」
雅臣は井戸の縁に両手をつき、内側へ身を乗り出した。
「こんの———」
栞は井戸へ駆け寄って、雅臣の頬を全力で叩いた。
手の平が痛い。こんなにも痛いのかと片手で押さえてしまう。
それでも七年前のハルを思うと、もっと叩くべきだと思う。
雅臣が倒れ込む。
「ふざけるな! しっかりしろ!!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
背後から大勢の足音が聞こえ、紗代子たちの近づく姿が見えた。
「君に何がわかる! 私は……ハルを裏切ったんだ」
「違う!」
「違わない!!」
この男は何もわかっていない。
「それじゃあ、どうして…あの娘が身投げなんてするんだ!!」
「この大馬鹿野郎!!!」
栞は自分が涙声になっていることを知った。
雅臣の手には、二枚の切符が握られていた。
「それでも、身投げは許さない」
「何を言ってるんだ。もうあいつの元へ行かせてくれないか」
相変わらず、ふざけている。
勝手に好きになって、妊娠させて責任を取れば良いとでも思ってるのか。
相手の人生をなんだと思っている。
「貴方のパートナーが、生きる希望を守ってくれています」
「……どういうことだ」
紗代子へ視線を向けると、彼女は静かに頷いた。
「貴方とハルの子は生きています。会いにいってください」
「どういうことだ、一緒に亡くなったんだろ?」
「その事情は、栞さんから聞いてください」
紗代子は、雅臣が認めたであろう栞に説明させたいようだ。
(まずは亡くなった子の話か)
栞は、それがハルにとって二度目の妊娠だったことを伝えた。
一度目の妊娠は九年前、当時は女中頭が先に気づき、出産させて里子へ出した。
しかし、二度目の七年前は運悪く女中頭が休職していた。
「それなら、どうして一緒に逃げないんだ!?」
「こいつ……」
「栞さん!!!」
千代先輩の声を聞いて、瞼を降ろした。
栞は怒鳴りたい気持ちを息にして吐き出した。
きっと、この男にはわからないのだろう。
黒川が慌てた様子で、栞に駆け寄り手記を渡した。
「一緒に逃げなかった理由ですがね、遺体のそばにあった手記を読んだ方が早いと思いますよ。ね、栞くん」
「……はい」
ハルが七年前に書き残した手記を広げる。
そこには暗がりで書いたであろう、少し大きな文字が綴られていた。
「駆け落ちの日、ハルさんは井戸の横穴へ入ったそうですよ」
「どうして自ら入る必要があるんだ」
雅臣の疑問を受けて、栞は手記に視線を落とす。
堕胎もできず腹の子が大きくなるにつれて罪の意識が強くなったようだ。
一度目の妊娠は紗代子が許してくれた。だが、二度目は許されないだろうと書いてあった。
ハルの苦しみはどれほどであったろうか。
雅臣のところへ行けない。
奥様の顔も見られない。
実家にも帰れない。
そこで、「少しだけここにいよう」と井戸の横穴へ戻る。
今出ればまだ間に合うと思うが、でも出られない。
朝になると今度は、約束を破り、合わせる顔がないとなる。
そうして一日、二日と過ぎる。
最後には衰弱して戻れなくなる。
栞は、手記から読み取ったハルの最期を伝える。
ハルは子供を殺せなかった。
奥様を裏切ることもできなかった。
雅臣を捨てることもできなかった。
駆け落ちすることもできなかった。
だから、何も選べず、自分を世界から消した。
(これが神隠しのはじまりか)
そして、七年後。
その井戸を女中頭たちが逆に、女中を殺さずに社会から消す場所として利用する。
過去の女中は、生きる道が見つからず神隠しになった。
現在の女中たちは生きるために神隠しを使った。
「どうか、彼女のお子さんを愛してあげてください」
栞には、それしか言えなかった。
雅臣は声をあげて泣いた。
巡査たちは、雅臣が身投げしないよう井戸から離れた場所へ連れていく。
周囲の張り詰めた緊張が解けていった。
(ようやく解放されるのか)
いつの間にか、人垣の中に公成がいた。
その顔を見て、力が抜けた自分に驚く。
「ありがとう、栞さん。貴方にお願いして良かったわ」
「誘拐さえしなければ、穏便に終わったのですけどね」
「栞さん!!!」
紗代子は声を出して、涙を流しながら笑っている。
雅臣の暴走というか、計画性の低さで千代は気絶までしている。こちらとしては笑い事ではないのだが、紗代子を悪く思うこともできなかった。
「ハルさんとは仲が良かったんですね」
「そうね、九年前に身籠った時は預からせてくれたんだけど、二人目の時は秘密にしてしまったのね。当時、私に何ができたのかしら。今も悩んでる」
紗代子は口角を上げたまま、涙を拭っている。
女中頭が近づいてきて地面に両手をついて、土下座をした。
「奥様、七年前に私が休職してしまったことが原因です。その点、誤解なさらぬよう」
強い女性だと思った。
こうやって今も昔も、行くあてのない女中たちを救ってきたのだろう。
彼女を突き動かしているのは七年前の後悔ではないだろうか。
(井戸の中で孤独に死んだハルは、多くの命を救ったってことか)
「栞さん!!!」
「ぅぉおお」
「おっと!」
千代先輩に横から強く押されて、転びそうになる。
それを、公成が抱きとめる形になった。
洋装の女中たちから悲鳴に近い声が上がる。
「公成様……悪い噂が立ちますよ」
「構わない。そんなことよりも心配させるな!」
強い力で胸に沈められて困惑する。
でも温かくて、心地が良い。
眠くなってきたが、少し息苦しい。
「そうだ、雅臣さんが言っていましたよ」
「叔父さんが? 何を」
栞は息苦しくなって、公成の胸から顔を出す。
「ちゃんと言葉にしなさいって」
「ははっ」
公成に頭を抑えつけられて、再び胸に沈められた。
鼻血を出して倒れた後に汗だくで駆けたせいか、猛烈に眠い。
このまま先ほどのソファへ連れてってほしいくらいだ。
「小野寺先生……栞の父君には世話になっていてな」
「……」
「小野寺鑑識相談所に出資しようと思ってる。まずは俺の離れから近くに事務所を建設中だ」
「……」
「おい! 聞いてるのか!? お前が言葉にしろって———」
なにやら公成が怒っている。
言葉は聞こえるが、話が長くて頭に入ってこない。
というか、眠い。
「ダメよ、公成。栞さんを独り占めするには早いと思う」
「ひ、独り占めだなんて。そんなことは」
眠りそうだった栞は、公成から剥がされて呆然とする。
「栞さんは十五歳、まずは女学館へ通うべきね」
「……はい?」
そう言うと、紗代子が封筒を渡してきた。
促されて中身を見ると転入手続きの用紙があった。
カフェーの帰りに女学館へ行って受け取ってきたという。
「女学館!? そんなお金ありませんよ」
「お金は公成が出すわ。そうでしょ?」
「はい、それは問題ないですけど」
(ないのかよ!)
「でも、学校の休業日には、ちゃんと公成付きの女中として働くのよ」
「はい! ……休業日?」
栞は休業日に女中として働きながら、令嬢たちの通う女学館へ通う。
同世代だが生まれも育ちも違う。名のある家の娘たちと借り物の服で馴染めるのだろうか。
(普通の女学校がいいとは言えないか)
「ええ、寄宿舎から通ってもらいます。それと仕事をひとつ引き受けて頂戴」
「へっ?」
紗代子が近づき、少し声をひそめて話した。
「私の親友の娘なんだけど、死が追いかけてくるらしいのよ」
「えっ」
「そういってるのは占いができる同級生でね、なんでも未来が視えるらしいの」
女学生に戻れると浮かれていたら、とんでもない依頼をされてしまった。
同級生が未来を視えるから、死を回避できるとでもいうのだろうか。
「でも、叔母さん———」
「紗代子ねえ、でしょ?」
栞は感動した。
ついに公成を黙らせる人物が現れたのだ。
「紗代子ねえ、それって鍋島綾乃の件じゃないですか! 今年、俺も入学式の来賓席で見たけど、彼女は本当に呪われている。西高辻の力も、占いなんて生易しいものじゃない! それが入学の条件なら女学館はやめ———」
「栞さんと同学年よ、寄宿舎では同じ部屋になると思うわ」
公成が血相を変えているが、紗代子は構わず話を進める。
「お付きの女中を一人まで付けられるわ。お千代、お願いね」
「はい、かしこまりました」
死ぬはずだった綾乃を、未来視のできる親友の西高辻環が救い続けているらしい。
なんでも、綾乃付きの女中は、すでに二人も精神病院へ入院し、一人が実家へ戻ったという。
「あら栞さん? ねぇお千代ちゃん……どういうこと?」
「あー、これは喜んでいるんですよ。ほっといて大丈夫です」
なにやら千代先輩が勝手なことを言っているが、仕方がない。
女学館へ乗り込んで占い師の虚言を暴いてやろう。
「詳しい説明は…そうね、カフェーでしましょうか」
栞は顔を輝かせる。
眠気が吹っ飛び、同時に眩暈を覚えた。……慌てて深呼吸した。
「でも栞さん、カフェーに辿り着けない呪いがあるのでしょう?」
「たしかに……それは否定できませんね」
紗代子は、栞の返答に腹を抱えて笑う。
「そう、それなら———あの洋館で会員制のカフェーを開くわ、本場に近い社交場よ」
紗代子がオーナーとなり、女中たちは女給も兼ねるという。
すぐにでも給仕として雇ってもらいたいところだ。
「おい、女中をやめるとか言い出すなよ?」
「ははっ」
「栞さんは給仕として雇わないわよ」
「えぇぇええええ!!」
「お前なぁ」
鷹城家の敷地内にあるカフェーへも行けないというのか。
「栞さんには、会員の第一号になってもらうわ」
「いいですなぁ、それでは私も登録させてもらいましょう」
山村医師や外科医などがカフェーへの登録に名乗りをあげた。
紗代子は、栞の前でしゃがみこむと真剣な表情をする。
「栞さん、貴女は私たち夫婦に生きがいを与えてくれました。それだけじゃない、神隠しに関わった女中たちも救ったのよ」
「えっと……」
「ありがとう」
紗代子は、栞を力強く抱きしめた。
そして、身体を引き離すと栞を見つめる。
今度は、栞の声を聞きたい。
そう言っているように見えた。
警視庁で鑑識の父が仕事を辞めると一気に長屋暮らしとなった。
女学生の前で借金取りに連れて行かれた。
持ち物もないまま女中奉公に明け暮れた。
月に一度の休みも僅かな給金で日用品しか買えなかった。
でも、変わった。
若様付きとなり給金が増えた。
女学館へ行ける。
父の事務所が建てられている。
カフェーが近くにできる。
悪いことも、良いこともあった。
栞は少し目を閉じて考える。
七年前、誰にも頼れずに死んだ女中がいる。
救えずに苦しみ続ける女中頭がいる。
神隠しを利用して逞しく現実を乗り越える女中たちがいる。
栞は、ゆっくりと瞼を上げた。
そして、紗代子を真っ直ぐに見る。
「生きてみます。私なりに」
◇◇◇
第十五話 生きる道
鑑識娘はほっとけない!/第一部・完




