第二十三章 大塩焼け(おしの)
第二十三章 大塩焼け(おしの)
清兵衛はんは一体どのような方やろう。しのは胸騒ぎが収まらない。
三橋屋のたかと習い事に行き、戻って来たところ、母親のすえと番頭の喜太郎が奥の客間で一人の男と話し込んでいた。襖越しにどこかで聞き覚えのある声が響き、ふと柱の陰で止まった。
「米問屋を狙い撃ちにした打ち壊しや火付けが後を絶たぬ。高津屋信次郎殿に油断なきよう伝えられたい。喜太郎殿も、くれぐれも用心願いたい。殊にこれから春先までは戸締りを厳重にすることだ。玄蕃桶も家屋の各所に据え付けられたい。廻米で骨を折ってもらっただけに、高津屋が被害に遭わぬかとご城代も殊のほかご懸念なされておる」
「ことさように、治安が悪うなっておますのやろうか?」
すえがおろおろ声で訊いた。
「さよう、まず狙われるのは両替商と米問屋でござろう」
その声に聞き覚えはあるが、どうしても思い出せない。第一、しのに侍の知り合いなどそう多くいない。と、その時ハッと思いついた。侍言葉だが、曽根崎の清兵衛の声音ではないか。
「喜太郎はん、四年続きの大飢饉で、思いも掛けぬ難儀に遭いま。これから高津屋はどうなるんやろうか?どうしたらええのやろか」
すえの声は早くも涙交じりになっていた。
「御寮人さん、ご懸念には及びまへん。普段から火の用心には特別に気を配っておますが、こうしてお聞きした以上は旦那様とも相談のうえ、万全を期しまっさかい、万が一にも大事には至らしまへん」
「お内儀、案ずるには及ばぬ。無防備ならともかく、信次郎殿や喜太郎殿が用心されれば別条なかろう。それではこれで」
武家風の客人が部屋から出てきそうだったので、しのは柱の陰に身を顰めた。と、現れたのは紛れもなく、曽根崎の清兵衛だった。外貌は町人髷の清兵衛だが、番頭の喜太郎には素性が分かっているようだった。表玄関に向かわず、
「このような恰好なので、来た時のように勝手口を使わせてもらおう」
と、清兵衛が言い、喜太郎が腰低く案内して清兵衛たちは勝手口の方に折れた。
「喜太郎さん、何ぞおましたのかい?」
しのは戻ってきたすえと喜太郎を交互に見据えて問うた。客人が清兵衛と分かったので、伝八の話ではないかと覚悟を決めた。伝八には二度と会うなと、父親の信次郎から厳しく命ぜられている。しかし、実際には会っただけではなかった。事情を話さねばならない、是が非でも伝八にもう一度会う必要が出来てしまったのだ。だが、喜太郎の口から出たのは伝八絡みの話ではなかった。
「いとはん、大事なことだす。近近、船場の米屋や両替屋を狙った大掛かりな打ち壊しがあるかも知れまへん。火付けもありそうとかで、用心せなあきまへん」
「見かけない方がお越しなさったようやけど、お帰りになった方はどなたはんでおました?」
しのは覚悟を決めて訊いた。喜太郎は声を一層ひそめて答えた。
「ここだけの話でおま。あのお方は、大坂ご城代土井利位様の近習で、牧野小次郎様でおま」
「お侍?」
「へえ、特別なお役目柄、町人髷を結い、あのようなお姿をなさってはるが、れっきとしたお侍でおま」
天天天満の天ぷらうどんと言いながら、とんだ食わせ者だったのかも知れない。だが、もし清兵衛が侍なら、どうしてあきんどに扮し、洗心洞に出入りしているのだろう?洗心洞と、打ち壊しや火付けは関係があるのだろうか?
更に解せないことがある。何かを探るために伝八等に近付いたなら、どうして曽根崎の裏長屋を提供して、二人の密会を手伝ったのか。それこそ余計な節介ではなかったか?伝八と一晩を過ごしてから三月近く経っていた。早や三月!しかも平穏な三月ではなかった。しのはこの体の変化をどうしても伝八に知らせたいと気もそぞろになっていた。
あの時以来、しのは一日も欠かさず明け方の与力町方面の空を観ている。たしか伝八は『火の手が上がる』と言った。伝八が三途の川を渡るのがその日と聞いたので、他の事には注意が向かわなかったが、一体どういうことだろう?どうやら伝八のいる洗心洞と、清兵衛が高津屋を訪れたのと何か関係がありそうだ。火付けは獄門と決まっているが、まさか伝八が大罪を犯すことはないだろう。だが、城代の近習が町人姿で動いているのだ。何か恐ろしい事件が起こるのではないか?それに伝八が巻き込まれないか?しのには想像もつかなかったが胸騒ぎを抑えることが出来なかった。
まさに清兵衛が高津屋を訪れた翌朝だった。ふと明け方にいつもと違った空気を感じ取り、しのは手探りで障子を少し開け、頑丈な透かし窓から外を覗いた。と、暗闇に東の空が赤く映えているではないか。耳を澄ますと次第に半鐘の音が響くようになった。しのは、とうとう伝八が耳打ちした日を迎えた、と悟った。あの時は、一緒に旅立つこの日を待ち望んでいたのだ。
店の方もそれと気付いたのか騒がしくなった。火事だ火事だと、大声を張っている。次いで信次郎と喜太郎の落ち着いた声も続いた。
「旦那様、これが牧野様のお話はでおますな」
「喜太郎、間違いなくそうやろう。皆には手筈通り、火消しの備えをするように、戸締りを確かめ、出歩かないことや」
話している間にも外が騒がしくなってきた。
「すでに天満橋の北詰まで火の手が広がっているようだす」
「わては今橋の方を見てこよう。なに、若い衆を三、四人従えて行くので心配ない」
「それでも危のうございます。代わりにわてが」
「喜太郎、危ないからこそわてが行くのや。だが、無理せんと帰って来るので心配せんように。堂島や中之島は蔵屋敷が多くて警固が厳しい。大店が多い北浜や船場の方が狙われるやろう。余程のことがない限りここは襲われたりしないやろう」
そう言いつつ高津屋信次郎が出かけたのと、牧野小次郎こと清兵衛が高津屋を訪れたのとはほぼ同じ時刻だった。今日の清兵衛は大小を腰に纏っている。『牧野様』と喜太郎が声を掛けたのと、奥の座敷からしのが『清兵衛はん』と驚いたように駆け寄ったのがほぼ同時だった。
「喜太郎殿、今日は貴殿への用向きでない。ここでゆっくりも出来ぬ、おしのさんと話をさせて貰えぬか」
「牧野様は、いとはんをご存知でいらっしゃいますか?」
「そういうことだ。おしのさんは清兵衛という町人姿のそれがしと顔見知りだ。おしのさん、少し表で話をしようか」
「はい、ただいま参ります」
たすき掛け姿のしのは、いそいそと清兵衛に続いた。
「おしのさん、元気で何よりだ」
表に出るなり何時もの清兵衛の顔で笑いかけた。
「高津屋には世話になった。こちらの方面は大丈夫と思ったが登城する前に立ち寄った。おしのさんに会えるとはな」
「清兵衛はんもお変わりなくてようございました。わてはこの通り元気です。そして、伝八との和子も、このお腹で健やかに育っております」
しのは腹に溜まったうっぷんを晴らすかのように、聞かれもしないのに打ち明けた。
「和子?おしのさんに?では、あの時に!」
「はい、あの時に授かりました」
「うむ、それはめでたい。また親子とも元気で重畳。腹の子は、伝八さんの命を引き継ぎ、併せておしのさんの命も救ったのだ。よく聞くがよい。もはや伝八さんを追って命を絶つことなどまかりならぬ。心中もどきの振る舞いを目にして誰が喜ぶというのだ。ましてやお腹の子は高津屋信次郎殿の初孫でもあろう。何があろうとも命に勝るものはなし。分かったな」
清兵衛には、しのの覚悟が見えているかのようだった。口調も激しく釘を刺した。そうして目と口元を和らげて続けた。
「おしのさん、命は棄てねばならない時と、大事に育てねばならない時がある。いま伝八さんがここに居れば、おしのさんにどちらを望むかは考えるまでもなかろう。和子の命は伝八さんにとってもおしのさんにとっても何にも代えがたい宝物の筈だ」
「はい、伝八と一緒に和子を育てとう思います」
「伝八さんは和子が出来たことを知っているのか?」
「いえ、あれ以来お目にかかっていまへん」
「それなら、登城の前に伝八さんに知らせよう。今頃は北浜の方に居るはずだ。伝八さんも喜ぶだろう」
「伝八は如何なるのでございましょう?」
「うむ、伝八さんは、その和子が生きる新しい世の中を作るために、ひと足先にあの世に旅立つことになるかも知れぬ。おしのさんも伝八さんから決意のほどを聞いたのではないか?だから、伝八さんがお前さんたちの傍に居なくなったとしても、嘆くのではない。何時でも、どこにいても、おしのさんたちを見守っているだろう」
清兵衛は改めて、何があろうと伝八の累がしの達に及んではならぬ、ご城代に取り計らっていただこう、と決心した。
「和子は、生まれた途端に、てて無し子ですか?」
「いや、三国一の父親が、何時もお前さん達の傍に居るはずだ。その子を伝八さんの分まで可愛がってやれ。おしのさんなら出来るはずだ」
「清兵衛はんは如何なさるのですか?」
「うん、それがし、いや、わたしは見ての通りの清兵衛、ご城代にお会いし致仕のお許しを頂く。侍の牧野小次郎とは今生の別れだ。今までは炭屋の清兵衛だったが、これから生きて行く限り、うどん屋の清兵衛として女房と二人で暮らしたい」
「天満の天ぷらうどんでおますか?」
「そう言うことだ。せん、というのが女房の名前だが、あの長屋で知りおうて、今ではこの世にたった一人の恋女房。うどん作りの師匠でもある。早く、天神さん界隈でうどん屋を営みたいものだ」
と一瞬目元を和らげた。
「修行してうまいのを作り、おしのさんにもその和子にも食べて貰いたいな。さあ、そろそろ行かねば。伝八さんには必ず赤子が出来たのを伝えよう。みな達者で暮らせ」
子供が生まれたとしても、父親の伝八はどうなっているのか、父親はともかく、残された母子はどのような運命をたどるのか。考えれば不安が先立ってしまう。しかし、清兵衛は久し振りに笑みを浮かべていた。
「そうだ、おしのさん、こういう時だからこそ達者が一番だ」
「わては必ずお腹の子を育て上げます」
しのは涙ながらにそう言うと清兵衛に深深と頭を下げた。
清兵衛は予定を変えた。南へ迂回し登城する前に、先ずは伝八に会わねばならない。このまま東に進み船場で伝八を待ち受けることにした。次第に煙が充満して来た町並みに清兵衛の後姿が消え去るまで時間はかからなかった。




