9
凄子はふたりと別れボロ自転車にまたがると、自分の棲み家へと向かう。薄暗くなった通りは帰宅を急ぐ車でいっぱいになっていた。ヘッドライトを点けている車と点けていない車は、半々ぐらいだ。
赤信号の横断歩道の手前に止まり、行き交う流れを眺めながら思案にふける。
(叶多を襲った犯人は、香音のストーカーと同一人物と考えるべきだろう。…犯人は香音と叶多がふたりで仲良く歩いている光景を、どこかから窺っていた。そして叶多に激しい嫉妬を覚え、ひとりになったところを狙って襲った。目撃者がいたら即通報されることも考えず、衝動的な行動に出た)
凄子はそう推理すると、犯人がどんな人物か思い描こうとする。(衝動的で短絡的な性格、香音がコンビニで見た長身の男は、若い感じだったと言ってたな)凄子の頭に、面識もない少年に対して嫉妬に狂う若い男の憎しみのまなざしが浮かんだ。
棲み家にたどり着き、ボロ自転車を壁に立てかけてエレベーターホールに向かう。ボタンを押して相変わらずのろまなハコに乗り込む。
いつものようにインジケーターを無言で眺めていた。そいつが『5』を示した瞬間、妙な胸騒ぎを覚えた。凄子は昔から気配や殺気に敏感な人間だ。扉が開くまでのほんの短い時間に身構える、そして扉が開いた。
果たして凄子の目の前の玄関ドアには男が蹲っていた、目を見開いてこっちを見ている。凄子と目が合い凍りついていたのは、わずかな時間だった。
男は逃げ出そうと、凄子と反対方向へ駆け出す。だがこの建物には階段がない、そして凄子の部屋以外の部屋もないのだ。袋小路に行き詰っているのは、頭髪が残りわずかな小柄の年寄りだった。それでも逃げ道を探そうと必死であたふたしている。
「待て、ジジイッ!」
狭いフロアーに凄子のドスの効いた一喝が響き渡った。年寄りは瞬間、弾かれたようにビクンと身を震わすと、それっきり強張ったように動きを止める。
凄子は怒りの瞳を見据えたまま、ゆっくりと近づいていく。その目の恐ろしさに年寄りは息を呑んで顔をひきつらせていた。
年寄りの前に立つと見下ろす角度で、
「貴様、ここで何をしていた」
と、静かに問い詰める。年寄りはひきつったままの顔で身をのけ反らせる。凄子はいきなり右の平手を飛ばす。廊下に痛々しい残響がした、年寄りは頬を張り飛ばされて真横に吹っ飛んだ。
横倒しになって頬を押さえた年寄りは、
「ちきしょう!」
と、苦し紛れの叫びを上げ、右手に持っていた千枚通しを構えてに飛びかかってきた。冷ややかなまなざしの凄子はふらりと身をよじってかわし、行き過ぎた年寄りの後ろ襟をひっつかんで引き戻す。そしてそのまま手を払うように後ろにぶん投げた。
年寄りの身は後頭部を先頭に、コンクリートの壁に激しく叩きつけられた。ぐうぅと呻き声を上げると、ずるずると床にへたりこみ、苦痛に顔をゆがめる。
握っていた千枚通しは、はずみでどこかに消えていた。
「ジジイ、ここで何をしていた」
凄子は年寄りの前にかがみこむと、もう一度聞く。観念した年寄りは、
「玄関の鍵を壊して空き巣に入ろうとしていました…」
と、弱々しい声でつぶやく。空き巣?聞いた途端に凄子は笑い出した。そして、
「てめえは馬鹿だな、入ってみりゃわかるが、あたしんとこにゃ価値のあるものなんて何もねえのさ」
と言うと、セブンスターに火を点ける。
年寄りはガックリと肩を落とすと、あぁ…と、情けない声を出す。凄子はタバコの灰を床に落とすと、
「でもまあ、やっちまったもんは仕方ねえな。警察の厄介になれや」
と言いながら、携帯を取り出した。年寄りは途端にあわてて、
「姐さん!警察だけは勘弁してください!警察だけは勘弁してください!」
と、必死になる。凄子は携帯を手に持ったまま、年寄りの狼狽ぶりを眺めていた。
「姉さん、実はあたしゃ先月、ムショから出てきたばかりなんですよ」
と、見開いた目を向けてきた。
「ムショ?ムショ帰りの人間が、なんでまたこんな真似をする。…いったいてめえは、何をやらかしたんだい?」
凄子はもの珍しい顔で年寄りに聞いた。
「へえ。ムショを出て、今度こそは真面目にやろうと思ってたんですが、あたしみてえなもんを使ってくれるとこなんてどこにもなくて、有り金もすぐに底をついちまいまして。…あたしゃ空き巣狙い専門なんすよ。ちょっと手口が独特でしてね」
と、年寄りは後半、どこか誇らしげに言った。
「馬鹿野郎!空き巣狙い専門なんて偉そうに言ってんじゃねえよ、ジジイ!」
凄子はそういうと、年寄りのハゲ頭を平手でひっぱたいた。スイカを叩くような音がした。
「ですから姐さん、警察だけはどうか、勘弁してくださいよ」
年寄りは急に正座に居直り、ハゲ頭を床にこすりつけて土下座した。凄子はしばらく眺めると、 「ジジイ、てめえの名前はなんてんだ」
と、聞いた。年寄りは土下座から顔を上げると、
「へえ、佐々木といいます」
と、答えた。
凄子は、佐々木な、と言うと、ジーンズの尻ポケットから年季の入った革のウォレットを取り出すと、中から一万円札を2枚抜いて、佐々木の前に放った。驚いた顔で凄子を見上げる。
「姐さん、これは?」
と、聞いてきた。
「お前、あたしの仕事手伝えよ、それは手付けだ」
凄子はそう言って唇をニヤリとゆがめた。






