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「あの分かれ道を左に曲がったら、もうすぐみたいです」
叶多が前方を指さして言った。
緩やかな坂を下りていくと、じきに松ヶ窪池の全景が見えた。池という割には大きく、湖と呼んでもおかしくない規模の池だ。
池のほとりに案内看板を見つけた凄子は、レビンを路肩に停める。
『松ヶ窪池 案内図』と書かれた看板にはイラストのような地図が描いてあり、中央の池の絵の右上に別荘地の絵も描いてあった。
別荘地への道は行き止まりではなく、その先の峠を越えると隣町へと続いているようだ。
「このあたりだな、行ってみよう」
凄子と叶多はふたたびレビンに乗り込み、走り出した。
登りのコーナーをいくつか過ぎた頃、ログハウスの別荘が見えた。元々自生していた雑木に囲まれた庭に、高級外車が停まっている。品川ナンバーだ。東京住みの金持ちオーナーが避暑に来ているのだろう。
大回りのカーブの先に見えてきたのは、白壁の洋館風の建物だ。…この別荘地は隣が視界に入らないよう、距離を開けたりカーブを利用しているようだ。
洋館はすべての雨戸が閉まっており、庭に車も停まっていなかった。
次の物件は広いテニスコートの先の大きな建物だ、総2階の宿舎のような入口の前に『○○大学 松ヶ窪池寮』と書いてあった。
…美崎治男は凄子の顔をよくは見ていないだろうし、乗っている車を知っているはずもないが、なるべく目立たないようにアクセルを控えめに坂を登っていく。
叶多は建物が近づくたびに窓から顔を出し、あたりをしげしげと見回している。
「叶多、お前は美崎に襲われているから、もしかしたらヤツはお前の顔を憶えているかもしれねえぞ。…気をつけろよ」
凄子が言うと、叶多はあわてて顔を引っこめた。
(…白い軽トラ、…白い軽トラ)凄子は頭の中で呪文のように繰り返すが、滞在している別荘の方が少ないので、車もあまり見かけない。
だいぶ登って来ると、風景も別荘地らしくなくなってくる。カラマツ林が鬱蒼としてきて、もうすぐ峠という雰囲気だ。
凄子はスピードを落として周囲を見回す。
「…全然見当たらねえな、軽トラが停まってる別荘」
「ひと通り確認しながら来たんで、見落としはないと思うんですけど…」
叶多は首を傾げて、納得いかない顔をした。
「まあ、ここに来ていないって可能性もあるしな…」
凄子がそう言うと苦々しい顔に変わった叶多が、
「そんな…、俺はあきらめません!」
と、強い調子で言った。
「とにかく峠まで行ってみよう」
凄子はレビンを発車させた。
…それは、カラマツ林の密度が濃くなってきた場所に差し掛かった時だった。
「ちょっと待って!」
左奥の方を見ていた叶多が言った。そして指をさす。
「あの向こうの木の間に、ちらっと白いものが見えた気がするんです」
凄子は一度凝視すると、バックギアに入れて20メートルほど後退する。そこには見落としそうな未舗装の枝道があった。車1台がやっと通れるほどの小径だ。
そこから見通すと、だいぶ向こうだがたしかに黒っぽい建物が樹間に見える。(…あたしひとりじゃ絶対見つけられなかったな)凄子はまた叶多に感心する。
「車はここに停めて歩いていこう」
凄子はレビンを路肩に寄せた。それと…と言って、
「携帯をマナーモードにしとこう。…佐々木はこれのせいで見つかったからな」
と、ふたりは着信音が鳴らないようにした。
腕時計を見ると16時を回っている。日没にはまだ時間はあるが、夏至から1ヶ月以上経っているので、日の入りはだいぶ早くなっているはずだ。
凄子と叶多は足音を立てぬよう砂利道を歩いていく。50メートルほど進んだ時、
「あ、あれ!」
叶多が目を向けた先に、こげ茶色の板壁の別荘がひっそり建っているのが見えた。…そして建物の陰に隠すように白い軽トラが蹲っている。
『…1040』ふたりでナンバーの4桁の数字を読み上げると、目を見合わせた。
「見つけた…」
真夏なのに叶多の頬や腕に鳥肌が立っている。凄子も興奮して拳を握りしめた。叶多は嬉しさのあまり凄子に抱きついてきた。やはり華奢な身体だ。
「柴山に連絡しておこう」
凄子が携帯を取り出すと、
「柴山さんのメールアドレスってわかりますか?」
と、聞いてきた。
「アプリの現在地の画面をスクショして、画像添付した方が説明するより確実です」
叶多はそう言うと、凄子のガラケーを受け取りそれを見ながら自分のスマホを操作すると、数秒のうちに返してきた。
凄子はもうなにも疑問に思わないことにする。
木の陰に隠れるように徐々に近づいていく、やっと別荘の細部までわかる位置まで来た。
外壁はやはりこげ茶色の板壁で、緩い勾配の屋根から薪ストーブの煙突が出ている洒落た別荘だ。平屋に見えるが屋根裏部屋がありそうな高さがある。建ってからまだ数年といったところか。
美崎寿男は『俺の別荘』などと言っていたが、茅葺屋根の旧家で鶏に餌やりをして暮らしている、あの爺さんが好みそうな雰囲気ではない。建てたのは爺さんだろうが、これも治男のために建ててやったのではないかと思った。
今になって爺さんの『寂しそうな顔』が頭に浮かんだ。
正面に合掌造りのポーチがある玄関、その左右に大きな窓があって、カーテンは引かれているが窓は開いているらしく微風に揺れていた。
見張っていると、叶多が突然動き出した。
「香音、…今行く!」
叶多が木の陰から飛び出していこうとする、凄子はあわててその右腕をつかんで引き寄せた。
「馬鹿やろ!早まるな!」
藪の中に身を潜めたあと、声を出さずに怒鳴った。そして肩に手を置く。
「気持ちはわかるが、あわてて行動すると絶対しくじる。…いいか、美崎は刃物を持ってる。ほかにもなんか持ってるかもしれねえ。…一番危険な目に遭うのは近くにいる香音ちゃんだ」
凄子が説くうちに叶多の興奮も収まってきた。
「わかりました、すみません」
凄子は叶多にあわてるなと指摘したが、内心は同じように焦りはじめていた。(暗くなる前になんとかしなけりゃ…)そう思いながら、揺れるカーテンを凝視する。




