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『仮面の文官、愛に溺れる男たち』 ―男装令嬢は恋より仕事を選びたい  作者: 紅月 碧(こうづき あお)
第一章 仮面の学院

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第三十五話 明日を越えたら、君に言いたい

王宮行事まで、あと二日。


レオンは、珍しく機嫌がよかった。

理由は分かっている。

数日前の夜からだ。


酔ったクリスに「殿下のこと好きですよ」と言われた。

あれが恋愛の意味でないことくらい、レオンにも分かっている。

クリスは一緒にいると楽しいだの、安心するだの、随分と無防備なことを言って、そのまま自分の腕の中で眠ってしまった。


それでも。

嫌じゃないと言った。

自分から胸に頬を寄せてきた。

眠る直前には、初めて「レオン」と呼んだ。

思い出すだけで、どうしても口元が緩む。


「……殿下」

「何だ」

「何か、よいことでもございましたか」


声をかけてきた従者に、レオンは真顔を作った。

「別に」

「左様でございますか」

「何だよ」

「いえ」


絶対に何か思っている。

だが、追及するのも墓穴を掘りそうなのでやめた。

レオンは窓の外へ目を向けた。

晩秋の王宮は、朝から人の出入りが激しい。

明後日に迫った王宮行事のため、地方から到着した貴族たちが次々と王宮へ挨拶に訪れていた。

その中には当然、北部の有力貴族たちもいる。

母の実家も。

祖父も、すでに王都へ入っている。


「そういえば」

レオンは何気なく尋ねた。

「おじい様は、いつ王宮へ来る?」

「本日はお見えにならないと伺っております」

「明日?」

「おそらくは」

「ふうん」


少し意外だった。

祖父は王都へ来れば、たいてい早々にレオンの顔を見に来る。

幼い頃からそうだった。

剣を始めた時には、自分の身体にはまだ大きすぎる立派な剣を贈ってくれた。

馬に乗れるようになった時も、初めて鹿を仕留めた時も、誰より大袈裟に褒めてくれた。

北へ行けば、第二王子ではなく孫として可愛がってくれる。

その祖父が王都にいるのに、まだ何の連絡もない。


「忙しいのかな……」

そう呟いた時だった。

扉が叩かれた。

入ってきたのは、母方の家に長く仕える男だった。

レオンも幼い頃から知っている。


「殿下。ご無沙汰しております」

「久しぶりだな。おじい様はお元気か?」

「はい。殿下にお目にかかれることを、楽しみにしておられます」

「だったら来ればいいのに」

男は曖昧に笑った。

「行事が終わりましたら、ゆっくりと」


――行事が終わったら?


何かが引っかかった。

「何だよ。明後日は会わないのか?」

「もちろん、お姿は拝見いたします。ただ――」

男は一度言葉を切った。

「当日は、どうか陛下のお側を離れませぬよう」


レオンは男を見た。

「父上の?」

「はい」

「何で?」

「大切な日でございますので」

「兄上ではなく?」


ほんの一瞬だった。

男の目が揺れた。


「……陛下のお側が、最も安全かと」


安全。


その言葉だけが、妙に耳に残った。

「何から?」

「殿下?」

「何から安全なんだ」


男は笑った。

「言葉の綾でございます」

「そう」


レオンも笑った。

「分かった」


それ以上は聞かなかった。

男が部屋を出るまで、いつもの顔を崩さなかった。

扉が閉まる。


「……おかしいな」


従者が顔を上げた。

「何がでございますか」

「全部」


さっきまでの浮ついた気分は、もう消えていた。




昼前。

レオンは王宮北側の回廊を歩いていた。

行事前ということもあり、王宮のあちこちに見慣れない顔が増えている。

だがその中に、見慣れた顔を見つけた。


男はすぐに人混みへ消えた。

けれど見間違えるはずがない。

北部にある祖父の領地で、何度か見たことがある。

家令でも、通常の護衛でもない。

軍務に就いていた男だ。


――何で、あいつがここにいる?


祖父の護衛として来たのかもしれない。

それだけなら、おかしくはない。

だが。

なぜ王宮の使用人たちが使う区画から出てきた。


レオンは足を止めた。

朝の男の言葉が蘇る。


――陛下のお側が、最も安全かと。


背中に。

冷たいものが走った。




「兄上」


アレクは執務机から顔を上げた。

突然部屋へ入ってきた弟を見て、眉を上げる。

「珍しいな。お前がノックをした」

「そこ?」

「褒めてる」

「今それどころじゃない」


アレクの表情が変わった。

レオンは扉を閉める。

「人を外して」

「……分かった」


アレクが側近へ目を向ける。

人が出ていき、扉が閉まった。

兄弟だけになったところで、レオンは言った。

「北から、何人入った?」


アレクの目が細くなる。

「どうしてそれを聞く」

「質問に答えてくれ」

「レオン」

「俺の母方の家の話だ」


しばらく。

アレクは何も言わなかった。


その沈黙だけで。

レオンには十分だった。


「……やっぱり、何かあるんだな」

「何を見た」

「おじい様のところにいた元軍人を、王宮の使用人区画で見た」


アレクの表情から、わずかに残っていた柔らかさが消えた。

「名前は?」

レオンが告げる。

「間違いないか」

「北へ行った時に何度も見てる」

「他には?」

「今朝、おじい様の側近が来た」

「何と言った」

「明後日は父上の側を離れるなって」


アレクが黙った。

「兄上ではなく父上の側にいろ。そこが一番安全だって」

「……安全」

「俺も聞いた。何から安全なんだって」

「答えは」

「言葉の綾だとさ」


レオンは兄を見た。

「兄上」

「何だ」

「俺に何を隠してる?」


長い沈黙だった。


やがてアレクが椅子の背へ身体を預けた。

「……春から、妙な金の流れを追っている」


レオンは黙って聞いた。

「最初は地方行政の不正だと思っていた。だが、金だけではなかった」

「何が動いてる」

「穀物。鉄。革。馬具。薬。毛布」


レオンの顔から笑みが消えた。

自分も文官科にいる。

その並びが何を意味するかくらい、分かる。

「……軍か」

「まだ断定はしていない」

「人もいるんだろ」

「いる」


朝見た男を思い出す。

「どれくらい?」

「分からない」

「分からない?」

「確認できた者より、確認できていない者の方が多い可能性がある」


レオンは息を吐いた。

「北が関わってる?」

「その可能性が高い」

「おじい様は?」

「証拠はない」

「母上は」

「……王妃の関与を示すものも、今のところ何もない」


今のところ。


その言葉を。

レオンは聞き逃さなかった。


「……いつから知ってた」

「北へ繋がる可能性が出たのは夏頃だ」

「俺には言わなかった」

「証拠もない段階で、お前に母親を疑わせる必要はないと思った」


怒る気にはならなかった。

むしろ。

分かってしまった。


兄らしい。


「それで、誰が調べた?」


アレクが少し黙った。


「……クリスか」


今度はアレクが眉を上げた。

「どうしてそう思う」

「あいつ、春から妙に忙しそうだったし……」


点が。

繋がった。


「……春からか?」

「そうだ」


思わず笑いそうになった。

半年以上。

自分の隣にいた。

図書館で。

食堂で。

行軍で。

くだらない話をしながら。


クリスは。

自分の母方へ繋がる何かを追っていた。


「俺、何にも知らなかったんだな」

「クリスには口止めしていた」

「分かってる」


責めるつもりはなかった。


むしろ。

「……兄上は、俺に疑わせたくなかった」


アレクは答えなかった。


その顔を見て。

レオンは小さく息を吐いた。

「ほんと、そういうところ嫌い」

「知ってる」

「嘘だよ。俺、兄上のこと結構好きだよ」

「それも知ってる」


ほんの一瞬。

いつもの兄弟に戻った。


けれど、レオンはすぐに真顔になった。

「俺にも調べさせて」

「駄目だ」

「何で」

「お前は当事者に近すぎる」

「だから分かることがある」


アレクが黙る。

「北の人間なら、兄上より俺の方が知ってる。おじい様の家臣も、母上の親族も。顔を見れば分かる奴もいる」

「危険だ」

「もう危険だろ」


レオンは真っ直ぐ兄を見る。

「俺の家が関わってるかもしれないんだ」


そして。

静かに続けた。

「知らないふりはできない」




その日の午後から。

レオンはアレクの側近と共に、北部から王都へ入った人間の名を確認した。


知っている名があった。

知らない名もあった。

だが、家名を見れば分かる。

母方の祖父と親しい家。

幼い頃、北で食事を共にしたことのある家。

狩りに同行した者。

剣を教えてくれた男の息子。


一つ。

二つ。

三つ。


数が増えるほど。

レオンは口数を失った。


これは。

祖父一人の話ではない。


北部の有力者が。

いくつも動いている。


しかも、それだけではなかった。

王都の商人。

地方貴族。

正体のはっきりしない金。

王宮へ入り込んだ臨時雇い。


規模が。

想像していたものと違う。


「……何だよ、これ」


誰に向けた言葉でもなかった。


政治的な圧力。

王太子への嫌がらせ。

せいぜいその程度なら。

まだ理解できた。


違う。


人を集めている。

物を集めている。

王宮へ入れる道まで作っている。


何年もかけて。


「……戦をするつもりかよ」


答える者はいなかった。




行事前日。


レオンは、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。


窓の外が白み始めるより早く起き出し、昨日までに集められた記録をもう一度初めから確認した。

北部から王都へ入った者たちの名、滞在先、誰に雇われ、どの門を通り、王宮のどの区画へ出入りしているのか。


知っている家名を見つけるたび、胸の奥に重いものが積み重なっていった。


祖父と親しい家。

幼い頃、北へ行けば顔を合わせた家。

狩りの席で笑い合った男。

剣を教えてくれた者の息子。


昨日までは、ひとつひとつを確認することに必死だった。

だが、一晩経っても状況は何も変わらない。


――むしろ、知れば知るほど悪くなる。


昼を過ぎた頃だった。

積み上げられた書類の中から、レオンは一枚の紙を引き抜いた。

正式な命令書ではない。


北部のある有力家から、別の家へ送られた書簡。

その写しだった。


内容の大半は曖昧だった。


明日の行事に合わせて人員を動かすこと。

指定された時刻まで待機すること。

合図があるまでは不用意に動かぬこと。


名前も、目的も、あえてぼかしてある。


それだけなら、これまでに見たものと大差はなかった。

だが、末尾近くに記された一文を見た瞬間、レオンの指が止まった。


――正統なる御血筋をお守りするため。


何度読んでも、文字は変わらなかった。


「正統なる……血筋」


声にしてみる。

妙に乾いた響きだった。


誰を指している。

父王か。


いや、父を守るためなら、王宮へ兵として動ける者を密かに集める理由がない。


では、兄か。


それも違う。

アレクサンダーを守るのなら、なぜ北部の者たちは兄の周囲を避けるように動いている。


なぜ自分にだけ、父のそばから離れるなと伝えた。


――陛下のお側が、最も安全かと。


今朝までなら意味の分からなかった言葉が、別の形を持って蘇った。


安全。


誰から。


何から。


レオンは手元の紙を見つめたまま動けなかった。

胸の奥で、ばらばらだった何かが、嫌な音を立てながらひとつずつ繋がっていく。


王宮で、昔から消えずに残っていた噂がある。

誰も公の場では口にしない。

宴席の隅や、酒の入った貴族たちの囁きの中で、何度も聞いた。


亡くなった第一王妃。

その傍らに長く仕えていた近衛騎士。

二人が親しかったという話。

そして。


――王太子殿下は、本当に陛下の御子なのか。


子供の頃は、意味も分からず耳にした。

成長してからは、くだらない噂だと思っていた。

父は一度も兄を疑ったことなどない。

兄もまた、誰より王太子として生きてきた。

だから自分にとっては、それで十分だった。


けれど。

そう思わない者がいる。


王太子の血筋を疑い、その弟こそが国王の血を疑いなく継いでいると考える者がいるとしたら。

レオンの呼吸が、ゆっくり浅くなった。

父王の実子であることを。

誰にも疑わせない王子。

それは。


「…………俺か」


呟いた声が、自分のものではないように聞こえた。

紙を持つ手が冷たい。

なのに背中には薄く汗が滲んでいた。

祖父がなぜ自分に何も知らせなかったのか。

なぜ行事当日は父のそばにいろと言ったのか。

なぜ兄ではなく、自分だけを安全な場所へ置こうとしたのか。


理由など、もう、一つしか思いつかなかった。


「……俺を」

喉がひどく乾いていた。

唾を飲み込もうとしても、うまく動かない。


「俺を、王にするつもりなのか」


部屋の中は静まり返っていた。


答える者はいない。


けれど。


もう、答えなど必要なかった。




アレクサンダーは、部屋へ入ってきた弟の顔を見た瞬間、何かがあったのだと察した。


昨日までとは違う。

怒っているわけでも、焦っているわけでもない。

ひどく青ざめているのに、妙に静かだった。


「兄上」

「何だ」

レオンは返事をせず、机の前まで来ると、一枚の紙を置いた。


「これ」


アレクサンダーは紙へ目を落とした。

数行を読んだだけで、表情が変わる。

レオンは、それを見逃さなかった。


「……兄上も、そう思う?」


アレクサンダーはすぐには答えなかった。

その沈黙だけで十分だった。

胸のどこかで、最後まで否定してほしいと思っていたのかもしれない。


そんなことはない、と。

考えすぎだと。


けれど兄は、それを言わなかった。


「俺なんだな?」

笑おうとした。

自分でも分かるほど、ひどく乾いた笑いになった。


「俺を王にするんだ」


アレクサンダーが紙を机へ置く。

「まだ断定は――」

「やめてよ」

自分でも驚くほど強い声が出た。

兄の言葉を遮ったのは、いつ以来だろう。

「……もう分かる」

握った拳が震えていた。

止めようとしても止まらない。


「俺は一度だって、そんなこと望んでない」

「分かってる」

「兄上が王になればいいって、ずっと思ってた」

「知ってる」

「俺は兄上みたいになれないし、なりたいとも思わなかった」


王位が欲しいと思ったことなど、一度もない。

幼い頃から、次の王は兄だった。

自分にとってそれは、空が青いことと同じくらい当然のことだった。


兄が王に即位し。

自分は、その隣で自分にできることをする。

それでよかった。

それなのに。


「俺の名前で、人を集めている……」


机の上の紙を掴む。

薄い紙が、指の中で歪んだ。


「俺の名前で、武器を集めた」


吐き出すほどに、現実になっていく。


「俺を王にするために……兄上を殺すつもりなのか」


アレクサンダーは答えなかった。

否定できないのだ。

その事実が、何より苦しかった。


「……ふざけるな」

声が低く落ちた。


「ふざけるなよ……」


祖父の顔が浮かんだ。

北へ行くたび、真っ先に自分を迎えてくれた。

まだ幼かった頃には肩へ乗せてもらった。

剣を始めれば、自分には大きすぎるほど立派な剣を贈られた。

鹿を初めて仕留めた時など、本人より祖父の方が喜んでいたくらいだ。


あの人は。

自分を可愛がってくれていた。

それだけは、嘘ではないと思いたかった。

だからこそ。


「何で……俺に言わなかった」


口にした瞬間。

答えは、自分の中にあった。

言えば。

自分が止めるからだ。


祖父は、レオンという人間をよく知っている。

兄を殺して王になれなどと言われて、喜ぶ人間ではないことを知っている。

兄を踏み台にして王座へ座ることを、自分が絶対に受け入れないことも。


全部分かっていた。

分かったうえで。

何も知らせず、自分の名だけを使った。


「俺が嫌がるって、分かってたんだな」

胸の奥に、悲しみより先に、激しい怒りが込み上げる。


「分かってて、やったんだ」

「レオン」


兄の声が聞こえる。

けれど今は、顔を上げられなかった。


「……俺がいるから……」

「何?」

「俺がいるから、あいつらはこんなことができるのか」


言葉にした途端、視界が滲んだ。

一滴、涙が落ちる。

レオンは苛立ったように腕で拭った。


「俺がいなかったら――」

「違う」


鋭い声に顔を上げた。

アレクサンダーが真正面からこちらを見ていた。


「お前がいなければ、別の旗を作った」

「……」

「王位を奪いたい人間は、理由を後から作る。血筋でなければ、政治を使う。政治でなければ、民の不満を使う。何でもいいんだ」

静かだが、迷いのない声だった。


「お前は理由じゃない。利用されたんだ」

「でも」


喉が震えた。

「俺の名前で、人が死ぬ」

「だから止める」

アレクサンダーは目を逸らさなかった。

「今、お前がするべきことは、自分が生まれたことを悔やむことじゃない」


胸に刺さった。

レオンは黙る。


「第二王子として、何をするか決めろ」


第二王子。


その言葉を、これまで何度聞いただろう。

生まれた時から自分について回る肩書だった。

兄の次。

王位から一歩離れた場所。

自由でいられる代わりに、責任も兄より軽い。

どこかでずっと、そんなふうに思っていた。

だが違う。

王位を継がなくても。

自分も王族なのだ。

父が守ってきた国の一員で。

兄と同じ血を引き。

同じ国に責任を負っている。


「……母上は」


ようやく、それを聞いた。


「関与した証拠はない」

即答だった。


「でも、おじい様が反乱を起こしたら」

その先を言えなかった。


アレクサンダーも答えなかった。

答えられるはずがない。


王妃の父が、その実子を王位につけるために兵を動かす。

母本人は何も知らなかった。

そう言って。

世間が簡単に信じるだろうか。


「俺もだ」

レオンは小さく呟いた。

「俺が知らなかったって、誰が信じる?」

「俺が証明する」

反射的に顔を上げた。


兄は本気だった。

だからこそ、余計に苦しかった。


「兄上が信じても、国はそれだけじゃ動かないだろ!」

声が部屋に響いた。

言った瞬間、後悔した。

兄に怒鳴ったところで何も変わらない。


「……ごめん」

「謝るな」


短い返事だった。

レオンは俯いた。

反乱が失敗すれば、祖父は死ぬだろう。

祖父に従った母方の一族も、多くが処罰される。

母だって無傷ではいられない。

自分自身も、反乱の旗印として疑われ続けるかもしれない。

では成功すれば。


父を失う。

兄を失う。

おそらく自分は、二人を殺した者たちに担がれて王座へ座らされる。


どちらへ転んでも。

家族が壊れる。

逃げ道など、どこにもない。


その時。

ひどく冷たい考えが、頭の隅を横切った。


――俺が死ねば。


レオンは息を止めた。

自分がいなくなれば、旗頭はいなくなる。

祖父たちは王に据える人間を失う。

だったら。


けれど、その考えはすぐに崩れた。

もう遅い。

兵は王都へ入っている。

金も、武器も、物資も集められている。

王宮内部にまで手を伸ばしている。

今ここで自分が死んだところで、動き始めたものがすべて消えるわけではない。


むしろ第二王子が突然死ねば、その死さえ利用される。


――王太子に殺された。


そんな噂を流されたら。

北部はさらに怒る。

兄を憎む理由が増える。

もっと大勢の人間が剣を取るかもしれない。


自分が死ぬことすら。

終わらせる方法にはならない。


「……くそ」


レオンは両手で顔を覆った。


どうすればいい。

祖父を守れば、兄を危険に晒す。

兄を守れば、祖父を敵に回す。


何を選んでも、誰かを失う。


その時だった。

暗い思考の中に。

ひどく場違いなほど鮮明に、一人の顔が浮かんだ。


クリス。


数日前の夜。

自分の服を着て。

酒に頬を赤くして。

自分の腕の中で笑っていた。


――私、殿下のこと好きですよ?


あの時。

どういう意味だと問い返した自分を思い出す。


――殿下といるの、好きです。


安心する。

そう言って。

最後には自分の胸へ頬を寄せた。


もし。

明日。

自分が死んだら。

もう、あの顔を見ることはない。

くだらないことで言い合うことも。

一緒に街を歩くことも。

隣で本を読むことも。

触れることも。

できない。


「……嫌だな」


掠れた声が漏れた。

アレクサンダーは何も言わなかった。

ただ、弟を見ていた。


「まだ……」

喉の奥が詰まった。


「まだ、何にも言ってないのに」


その言葉を口にして。

ようやく。

自分が何を惜しんでいるのか、はっきり分かった。


好きだと。


本人にはまだ一度も言っていない。

眠っているクリスの髪に口づけながら、小さく呟いたことはある。

けれど、あれは告白ではない。

自分だけが知っている言葉だ。

クリスには届いていない。


涙がまた頬を伝った。


今度は。

すぐに拭う気になれなかった。


そして、もう一つの名前が胸に浮かぶ。


クラリス。


三年前、王宮で何度か顔を合わせた令嬢。

学院祭の夜からずっと。

クリスが、あのクラリスなのではないかと疑っている。

踊り方も。

身体の細さも。

時折見せる仕草も。

確かめようと思えば。

もっと早く確かめられたかもしれない。

それでも、しなかった。


理由など、今なら分かる。

――怖かったのだ。


もし本当に女だったら。

もし本当にクラリスだったら。

自分がクリスに抱いている感情を。

もう「男友達だから」で誤魔化せなくなる。

認めなければならなくなる。

だから見ないふりをしていた。


「……馬鹿だな、俺」


笑ったつもりだった。

けれど、うまく笑えなかった。


あと一日しかない。


こんな時になって。

もっと一緒にいたかったと思う。

もっと話したかった。

もっと触れたかった。


もっと。

自分を好きになってほしかった。


そして。

自分も好きだと。

ちゃんと伝えたかった。


しばらく俯いていたレオンは、やがてゆっくり顔を上げた。

腕で目元を拭う。


「兄上」

アレクサンダーが弟を見る。

「俺にできることは?」

「……レオン」

「俺を使って?」


返事は即座だった。

「駄目だ」

「何で」

「あいつらがお前を旗頭にするつもりなら、お前は最優先の保護対象だ」

「だからだよ」


レオンは椅子から立ち上がった。

さっきまで膝の奥にあった頼りなさは、もうなかった。


「俺にしかできないことがある」

「危険すぎる」

「兄上」


声を強める。

「俺も王族だ」


アレクサンダーが黙った。


「父上が守ってきた国だ」


一歩、兄へ近づいた。


「兄上が継ぐ国だ」


これまで。

国のことを考えるのは、兄の役目だと思っていた。

自分には自分の役割がある。

そう思っていた。


けれど今。

自分の名前が、この国を裂くための旗に使われようとしている。

なら。

逃げることだけはできない。


「俺の名前で、この国を割らせるわけにはいかない」

もう声は震えていなかった。

「北と王都が争って、それで終わると思うか?」

アレクサンダーは答えない。

「次は東がどちらにつく、西がどちらにつくって話になる。地方同士が疑い合って、貴族が兵を集めて」


頭の中に学院の行軍で歩いた土地が浮かんだ。

街道。

農地。

小さな村。

そこで暮らしていた人々。

王位を巡って争うのは貴族でも。

死ぬのは兵だけではない。


「そんなことになったら、何人死ぬ」

レオンは唇を噛んだ。

「俺を王にすれば終わるんじゃない」

静かに首を振る。

「俺を王にした瞬間から、ずっと殺し合うことになる」


自分の王位が。

そのための王冠なら。

そんなものはいらない。


アレクサンダーは長い間、何も言わず弟を見ていた。

やがて、ゆっくり息を吐いた。

「……分かった」

レオンの目が上がる。

「ただし、俺の指示には従え」

「分かった」

「勝手に動くな」

「分かった」


アレクサンダーは一拍置いた。

「死ぬな」

レオンは少しだけ笑った。

「それは……努力する」


兄の眉が寄る。

「そこは分かったと言え」

「戦う前から絶対なんて言う王子、信用できないだろ」

「お前は、そういうところだけ妙に現実的だな」

呆れたように言って。

アレクサンダーが、ほんの少し笑った。

久しぶりに見る兄の笑顔だった。


レオンも。

少しだけ笑った。


明日。

何が起きるのかは分からない。


祖父と。

敵として向き合うことになるかもしれない。


母を。

守りきれないかもしれない。


王子という立場を失うかもしれない。


家族も。

今ある暮らしも。

すべて失う可能性だってある。


それでも。

逃げるわけにはいかない。


死んで終わらせることもできない。

なら。

生きて。

止めるしかない。


そして。

もし。

明日を越えられたなら。

クリスに言おう。

今度こそ。


眠っている時ではなく。

逃げずに。

自分の口で。


好きだと。



王宮行事まで、あと一日。


その夜、レオンは初めて第二王子という自分の立場を自分自身の意志で引き受けた。


兄の後ろではなく、兄と同じ側に立って。


明日を迎えるために。





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