第1話目覚め——Fランクの現実
第5階層のセーフエリアで、剣崎蓮が口を開いた。
「水無瀬。お前、明日から来なくていい」
周囲の空気が凍った。パーティメンバーの四人が気まずそうに目を逸らす。松明の炎が揺れて、石壁に影を踊らせている。
「理由を聞いてもいいか」
「火力がない。回復もできない。バフも微弱すぎて体感できない。三ヶ月間、お前がいてもいなくても戦闘結果は変わらなかった」
剣崎の言葉に嘘はなかった。ステータスは全項目が平均以下。取得スキルは【微弱加速】と【小ステップ】と【パリィ】。どれもスキルツリーの最底辺に放置されたハズレだ。
「分かった」
それだけ言って、立ち上がった。未練はない。三ヶ月間、このパーティにいたのは剣崎のためではなく、自分の仮説を検証するためだった。後方から、誰にも気づかれないように、モンスターの攻撃モーションを観察し続けた三ヶ月間。データは十分に集まっている。
「……恨むなよ。お前に才能がないのは、俺のせいじゃない」
剣崎が背を向けた。金色に輝く大剣が、松明の光を反射している。S級スキル【黄金斬撃】。あの一振りで、第5階層のモンスターは紙切れのように両断される。才能の具現。
地上に戻り、ギルドの受付で脱退届を提出した。受付嬢が「お疲れ様でした」と事務的に言う。所持金を確認する。銀貨12枚。探索者としての全財産がそれだった。
裏路地のジャンク屋に足を向けた。薄暗い店内に、壊れかけの装備や型落ちのデバイスが雑然と積まれている。
「じいさん。ナビゲーション・ドローンはあるか」
「あるにはある。ゴミだがな」
カウンターの奥から引っ張り出されたのは、手のひらサイズのドローン型デバイスだった。塗装は剥げ、プロペラの一枚が微妙に曲がっている。型番のシールは半分剥がれて読めない。
「三年前の型落ちだ。演算速度は最新の五分の一。たまにフリーズする。銀貨三枚」
「もらう」
銀貨を置いて、デバイスを手に取った。電源ボタンを長押しする。五秒ほど何も起きず、それからプロペラが回り始めた。ブブブ、と不健康な音を立てて、肩の高さまで浮き上がる。
『ピ……ガガッ……起動シマシタ。マスター登録を開始シマス……完了。よろしくお願いシマス』
合成音声。ノイズが混じっていて、ところどころ音が割れている。
「名前はナビでいい。よろしく」
『ナビ、了解シマシタ。現在のバッテリー残量、12パーセント。充電を推奨シマス』
「買って五秒で充電切れか」
爺さんが「返品は受け付けねえぞ」と言った。知っている。
アパートに帰り、ナビを充電ケーブルに繋いだ。六畳一間。万年床と、壁に貼った新宿第3ダンジョンのフロアマップ。冷蔵庫にはペットボトルの水と、賞味期限が昨日切れたコンビニのおにぎりが一個。
おにぎりを齧りながら、フロアマップを眺める。赤ペンで書き込んだメモが余白を埋め尽くしていた。モンスターの出現位置、攻撃パターンの走り書き、タイミングの数値。三ヶ月分の観察記録。
第1階層から第10階層が浅層。第11階層から第20階層が中層。第21階層から第30階層が深層。それより下は未踏域と呼ばれるが、到達した探索者はほとんどいない。
剣崎のパーティは第5階層を周回していた。剣崎の実力なら第10階層以上に行けるはずだが、安全に倒せる敵を数で稼ぐスタイルを好んでいた。効率的ではある。しかし、面白くはない。
違う道を行く。
効率ではなく、仕組みを知りたい。このダンジョンというシステムが、どういうルールで動いているのか。モンスターの攻撃には、どんな法則があるのか。三ヶ月間、後方から観察し続けて、一つの仮説に辿り着いた。
ダンジョンは自然現象ではない。何者かが設計したシミュレータだ。だからスキルには「フレーム」がある。処理には「硬直」がある。バグには「再現性」がある。物理法則ではなく、プログラムの処理順序。それを理解すれば、才能がなくても戦える。
翌朝。新宿第3ダンジョンの入口。新宿駅南口から徒歩五分のビルの地下にある。エレベーターで地下三階まで降りると、コンクリートの壁が突然石造りの洞窟に変わる。境界面の薄い魔力膜を通過する瞬間、肌がピリッとした。
受付で探索者カードをかざし、ソロ入場の手続きを済ませた。受付嬢が「お気をつけて」と定型句を投げてくる。ソロの探索者に向ける目には、どこか哀れみが混じっていた。
『マスター。バッテリー残量78パーセント。本日の推定活動可能時間、約4時間デス』
ナビが肩の横でホバリングしている。昨夜一晩充電して、ようやくこの程度。
「十分だ。行くぞ」
第1階層に降りた。苔むした石壁、天井から滴る水滴。空気が湿っぽくて、微かに硫黄の匂いがする。足元の石畳は長年の探索者たちに踏まれて、中央だけ滑らかに磨り減っていた。
通路の奥から、ぷるぷると震えるゼリー状の物体が三つ、這い寄ってきた。スライム。最弱のモンスター。初心者が最初に倒す相手。
「ナビ。これからスキルを使う。発動モーションから効果発生までの時間を、ミリ秒単位で計測しろ」
『了解。計測モード起動シマス』
剣を抜かず、その場に立ったまま【微弱加速】を発動した。自分自身に。
身体が一瞬だけ軽くなる。骨の芯が浮くような、奇妙な感覚。
「結果」
『発動モーション開始から効果適用まで、0.35秒。そのうち、発動後0.1秒間に、マスターの身体情報がシステム上からロストする現象を確認シマシタ』
やはり。
三ヶ月間、後方から観察し続けて立てた仮説。【微弱加速】はステータスを書き換えるバフスキルだ。書き換え処理の瞬間、対象の判定がシステムから一時的に消える。消えている間は、何も当たらない。
0.1秒の無敵時間。
誰も気づいていない。このスキルは「効果が微弱すぎて使えない」というのが定説で、スキルツリーの最底辺に放置されている。加速効果だけ見れば、確かにゴミだ。ところが、書き換え処理中の0.1秒。そこに本当の価値がある。
スライムが距離を詰めてきた。身体を膨らませている。酸を吐く予備動作。
動かない。スライムの酸吐きモーション。膨張開始から発射まで約1.2秒。弾速から逆算して、この距離なら着弾まで追加0.4秒。合計1.6秒。
頭の中でカウントする。
1.0。1.2。1.4。
三匹が同時に酸を吐いた。緑色の液体が扇状に広がる。
1.55。
「【微弱加速】」
酸が身体を通過した。服を焦がさない。肌に触れない。判定が、この瞬間だけ存在していないから。
背後の石畳がジュウッと溶ける音がした。
「【小ステップ】」
前に出た。一歩。スライムの目の前。酸を吐き終えた直後の硬直、約2秒。
ショートソードを三回振る。核を貫く。三匹が光の粒子になって消えた。
膝に手をつく。心臓がうるさい。手が震えている。理屈通りだった。理屈通りだったけれど、身体は正直だ。0.05秒ずれていたら、顔面に酸を浴びていた。
『戦闘終了。スライム3体の討伐を確認。マスターの被ダメージ、ゼロ。……マスター、心拍数が危険域デス。休憩を推奨シマス』
「ああ、少し座る」
壁にもたれて座り込んだ。冷たい石の感触が、火照った背中に心地いい。
スライム三匹。初心者が木の棒で殴っても倒せる相手だ。それを倒すのに、ここまで緊張する人間は他にいないだろう。
でも、これでいい。仮説は正しかった。【微弱加速】の0.1秒は、使える。
「ナビ、今の戦闘の記録を全部保存しろ。スライムの攻撃フレーム、スキルのタイミング、全部だ」
『保存完了デス。マスター、一つ質問がありマス』
「なんだ」
『なぜ、盾を使わないのデスカ。防御した方が、生存確率は高いデス』
「盾で防いだら、反撃が遅れる。それに、上の階層に行けば盾ごと叩き潰される攻撃が来る。防御じゃ限界がある」
『では、回避スキルを取得すれば——』
「スキルツリーに、まともな回避スキルはない。あるのは【微弱加速】と【小ステップ】と【パリィ】。全部ハズレ扱いのゴミスキルだ。でも、今やっただろ。ゴミでも、使い方次第で化ける」
『……了解シマシタ。私の演算能力で、サポートシマス』
「頼む」
立ち上がる。膝がまだ少し笑っている。
第2階層に降りよう。次はゴブリンだ。あいつらの短剣の振り下ろしモーション、発生フレームを計測する。
一匹ずつ、一撃ずつ、法則を暴いていく。才能がない。ステータスも低い。スキルもゴミだ。けれど、ルールを知っている側が勝つ。ゲームとは、そういうものだ。
薄暗い階段を降り始めた。ナビのプロペラ音が、静かな通路に響いていた。




