個としての力。群れとしての力。
ルピンが負けた。
顔には出さないが、その事実を前に久遠は少なからずショックを受けた。先ほどまで良い勝負を繰り広げていた相手が負けるというのは、どうにも据わりが悪い。
ルピンとの間に友情などない。
そんなのは当たり前だ。久遠は仕事でルピンを捕らえに来たに過ぎないのだ。相容れない間柄の相手に感傷的になっているのはわかっている。
それでも、互いに健闘した男が地面に伏している姿は——見たくなかった。
「ルピン……?」
ルピンからオセロと呼ばれていた少女が茫然自失としていた。
ピクリとも動かないルピンを見て、彼が負けたことを信じられないのだろう。奈落に住み着いている悪漢の幾人かのレベルを見ても、あの程度なら何人束になろうがルピンの相手にならない。
オセロは彼の強さを誰よりも信じている。
そう、まるで久遠の強さを誰より心棒する双六のように。
「さぁーて、私の役目はこれにて終了っと。銭形ちゃん。後のことは任せても大丈夫だよな?」
「はい。連行途中に目を覚まされてもおっさんじゃ対処できないので、牢にブチ込むまではお願いしますよ」
「ったく、しゃーねーな〜」
そう言って桜子は、ズルズルと乱暴に体格の良いルピンを引っ張っていく。女性がああも簡単に大の男を引き連れるのは異様である。
「待てよ。ルピンを……ルピンをどこに連れていくつもりなんだ?」
その光景を見て我に返ったオセロが口を開く。
それでもまだ口調が辿々しく、ショックから抜け切れていないのがわかる。
「悪い事をした奴は警察に連れて行かれる。常識だろ?」
「……っざけんな。ふざけんなよ!?」
激昂したオセロが吠え、桜子の胸ぐらを掴んだ。
「何でだよ。何でなんだよ! 何でお前らはアタシから何もかも奪っていく!?」
「おいおい、そんなからむなよオセロちゃん。ルピンとの約束で手を出さないって言ったんだから。私は約束を守る女なんだ」
悲壮なオセロの叫びが辺りに響く。
「あいつはアタシにとっても唯一できた『繋がり』なんだ。家族なんだ。やめろよ。奪うなよ。頼むからアタシ——の家族を連れてかないでよ」
「あらら。泣いちゃった」
桜子は「弱ったなぁ〜」と口では言いながら、顔は何一つ困った風ではなかった。それどころか——楽しんでいるかのようにさえ見える。
「だけど悪いなオセロちゃん。ルピンは連れて行く。それが私の決定だ」
「そんなっ……」
言葉で桜子はオセロを突き放した。
ガクリと力が抜けたように膝から崩れ落ちた。
そんなオセロに桜子はさらに追い打ちをかける。
「はは。それに一つ勘違いしているなオセロちゃん。ルピンを返してほしければ今すぐ私に逆らえよ。奪っていく? 当たり前だろ。世の中は強者が良い目をみるもんだ。奪われるのが嫌なら力を欲しろよ。奪い返せるぐらい吠えてみろよ。挑戦しろよ。それが弱者の特権だろ?」
「お前っ……!!」
それは——悲しいながらも真実だと久遠も思った。
久遠とて、この世が善意と優しさで成り立っていない事を知っている。経験している。
善意もあれば悪意もある。
優しさもあれば憎しみもある。
強者もいれば弱者もいる。
理不尽だ。まったくもって理不尽な世の中だ。
それでも、その理不尽で不公平で不平等なのが——人の世なのだ。
「あぁ、ちなみにルピンに手を出さないと約束しているが、私に逆らったら当然相応の目に合わせるからな。私とやり合いたければ——死を覚悟して来な」
あまりにもわかりやすい殺気が桜子から放たれた。
殺気とはつまるところ『相手を本気で殺す気』でいることを伝える事だ。よく殺気の強弱とかが漫画表現であるが、そんなもの実際にない。0か1かの二択だ。ただただ単純に相手に『殺される』と思わせられれば十分なのだ。
今のオセロのように。
桜子の殺気に当てられたオセロは、ねっとりとした汗を全身から噴き出していた。おそらく、彼女の意識には桜子が自分を殺すビジョンが見えている事だろう。
「——いい加減にしろ。やり過ぎだ」
そんなオセロを見かねた久遠が止めに入る。
流石にこれ以上は許し難い。
「おいおい久遠ちゃ〜ん。やり過ぎってお前が言うのかよ?」
「元々は俺の仕事だ。それにルピンからは見届けを頼まれたからな」
多分、あいつはこうなることを見越していた。
その上で挑んだのだ。
欠片ほどしかない可能性の未来を信じて。
そして、そうならなかった未来に備えて久遠に見届けさせたのだ。
この理不尽な現実を。
ならば、ここで久遠が取るべき選択は——これだけだった。
「それ以上やるってんなら俺が許さねーよ」
「へぇ〜。俺が許さないか。久しぶりに聞いたな〜そんな言葉!」
楽しそうに桜子は笑う。
勝てるかどうかは正直わからない。
久遠と互角に近い勝負をしたルピンであれなのだ。久遠が久遠のままでいる内は、恐らく勝てないだろう。
勝てるとしたら<異常>を解放して本気になる事ぐらいだ。
それはあまり気が進まない——が、そうでもしないと勝てない相手だ。
久遠がこれまで出会ってきた中で、一目で強いと判断したのは正義屋の虎徹真理とルピンと戦場ぐらいのものだ。
だが、久遠は最初桜子が強いとは思っていなかった。
無理もない。
久遠が強さを測るときの基準にするのは肉体的性能もそうだが、その身体に染み込んだ傷であったり、癖みたいなものから見抜いている。
そんな見た目の強さを久遠は持ち前の高性能な五感から見極めていた。
なのに、この桜子という女はそれがなかった。
なかったのに、強かった。
久遠にとっても未知の強さであり、未踏の相手。
集中力を最大にして、久遠は桜子の一挙手一投足に注目する。
「許さなかったらどうするよ?」
「ルピンの代わりに、あの女を守るだけだ」
「へぇ〜。じゃあ私と戦おうってのか?」
「必要があればな」
オセロに手を出せば戦う。
依頼の事なんてもう終わったようなものだし、最低限の義理は果たした。ならばここから先は好きにさせてもらう。
そう決めた。
「それはそれで魅力的なんだが——私が直接久遠ちゃんに手を出すと管音に怒られそうだから勘弁な」
「なっ——!?」
左脚の後ろに激痛が走った。
続けて聞こえる「パァン!」という銃声音。目の前にいる桜子は銃など出していないし、出す隙など与えないように集中していた。
ならば一体誰が——?
その答えはすぐにわかった。
「ごめんねー久遠くん。その方はオッサンにとって大事な上司でね。悪いけどそれ以上はこっちも見過ごせないんだわ」
銭形が微笑を浮かべながらも真面目な顔で言う。
完全に銭形の事など意識から離れていた。
先のルピンの戦いで、桜子が言葉巧みに戦況を操ることを知っていたのが裏目に出た。いや違う。桜子はそれすら見越して自分に注意を向けて、銭形の存在を久遠の中から消したのだ。
「なぁ〜久遠ちゃん。最強ってなんだと思う?」
脚から血を流し、片膝立ちになった久遠を上から見下ろして桜子は言う。
「もちろん、私個人の力だけでも最強の部類には入ると思うぜ。だけど——所詮はその程度の力でしかないんだ」
これだけのことを仕出かしてその程度だと桜子は断ずる。
個人の最強は小さなものだと。
「当たり前の話だが、人が最強たる所以は『群れ』としての力だよ」
人生の先輩が後輩に教えを説くように、桜子は久遠を見る。
「個と群れの大きな違いはわかるか? 時間と物量差だ。個人の力には限りがあって、本当に何かを為したいのであれば——個人では絶対的に力が不足するんだ」
わかってはいる——つもりだ。
それは久遠も感じていた事の一つだから。
自分の力が如何に優れていようとも、大きな何かを成せないのだと。
「確かに久遠ちゃんは『個』としては私に匹敵するぐらい最強だろうさ。だからこそ——私には絶対に勝てないんだ」
あぁ、久遠はようやく理解した。
桜子は個人の戦いにこれっぽっちも拘っていない。
彼女の目的が果たせるのであれば、他の人間の力を使う事を何一つ厭わないのだ。
なのに、久遠は桜子を『個』として倒す事ばかり考えていた。
だからこそ、久遠は桜子に勝てない。
「もう一度言ってやろう。私は碧井桜子。世界最強の『武力』を持つお姉さんだ」
それは絶望にも似た響きを持つ言葉だった。
個では、久遠では桜子に勝てない。
「さて久遠ちゃん。お前は最強を前にして立ち向かう気はあるのかい?」
「くそったれが……」
立ち向かう気なんていくらでもある。
けれど久遠には——桜子に勝てる未来は見えなかった。




