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綱ヶ背橋  作者: 伊東歩
5/8

運命

「祐君は運命って信じる?」

 懐かしい言い回しに、思わず体がピクリと反応した。もちろん声はまったくの別物だ。机に無造作に置かれた教科書から眼を離し、机の向かいになつ人物を見上げる。

「響子ちゃん、どうしたの?急に」

「ちょっと思い出してね。よくこんな言い方してたでしょ、優衣ちゃん」

桂北高校に入学してもうすぐ3ヶ月が経つ。あれからもう1年が経ったのか、祐樹は遠くを見つめるように、窓の外へと目をやった。緑が生い茂る校庭の並木が眼に映る。

「運命っていわゆる、決まっている未来ってことでしょ」

 響子は黙って祐樹を見つめている。

「あの木々は来年も葉を広げて、花を咲かせて、小さな実をつけるだろうね。それは、僕ですら分かるとても簡単に決まっている未来だ」

「つまり?」

 校庭の木々から眼を離し、響子に向ける。

「人が言う未来なんて薄っぺらい。ひいては、人の言う運命も薄っぺらいってことさ」

「哲学的ね」

「天才も凡人も、結局は人だ。自力で空は飛べない」

「尾藤君もなかなか考えるヒトだったのね。ぼーっとするだけじゃなく」

 響子の笑みに合わせて、祐樹も唇で薄く弧を描く。

「すぐ妄想の世界に浸るのは僕の専売特許だよ。で、どうして急にそんな話しを?」

 響子は少し目線を落とし、少し思案する素振りを見せた。芝居がかった動きで、祐樹は少しだけ笑った。

「あの家に人が住むって」

 ちょっと間を空けて、祐樹は「そう」とだけ答えた。

「来月頭からはその家の子もこの高校に来るらしいよ」

「運命的だね」

「そのセリフ言うのまだ早いよ」

 それからまた少し間をおいて、響子は告げた。運命的な話の、真意を。


響子や隼人たちはもちろん、祐樹自身でも不思議なほど、優衣の死に対する動揺は短かったように思う。1ヶ月と経たないうち、周りは誰もこの話題を出さなくなった。人気も人望もあった優衣を、偲ぶ声はあっても話題のネタとしてあげる人間はほとんど皆無だった。名前を聞かなければその事実を思い出すことも少ない。祐樹は極力誰とも話さなかった。そして得意の妄想の世界へと思いをはせる。そうすれば祐樹は優衣とまた会うことができる。夢に出てくれば触れることもできるしそのぬくもりも感じることができる。

しかし、それは真実への、後ろ向きな対処でしかない。自らを制するためには有効だった。だが思い出の世界にどっぷり漬かっているだけでは先に進めるはずもない。

「教室に飾られる花って何かすごく綺麗ね」

 これは響子の言葉だ。響子は、あるときから積極的に祐樹に優衣の話をするようになった。優衣の話題に触れられる度、祐樹の中の優衣はその姿をぶれさせた。

「何でそんなに優衣ちゃんの話をするんだ?」

 ある日祐樹は、普段見せないような強い調子で響子に問うた。響子はいつもどおりの物静かな口調で答える。

「友達を腐らせたくはないのよ」

 祐樹は憤慨した。亡き恋人を想うのが悪いことだというのか?響子の口調は変わらない。「もういない人間を、思い出すのと想い続けるのは全くの別物よ」

「死んだんだからもう忘れろって?」

「言ってるでしょ。私だって故人を思い出すのは素敵なことだと思う。いなくなってもなおその人が私たちの中にはしっかり根付いているってことだもの。でも、故人を想うのは意味がない」

 自分の気持ちが、意味のないものだと?

「忘れろっていってるんじゃないよ。難しいかもしれないけど、想いを思い出に変えるべきよ」

 認めきれない、でも響子がどれだけ自分のために考えてくれているのかは伝わった。努力はするよ、祐樹はそれだけ言った。迷ったが、やはり礼は言わないでおくことにした。それからは、一日中優衣の影を追うことだけはなくなった。


 中学の頃から成績の良かった響子と隼人は、圭北高校の理数科に進んだ。あれから勉強どころではなくなった祐樹は、周囲に心配されながらも何とか普通科へと進学することが出来た。智弘は、近くの工業高校へ行き、皆が一斉に集まる機会はだいぶ減ってしまった。それでも、たまの休日にファミレスに集うことも少なくない。

「ごめん、待たせた」

 カラカラン、と小気味良い鈴の音が響き、智弘が小走りで祐樹たちの席に駆け寄ってきた。

「急に招集かけられてもそんなに早く来れねえよ。こちとら日々の生活で疲れてんだよ」

「あら、だったら断ってくれても良かったのよ。ねえ」

「まあ、無理に誘った覚えはないね」

「そんな冷たいこと言うなよ」

 響子の隣に腰を下ろす。

「で、今日の議題は?何か話すことがあるんだろ?」

 祐樹は笑顔を作って答えた。

「いや、特に何も。最近トモに会ってないなと思って」

 ふ~ん、智弘は若干がっかりしたように、しかしそれ以上は何も言わずに納得してくれた。

「どう、高校生活は?」

 響子が口を開く。

「俺に言ってんの?」

「君以外は皆同じ高校だよ、僕らに聞く必要はないだろう」

 いつも通りの隼人の鋭いツッコミ。

「可もなく不可もなく。バイトは結構疲れるけど楽しいよ」

 智弘は高校生活1ヶ月過ぎから飲食店でアルバイトを始めた。圭北高校は原則的にアルバイトを認めていない。祐樹以下3人はやりたくても出来ないのだ。専ら、授業についていくだけで精一杯の祐樹にとっては、アルバイトなどする気も、する余裕もないのだが。

 それぞれの前に料理が配され、彼らは世間話を交えつつそれを口に運んでいく。ある程度空腹が満たされ、皆の箸の動きが鈍くなった頃、響子が開口した。

「あの家に人が住むよ」

 智弘の動きが完全に止まった。そして「そっか」とだけ言って、とんかつの最期の一切れを口に放り込んだ。十分に咀嚼し、水で流し込む。

「結構すんなり決まったな。もっと後になるかと思ってたけど」

 優衣が亡くなって3ヶ月経つだろうかという頃、優衣の両親は家を離れた。仕事の都合で引っ越さざるを得なくなったというのが理由だったが、その真意は誰も知らなかった。いつまでも娘が亡くなった土地にいられないのだろうというのは、専らの噂でしかない。元・小林家はそのままで残され、売りに出された。

「そうね。それでね、あの家の近くに私の親戚が住んでて色々聞いたんだけど」

 そこで一旦、言葉を区切った。皆の目線は響子を取り巻いている。それを確認してから、再び続けた。

「苗字は大野。3人家族で、16歳の娘さんがいるって」

「俺らの1コ上?」

 首を振る。

「今年で16。だから同級生ね」

「この辺りは僕も初めて聞くな」

 隼人の口調はいつもどおり冷静だが、やはり興味はあるらしい。

「来月圭北高に編入。名前は、大野唯さん」

「え?」

 予め聞いていた祐樹以外の二人は、絶句し、固まった。

「ユイ?」

 響子の頭は、今度は縦に揺れた。

「字は違うけどね。優衣ちゃんと一緒のユイ」

「大野唯が、元小林優衣の家に、住む」

 そして自分の同級生になる、祐樹は心の中で呟いた。

「運命的だな。ま、とはいえあの優衣ちゃんとは別人なわけだし、こんな偶然もあるんだなってことだな」

 智弘は明るく言い放った。あれから1年経つのだ、早いかもしれないが、いつまでもそのことを引きずる必要はない。

「だろ?祐樹」

「もちろん」

 当然だ。優衣が住んでいた家に住み、ユイという名を持っているからと言って、その娘が優衣と何かしらの関係があるわけではない。

 それから4人は、全く別の話で盛り上がり、大野唯という名の赤の他人の存在を忘れ去った。


 8月に入り、夏らしさは勢いを増してきた。考えずとも、首筋を伝う汗が夏の到来を思い出させてくれる。

教室に入り自分の席へと進むにつれ、室内の様子がいつもと違うことにすぐに気付いた。祐樹の席は窓側から2列目の最後尾。クラスメイトの人数の関係で祐樹の左隣、つまり一番窓側の列は一人分席が少ない。しかし今日はそこに、一対の席が用意されていた。そうか、大野唯が今日から登校してくるのだ。まさかこのクラスに入ってくるとは。

席に着く。自分の隣にユイが来るのだ。小学校の頃を思い出した。優衣と隣り合わせの席になったのは2年生の1回きりだった。本当なら今隣にいるのは優衣だったはずなのだ。優衣と肩を並べて授業を受け、終われば二人で一緒に帰り、土日にはどこかに遊びに行っていただろう。

朝のホームルームが始まった。祐樹はいつもどおり、左手の窓から外を眺める。そこには優衣が佇んでいた。満面の笑みで祐樹に微笑む。祐樹も、誰にも気付かれぬようこっそりと微笑み返す。その時だった。

「―ユイです。よろしくお願いします」

 稲妻が落ちた。その声を聞いた瞬間、全身に鳥肌が立った。まさか、思わず声が出た。

「優衣ちゃん」

そう、その声は一寸違わず優衣のそれだった。そしてその姿は、

「何だ尾藤、大野と知り合いか?」

 担任の吉岡が驚いた表情を見せる。クラスメイトたちも祐樹に注目している。その面々が眼下に見える。気付くと自分はその場に立ち上がっていた。何かのいたずらか、とまで思った。眉で綺麗にそろえられた前髪までも同じだった。

「いえ、多分初対面だと思いますけど」

 大野唯が少し困惑したように、しかしその口元には笑みが浮かんでいた。その笑みもまた、彼女の声と同じように、優衣のそれそのものだった。


「偶然と運命は共存しないわよ」

 響子は笑みを浮かべ、諭すように言った。

「じゃあ川島さんはどっちだと思う?」

 祐樹は背後の壁に背をもたれた。通路のそれは、教室内のものより冷たく感じた。

「偶然に決まってるでしょ」

「でも運命を信じるかって聞いてきたのは川島さんだ」

 響子は少し思案して、開口した。

「つまり私の場合、その答えはノーってことね」

「あの、」

 すぐ隣から声がした。優衣の、いや、唯の声だ。唯は一人だった。

 ぎこちない笑い。確信の持てない相手に話しかけたせいだろう。それでもきっと自分の方がうまく笑えていない、祐樹は思った。

「たしか同じクラスの、えっと」

「あ、お尾藤、祐樹」

 ぱっと、唯の表情に自然な笑みが広がる。

「だよね。あ、初めまして。大野唯です」

 響子に向き直り、ぺこりと頭を下げた。響子も慌ててそれに倣う。

「あ、私は川島響子、です」

 一目で響子の心境は分かった。祐樹がどれだけ似ていると言っても真剣に聞く耳を持たなかった響子だが、その眼はその事実をようやく信じたと如実に物語っていた。瞳孔まで開かんばかりに眼を見開いている。百聞は一見に如かず、か。

「今大丈夫?」

「あぁ、うん。何?」

「先生に後で職員室に来るようにって言われてたんだけど、私方向オンチで」

 唯は少し恥ずかしそうに言った。どきりとさせられる表情だった。

「ああ、職員室はそこの階段を下りて・・」

「あの、できれば連れて行ってくれると助かるんだけど・・」

「えっ?」

「あ、出来ればでいいんだけど。いや、やっぱり自分で行ってみる。ごめんね」

「連れてってあげればいいじゃない。ね、その方が確実でしょ」

 響子が唯に微笑みかける。そして祐樹に目線を移す。

「私は次の授業の準備しないとだから、もう行くね」

 そう言うとさっとその場を離れていった。通路に残される二人。祐樹には若干重い空気に感じられた。何といっても初対面の人間と二人にされたのだ。たとえ優衣に似ているとはいえ。

「ごめん、邪魔しちゃったかな?」

「え、いや邪魔なんて。い、行こうか」

 祐樹は歩き出した。緊張のせいか足取りは速く、唯が慌てた様子で追いかけてくる足音が聞こえた。

 階段を2階下りてすぐ左に折れる。それからは3、40m直線が続く。祐樹は唯の2、3歩先を歩いた。何ひとつ会話がない。その状態が祐樹を更に緊張させた。歩く速度も更に加速していく。

「ちょ、もうちょっとゆっくり歩いてくれない?」

 突然話しかけられ、思わず立ち止まり振り返ってしまった。唯が苦笑している。

「あ、ごめん」

「ううん、尾藤君て歩くの早いんだね。着いていけないよ」

「そうかな?僕は着いていけてるから何とも」

 唯は一瞬不思議そうに眉をひそめ、それから白い歯を見せた。ふふふと笑う。

「意外に面白いこと言うのね」

 祐樹自身は緊張で何が面白かったのか分からなかったが、とりあえずは結果オーライと思うことにした。再び歩き出す。今度はなるべくゆっくり歩くよう心がけた。それでもおそらくは早かっただろう。しかし今度は唯は何も言わなかった。徐々に近づき、祐樹と肩を並べた。

「ここだよ」

 職員室の扉の前で立ち止まる。

「どうもありがとう。助かった。もう授業始まっちゃうのにごめんね」

「いいよ。あの、教室までの道が分からなかったらここで待っておくけど?」

 唯は「今いま通ったんだしさすがにそれは覚えてるよ」と言って、先ほどよりも若干大きな声で笑った。祐樹も顔を綻ばせる。良かった、多分自然に笑えてる、祐樹は思った。


 教室に戻るとすでに授業は始まっていた。扉を開けたとたん、皆の視線を全身に感じた。物理教師の岡崎がお得意の、顎を引き少しずらした眼鏡の上辺から睨むようにこちらを見る。祐樹は岡崎のこの目が嫌いだった。

「尾藤君、どうしたかね?もうとっくに始まっているよ」

「あ、大野さんを職員室に案内してきました」

「大野?ああ、今日転校してきた子か。よろしい、席に着きなさい」

 軽く頭を下げ、クラスメイトの視線を全身に浴びながらそそくさと自分の席に向かう。席に着き、教科書や筆記具を机上に出してようやくほっとした。

 唯が教室に戻ってきたのはそれから20分ほどしてからだった。扉を開けるなり、

「すいません、担任の内田先生に呼ばれていて遅れました」

 と、はきはきとした口調で告げた。岡崎は先ほど祐樹に向けたものと同じ目線を今度は唯に向けた。そして祐樹のときと同じように「よろしい、席に着きなさい」と促した。唯は一礼し、足早に祐樹の方へ近づいてきた。隣の席だからそれは当然なのだが、まるで自分に向かって来ているのではないかと錯覚してしまう。優衣が自分の元へ。

「さっきはありがとね」

 小声で祐樹に告げ、唯は席に着いた。筆記具を出す。それを見て祐樹は思った。唯は転校してきたばかりだ。きっと教科書等揃っていないだろう。ということは自分のを二人で見なければならないということか、机を寄せて。鼓動が早まる。ごくりとつばを飲み下した。

「あの、良かったら見る?」

「ん?何を?」

 きょとんとした顔をしながら、唯は机の横に掛けた鞄の中から教科書を取り出した。

「あれ、それ」

「あ、教科書?こっち来るのが決まってからすぐ取り寄せてもらってたの。善は急げってやつね。ちょっと違うか」

「ああ、なるほど・・準備いいね」

「でしょ」

 左手の、すらりとした綺麗な指でピースサインをつくり、祐樹ににっと笑って見せた。それから二人は、岡崎がこちらに視線を向けていることに気付き口を閉ざした。


 祐樹が卒業した西唐橋中学校からここ桂北高校に進学したものは、祐樹や響子たちを含めて15人といない。他の面々は、学力的に同レベルの、それでいて近場の豊島高校に行った。祐樹が桂北高校に決めた理由は、優衣がそこへの進学を望んでいたから、というのが一番大きかった。優衣が桂北高校に来たがった理由はあまりはっきりとは覚えていないが。だから、優衣がいなくなった今、桂北高校進学は祐樹にとってあまり意味のあるものではなかった。しかし、今思えばこの選択は正解だったかもしれないというのが正直な気持ちだった。その理由はもちろん、唯だ。この学校には優衣のことを知っている人間は少ない。よって、優衣にそっくりな唯という人物が現れたことは、あまり話題に上ることはないはずだ。

「安藤君」

 昼休み、祐樹は隣のクラスの義信の元へ向かった。義信は一人ぼんやりと窓の外を見ていた。

「安藤君」

 耳元で呼ぶと、ようやく目線をこちらに向けてくれた。

「あぁ、祐樹か。どうした?めずらしいな」

 安藤は高校進学して、ずいぶんと様子が変わった。元々スポーツ好きで引き締まった体をしていたが、更に痩せたように見える。

「今日、大野唯って女子が転校してきたの知ってる?」

 安藤の頬がぴくりと動いた。知ってはいるのだろう。しかしそれだけにしては変な反応だ。

「もしかして、もう見た?」

 心なしか虚ろな眼をしているように見えた。祐樹は思い出していた。昔、義信が祐樹に言った言葉を。―俺は、優衣ちゃんのことが好きだ。

「正直びっくりしたよ、まさかあんなに、似てるなんて」

「・・ああ、そうだな」

 義信は、今でも、

「他の皆も知ってるのかな?」

「さあ、どうだろうな」

 今でも、優衣のことを・・?

「あの、出来れば大野さんには優衣ちゃんの話は聞かせないほうがいいと思うんだ」

 義信は何も言わない。

「ほら、やっぱり大野さんもいい気がしないだろうし。それに、えっと・・」

「わざわざ口に出したりしない。他の奴もそうだろうよ」

 ぶっきらぼうに言い放ち、トイレ行ってくる、と言い残し義信は祐樹に背を向け、教室を後にした。

 祐樹はしばらく義信の背中を見つめていたが、やがて目線を義信が見ていた窓の外へ向ける。いつものように上手く優衣の姿を紡ぐことが出来なかった。

 自分の教室に帰ると、片隅に少なからぬ人だかりが出来ていた。祐樹の隣、唯の席だ。

「大野さんて東京の方から来たんでしょ?」

「やっぱこっちとは違う?」

「転校って親の仕事の都合?何してるの?」

 しばらく待っていようかとも思ったが、すぐに散らばる気配もない。祐樹は鞄の中から文庫本を一冊取り出し、校庭へと出た。校庭の二辺、L字で運動場の一部を囲うように木々植えられている。その中でひときわ太く大きな一本に歩み寄る。幹を背もたれにその場に腰掛けた。文庫本を開く。しばらく文字を眺めたが頭にはちっとも入ってこない。元々今読む気などなかったのだ、集中して読めるはずもなかった。

 ふと、視界の隅に学校規定の白いスニーカーを捉えた。男子用だ。顔を上げる。逆光のせいでよく見えない。しかし、見慣れたシルエットであることはかろうじて分かった。

「やあ、こんなところで会うなんて珍しいね」

「僕はいつも来てるよ。この場所は僕の特等席でね」

「それは申し訳ない。空けようか?」

「いや、こう見えて僕は友達には優しいのさ」

 そう言うと隼人は、すぐ隣に祐樹と同じように幹を背もたれしてに腰掛けた。

「どうしてこんなところで本なんか読んでるんだい?」

 隼人の芝居がかったセリフが祐樹は好きだった。

「お隣さんが人気者でね。落ち着けないから逃げてきた」

「例の子?僕もさっき見たよ」

「どうだった?」

「どうって、まあ確かに見た目は似ていたね」

 少し気になる表現だった。

「見た目はって?」

「そのまんまの意味さ。内面的なものは一切分からない。挨拶すらしていないし」

 祐樹は「あぁ、そういうこと」と呟いて頭を背もたれに委ねるように空を仰ぎ見た。

「第一声で衝撃を覚えたよ。本人かと思った」

 今でも優衣の声をはっきりと思い出すことが出来る。唯の声、話し方は優衣のそれと全く同じだった。

「そうだろ」

 隼人の声は先ほどより若干冷めていた。

「何?」

「本人かと思ったって?彼女は大野唯本人だよ。そうだろ?」

「・・・あぁ、そういうこと」

 咎められたようで、バツの悪さを感じた。二人はそれきり黙りこくってしまった。もうすぐ午後の授業が始まる。もう自分の席へは戻れるだろうか、祐樹はぼんやり空を眺めた。


 社会科の金田先生の声はやけに高い。50歳に手が届きそうな年齢に反して服装は派手目で、街で見かけたらとても教師をやっているとは思わないだろう。真っ赤な口紅が、肌の色を覆いつくしてしまっている白いファンデーションとのコントラストで激しく強調されている。ぼんやりと見ると、黒板の深緑の景色に口紅とクリーム色のスーツだけが際立っている。

「尾藤君」

 囁くような心地良い声。祐樹は金田に指摘されない程度に小さく首を左に向けた。

「どうかしたの?大野さん」

 なるべく平静を装う。やはり初対面な上に好きだった女の子に似ていると緊張してしまう。

「さっき聞きそびれてたこと。後ででもいいけどまた他の子たちが集まってきちゃうと聞けなくなっちゃうし」

「何?」

「朝私が自己紹介したとき、「ゆいちゃん!」って。私のこと知ってたの?」

「ああ、それは・・」

 優衣と勘違いしたのだなどとは言えるはずもなく。

「えと、いい名前だなと思って」

「本当に?」

 大袈裟なくらいに大きく頷いた。唯の目は明らかにその言葉を信用していない様子だったが、ようやく納得したのか、それともこれ以上問い詰めても無駄だと思ったのか、祐樹と同じように大きく頷いて、「ありがと」と笑顔を見せてくれた。そこで会話は途切れた。唯が前に向き直り、金田の声に耳を傾け始めた。

「尾藤君てこの近くの中学校に通ってたの?」

 授業が終わった途端唯が話しかけてきた。いきなりのことで少し戸惑った。

「え、まあ。ちょっと離れてるけど」

「じゃあここには中学校の同級生ってそんなに多くないとか?」

「うん、そうだね」

「でも全くいないよりはいいよね」

 唯はそう言ってにっこりと笑った。明るく振舞ってはいるが、やはり別れてきた友達を恋しく思っているのだろう。「じゃあ僕たちが友達になればいい」そんな軽口を叩けるほど祐樹は社交的な性格ではない。同意を示すように頷く程度しか出来なかった。

「もうじき次の授業?」

「だね。数学だ」

「ありがとね」

「・・何が?」

 優衣が腰を浮かせてぐっと祐樹に近づいた。心臓がどきりと跳ねた。突然何を?耳元で囁く。

「あんまり周りでわいわい騒がれるのって嫌いなの。ほら、昼休みのときみたいな。誰かとお喋りしていればそう入ってはこれないでしょ」

 顔を離し、目と目が合った。唯がふふふと笑う。そのあまりにも馴染みのある笑いに、祐樹は自然に合わせられた。二人して、ふふふと笑った。


 帰宅途中、祐樹はふと思い立っていつもとは違うルートで帰ることにした。あの家の前を通ってみよう。どちらにしろ距離はそれほど変わらない。門を出ていつもとは逆の左に折れる。馴染みのない路をしばらく行くと、じきに懐かしい道に出る。そこはすでに中学校の近くだった。正門に面する道路を通る。校庭ではクラブ活動の少年少女が走り回っている。

ふと思いつき立ち止まる。回れ右をして、来た道を引き返し始めた。左から丁字路を右へ折れる。愛宕山へ向かっているのだ。あの祠のある場所へ。


「お待たせ」

 優衣は玄関口に腰を下ろして祐樹の到着を待っていた。辺りは薄暗くなり始めている。笑顔で首を振り、立ち上がる。尻を叩きスカートの砂を払う。

「さてさて、行きますか」

 傍らのトートバッグを肩に掛ける。

「そっか。このあと川島さん家に行くんだっけ」

 そう思い出し、そして改めて今から自分たちが綱ヶ背橋に行くことも知っているのだろうと恥ずかしくなる。

 二人は歩き出した。気のせいか普段より会話が少ないように感じた。きっと優衣も緊張しているのだろう。

「結構暗いねえ」

 おどけた調子で言う声も、若干硬い気がする。祐樹は何も言わず頷いた。優衣ですらこんな調子だ。きっと自分はもっと変な声になっていることだろう。だからなるべく喋らないことにした。

「晴れてよかったね。ほら、満月が綺麗に見えるよ」

 優衣が指す方に顔を向ける。思わずおぉ、と声が漏れる。もちろん満月自体は珍しくはないが、優衣と一緒に見るのは初めてだし、今日の満月は特別な意味があるのだ。普段より何倍も美しく感じた。

「僕らが橋を渡ることにはもう少し高くなっているかな?」

 言った後に後悔した。優衣がくすりと笑う。

「祐君、声が上擦ってるよ」

「優衣ちゃんだっていつもよりちょっと変だよ」

「ちょっとでしょ。祐君とは違うもん」

 通学路から一本奥に入った細い道。この先を行けば愛宕山の麓にある綱ヶ背橋が見えてくる。先ほどよりも口数は増えた。気持ちが落ち着いてきたのだ。でもじきにまた緊張してくるだろう。橋が見えれば嫌でも意識してしまう。

 路の左手は住宅が並び、右手は舗装された愛宕山の裾。月明かりは差し込まず、しかし暗くはなかった。家々から零れる優しい光。点々と立ち並ぶ街灯が弱々しく、自分もいるぞと主張する。路が少しばかり広がり、右手の木々は深くなる。もう少し行けば橋が見える。

「あ、月が見えるよ」

 優衣が住宅の奥を指差す。眩しいくらいに明々と輝くそれは、他のどの人工的な明かりより力強く神々しく感じられた。手を繋ぎたかった。そして優衣といつまでも満月を見ていたかった。

「行こ!」

 わざとらしく大きな声で優衣が急き立てる。再び歩き出し、そして数分としないうちに二人は辿り着いた。綱ヶ背橋は月明かりに照らされ、祐樹の記憶の中の古びて朽ちかけたイメージを払拭した。美しいとも思えた。祐樹の左手が、自然と優衣の右手へと伸びる。


「尾藤君?」

 日は傾きかけ、辺りは薄暗くなり始めていた。振り返る。夕日を背にして人影が3つ。優衣ちゃん、と朝のように声は出なかった。

「桂北高の同級生。同じクラスなの」

 唯が二人に紹介している。恐らく両親だろう。

「尾藤君、私のお父さんと、お母さん」

戸惑いつつ、祐樹は頭を下げた。二つの影がそれに倣う。

「えと、今から買い物にでも?」

 空気に耐えられず、珍しく自分から口を開いた。

「いえ、食事に。尾藤君はこんなところで何をしていたの?こっち帰り道?」

「・・まあ、帰れなくはない、かな」

「何それ」

 唯がふふふと笑う。祐樹も釣られてふふふと、笑えなかった。優衣とでも、第三者がいる前では恥ずかしくて笑えなかったことを思い出した。

 二言三言話した後、大野一家は去っていった。祐樹も、傍の小さな橋にちらりと一瞥しただけで、その場を後にした。橋は、あの時のように綺麗ではなかった。思い出はいつも綺麗だ、という誰かの言葉を思い出した。

 家路を歩きながら思った。優衣との思い出の場所で唯と出逢った。これは偶然か、それとも運命か。川島さんなら「偶然以外の何物でもないでしょ」と笑い飛ばしているところだろうな。


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