悪役令嬢、恋愛を超えて自由を選ぶ
王都ローデリア。初夏の空気は熱を帯び、宮廷の花々は盛りを迎えていた。
だが、そんな穏やかな風景とは裏腹に、王城の中は緊張に包まれていた。
貴族査定制度を柱とした新たな法案――貴族称号の自由返上制度がついに最終審議を迎える。
執務室の中央、長机の上に積まれた書類を前に、リディア・フィオレ・グランフェルドは沈着な瞳を向けていた。
本日議会に提出される法案、それは一言で言えば「自らの貴族身分を返上できる権利」を明文化したものだ。
「クラリス、議案の通達は?」
「本日午前十一時より、上院評議会にて開会予定です。すでに保守派の一部が、身分の軽視と反発しており……議決は、僅差になる可能性があります」
「そう。なら、仕上げを完璧にして臨みましょう」
リディアは立ち上がり、机の引き出しから一冊の資料ファイルを取り出す。
そこには彼女が一人でまとめ上げた制度設計案、過去二年にわたる運用データ、各階級からのアンケート、そして何より――「未来」へのシミュレーションが収められていた。
(この一手が通れば、地位を自由意思で脱げる世界になる。私自身も、悪役令嬢という呪縛から自由になれる)
彼女が目指していたもの。それは、「身分に縛られない自由な生き方」を誰もが選べる世界だった。
だが――
「リディア、入ってもいいか?」
突然、扉がノックされ、低く穏やかな声が響く。
「……ユリウス殿下」
王太子ユリウスは、普段よりもややくだけた表情で室内に入ってきた。
「議会前の大事な時間だとは思うが、どうしても話しておきたくてな」
「話ですか?」
「今日の君の提案――称号返上制度。それは素晴らしい理念だ。だが、その案に込められた、もう一つの意図に気づかぬ者はいないだろう」
リディアの目が細くなる。
「……私自身が貴族を辞するつもりなのかという意味ですか?」
「その通りだ。私は、君がその道を選ぶこと自体を否定はしない。だが、もし君がその先に、国を去る意志を含ませているのなら――」
ユリウスは一歩近づき、真摯な眼差しで言った。
「私の隣に立ってくれ、とは言わない。だが、せめてローデリアという国の未来を共に築いていく道を、捨てないでほしい」
「……殿下、それは国の話ですか? それとも、私という個人の話ですか?」
ユリウスは口を閉じ、一拍置いたあと、率直に答えた。
「両方だ。私は君を敬愛し、共に未来を語りたいと願っている。ただし、その気持ちは恋愛ではない。信頼と希望の名のもとにあるものだ」
リディアは一瞬だけ目を伏せ、それから微笑した。
「ならば、答えはこうです。制度が道を開くなら、私はこの国の未来に関与し続けます。ですが、個人としてのリディア・フィオレは――何者にも属さない自由を求めます」
ユリウスは何も言わず、ただ深くうなずいた。
執務室を出たユリウスの背中を見送って間もなく、今度は別の訪問者がやってきた。
「ごめん、扉あいてる? 入るね、リディア」
アレン・ランバート。宰相の息子にして、幼い頃からリディアと腐れ縁の間柄だった青年である。
「また来たの? 今日は大事な会議があるって言ったはず」
「知ってる。でも、たぶん今日が最後だと思って」
「最後?」
アレンはにやりと笑いながら、手にした小包を差し出す。
「これ、プレゼント。中身は見なくていい。俺が君に渡したって事実だけ、覚えてて」
リディアは包みを受け取り、黙って頷いた。
「……ねえ、アレン。どうしても私の恋人になりたい、って思ったことはある?」
「うーん、そりゃ一度くらいは、もしもを想像したさ。でもさ、リディアってさ、恋愛する顔より、世界を変える顔の方がずっと格好いいんだよな」
「……そんなこと言われたの、初めてだわ」
「俺は、君の味方でいられればそれでいいよ。制度改革とか、悪役とか、そういうの全部込みで」
彼は軽く手を振って、扉の向こうへ消えた。
日も傾き始めた頃、最後の訪問者が現れた。
「リディア様、お久しぶりです」
「……カミル。あなたも来たのね」
騎士団副団長・カミル・アーヴィングは、真面目な表情でリディアの前に立った。
「今日の制度提案、私は心から賛同します。ですが一つだけ……個人的な願いをお伝えしてもいいでしょうか?」
「どうぞ」
「どんな選択をされても構いません。ですが――どうか、ご自分を責めないでください。あなたは、誰の期待にも応えられなかったと考えているかもしれませんが……それは違います」
リディアは小さく息を飲む。
「多くの人が、あなたに恋をし、あなたに失恋した。それでも誰一人、あなたを嫌いになれなかった――それは、あなたが誠実だったからです」
「……ありがとう。あなたには、何度救われたか分からない」
「なら、これからも守らせてください。あなたの意志を、選択を、未来を」
「……それは誓いですか?」
「いいえ。騎士の告白です」
カミルは深く頭を下げると、そのまま立ち去った。
そして、夜。
リディアは一人、王宮のバルコニーに立っていた。
三人の想いを聞き届け、胸の奥が静かに波打っていた。
(私は彼らを拒み続けた。けれど……傷つけたわけじゃない。誰一人、私を責めなかった)
風が吹く。花が揺れる。星がまたたく。
「クラリス」
「はい、リディア様」
「私は明日、貴族令嬢を辞める。制度上でも、実質的にも。リディア・フィオレ・グランフェルドという存在から、一度離れるわ」
クラリスは目を見開いた。
「ですが、その後は……」
「――制度設計官リディアとして、この国の新しい仕組みを根底から支えていく」
「つまり、リディア様は……自由を選んでも、戦い続けるのですね?」
「当然よ。私は、恋愛をしない悪役令嬢だもの」
静かな笑みが、夜空に滲んだ。
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翌朝、王都ローデリアの空は雲ひとつない快晴だった。
だが、貴族院の大広間には張りつめた緊張の空気が漂っていた。
ここは、制度改正をめぐる最終審議の舞台。
ローデリア史上初めて、すべての貴族に、自らの爵位を返上する自由を保障する法案が提出される日である。
王太子ユリウスが議長席に立ち、開会を告げる鐘が鳴り響いた。
「本日の議題は、制度提案第六十七条、貴族称号返上の自由権に関する法案である。提案者、リディア・フィオレ・グランフェルド。前へ」
重々しい空気を切り裂くように、リディアはまっすぐ演壇へと歩み出た。
その姿に、会場はざわつく。
かつては、悪役令嬢として、誰もが軽蔑と好奇の目を向けた。
だが今は――彼女を嘲る者は、もういない。
「諸侯の皆様。私は、かつて貴族であることに何の疑問も抱いていませんでした。家柄、爵位、権威。それらが、自分という存在の証であると、そう信じて疑わなかったからです」
彼女の声は明瞭で、会場の隅々まで響いた。
「しかし私は、婚約破棄を契機に――何者かであることの危うさと、誰かのものであることの重さを思い知りました。そして気づいたのです。地位は、自由を与えると同時に、奪いもするのだと」
リディアは演壇に置いた資料を一瞥し、言葉を重ねる。
「だからこそ、私は提案します。地位を受けるだけではなく、辞することもできる世界を。爵位とは、与えられる権利であると同時に、返す自由がなければならない。そうでなければ、それは特権ではなく呪いです」
その言葉に、若手議員たちが頷き、年長の保守派は顔をしかめた。
だが、誰一人として口を挟もうとはしなかった。
それほどまでに、リディアの言葉には力があった。
「最後に、私は一つの証明をもって、この法案の正当性を訴えます」
そう言って、彼女は胸元から一通の書簡を取り出した。
「本日をもって、私はグランフェルド侯爵家の爵位を返上いたします」
議場が、ざわついた。
「この書面は、私の父より提出された称号返上の同意書です。私はそれに署名し、制度発足と同時に、貴族ではなくなる意思を持って、ここに立っています」
――私は、身分を脱ぎ捨てる。
恋も、婚姻も、後ろ盾も選ばない。
ただ一人、自由だけを選ぶ。
その宣言は、議場にいた全ての者の胸に深く突き刺さった。
議会後。法案は可決された。僅差ではあったが、リディアの提案は正式に制度として成立した。
王城の裏庭。
議場を出てからのリディアは、どこか晴れやかな表情だった。
「リディア様!」
駆け寄ってきたのは、クラリスだった。
「本当に爵位を返上されたのですね……これからは、庶民に?」
「まあ、制度上はそうなるわね。でも、私の立場はこれからも変わらないわ。制度設計官として、改革の最前線に立つだけ」
「お覚悟を感じます……!」
「というより、ただのワガママよ。私は恋愛より、自由の方が好きだったってだけの話」
リディアがそう言って笑ったとき、背後から声がした。
「それでも、諦めきれない男がここに一人」
振り向けば、そこには王太子ユリウスが立っていた。
一歩後ろにはアレン、そして騎士服を纏ったカミルも並んでいる。
「私は国を代表する者としてではなく、リディアという一人の人間に、再び共に歩もうと申し出たい」
「……ユリウス殿下。私は誰のものにもならないと決めたんです」
「知っている。だが、君が選ぶ道に、誰かが並んで歩くことまでは、拒まないでくれ」
「……」
「俺も同じだよ」
アレンが言う。
「恋人にならなくていい。隣にいて、笑い合える関係でいられるなら、それで十分」
「私も、同じです」
カミルが最後に続いた。
「騎士としてでなく、同志として。あなたが信じた理想のために、私は剣を振り続けます」
リディアは、一人ひとりの言葉を受け止めた。
そして、ゆっくりと頷く。
「――なら、あなたたちは、私の隣にいてください。私の所有物じゃなく、並び立つ仲間として」
三人の男たちは、それぞれに静かに頷いた。
その瞬間、春の風が吹き抜け、彼女の金髪を揺らした。
それから――数年後。
貴族称号返上制度は各国に波及し、ローデリア王国は、身分選択の自由を持つ先進国家として国際的な地位を確立していた。
かつて、悪役令嬢と呼ばれたリディア・フィオレは、もはやその異名を持たない。
人々は彼女をこう呼ぶ――
『自由を選んだ改革者』、と。
リディア自身は今も独身を貫いている。だが、彼女の周囲には常に三人の男性がいる。
王宮で共に制度を語るユリウス。
市場調査に同行し、庶民の声を拾うアレン。
辺境地で改革を守る盾となるカミル。
「恋愛なんて、二の次。今はまだ、制度が恋人みたいなものよ」
そう言って、リディアは今も笑っている。
だが時折、夜のテラスで誰もいない星空を見上げながら、ふとこう呟く。
「――もし、世界が本当に自由になったら。そのときは、恋くらいしてもいいかしらね」
それはきっと、彼女にとっての未来への約束なのかもしれない。