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「中学2年生?まだ子供じゃねえか、そんな子供にストーカー…」
マスターはそう言いながらテーブル席から腰を上げた。カウンターまで行き、隅にあるロックグラスを取り上げ持ってくると、凄子の前にトンと音を立てて置いた。
「お、マスター、いいのかい?」
酒好きの本性が凄子の顔をニヤけさせる。マスターは、氷はねえよと言いながら、まだ3分の2ほど残っているジャックのボトルを傾けた。凄子は指3本分注いでもらったグラスを持ち上げると、 「マスター、乾杯しようぜ」
と言い、大き目のロックグラスをガチャリと触れさせた。スピーカーからは今もキングのブルースが鳴り続けている、最近の時代に録音したエリック・クラプトンとのジョイントアルバム、『ライディング・ウィズ・ザ・キング』だろう。ドライブ感の強いブルースビートに、凄子は気分良くテネシーウィスキーを口に放り込む。
グラスにわずかになったジャックをひと息で空けたマスターは、自分で注ぎながら、
「さっきの話の、あの男の客のことだが」
と話しはじめた。愛孫とさほど変わらない歳の被害者とその家族を、不憫に思ったのだろう。
「この店に来るようになったのは、ここひと月ばかり前からなんだよ」
と続ける。凄子はジャックを舐めながら短く相槌を打つ。
「いつもひとりで来て、カウンターに座ってホットを頼むんだが、ほとんどしゃべらねえな」
と言った。
「ただコーヒー飲んでるだけ?」
凄子が聞くと、
「うーん、よく新聞持ち込んで読んでたよ、たしか日経新聞。あ、それで記事を読んでかなんか知らねえが、ぶつぶつ言いながらひとりで怒ってたこともあったんだけど、そん時の目つきと態度がちょっと異常な感じがしたんだよなあ。危ねえんだよ、新聞持ってる手がぶるぶる震えてたりして」
凄子の脳裏に、エントランスを見つめていたキャップの男の横顔がよぎった。
「いつも何時ごろに来るの?」
質問を切り替える。マスターはアゴの白ヒゲをさすると、
「だいたい今日ぐれえかな」
と言ったあと、
「ああ、平日の昼間に来たこともあったな」
とつけ加える。
「平日の昼間か、あいつは何の仕事してんのかな」
凄子は左手で頭をボリボリと掻いてから、またジャックを放り込む。それを聞いたマスターは重要なことを思い出してくれた。
「今は市の清掃センターでバイトしてるって言ってたわ、愚痴るように。それで服にも髪の毛にも悪臭が染み付くから、毎日お香を焚いてるって言ってた」
凄子は途端に目の色を変えた、
「それだ!それであいつのお香の匂いの意味がわかった。…そうか、バイト先の悪臭消しでお香か、よし」
そう言うとグラスの残りをグイッとあおり、思わずマスターの手を握って、
「ありがとう、ありがとう」
と激しく揺さぶった。マスターはひとりで舞い上がっている凄子をキョトンと見つめている。凄子は立ち上がり、
「マスター、サンキュー。また来るよ」
と言うと、五千円札を置いて店のドアを出た。
歩道まで出ると外灯の下に立ち、ゴウゾウに電話を入れた。10回ほどのコールでやっとつながる、言葉より前に、ギターの音が聞こえてきた。
「よう、姐御、どうしたい?」
だいぶ酔いが回って呂律が回らなくなってるゴウゾウのガラガラ声が聞こえる。
「もしかして今、アッシュトレイズ・ローズにいるんか?」
凄子が聞くと、カラリとグラスの氷の音がした。
「よくわかったな、久々にタクと白井と、ギター弾きながら飲んでんだよ」
と言った。アッシュトレイズ・ローズとは中央通り近くのビルの3階にあるライブハウスで、暗い急勾配の階段の店だったことを凄子は思い出した。過去に何度かゴウゾウとタクのライブを観に行ったことがあった。
狭いが白井が出す音と雰囲気のいい店だ、しかし行くたびに白井が吐き出すインドネシアタバコの強烈な匂いが、髪や服に染み付くのが気になった。
凄子はゴウゾウに市の清掃センターで働いている20代から30代の男を全て調べて報告書を上げてくれと頼む。ゴウゾウはふんふんと聞くと、
「お安い御用だ、明日の昼過ぎまでに用意しとくよ」
と言って電話は切れた。
道路の標識柱に立ててあったボロ自転車にまたがると、帰路につくことにした。ここのところいろいろあり過ぎて睡眠不足で疲れも出ている上に、さっきデッドフラワーズで飲んだジャックが効いていて、自転車をこいでいても眠気に襲われてきた。
左側の歩道上をふらふら走っていると、1台の車がヘッドライトをハイビームにしたまま、走ってくるのが見えた。凄子は、(まぶしいな、この野郎)と片目を閉じてやり過ごそうとしたが、車は徐々に左へ寄ってきた。
(こいつ酒酔い運転か)と思っていると、瞬く間に車は路肩の縁石を乗り越えて歩道に乗り上げたまま突っこんできた。
凄子が(こいつ、あたしを狙ってる!)と気づいた瞬間、車は鈍い音とともに自転車のフロントに衝突して、凄子の身体はボンネットにすくい上げられ空中に飛ばされた。
視界がめまぐるしく回転する、宙を舞っている時間がすごく長く感じると思った途端、急激に歩道のアスファルトが迫ってきた。凄子は咄嗟に首をかがめた、そして肩と背中が同時に硬い路面に叩きつけられる。
受け身をするように両腕を路面に叩きつけたが、落下の衝撃は激しく、うぅ…と呻きを漏らすと同時に意識を失った。




