第1話 渋谷・早朝
おそらく、日本で一番有名だった商業ビルの前に到着した。数字3文字の看板は酷く煤けている。
外壁はあちこち剥落し、ビル中央の壁面広告まで炎が舐めた痕跡があった。かつて渋谷の、いや日本の若者文化の象徴として親しまれた建物は、無残にも廃墟と化していた。
再開発から逃れ、歴史的建造物としての保存が決まってから7年は経過してないのだが、既に文明の墓標と化してしまった建築を前に、思わず立ちすくんだ。
「いやあ、想像以上だね、何もかも」
たどり着く前から予測していたものの、渋谷駅前のスクランブル交差点は静寂そのもので、調査には凄まじい違和感がつきまとった。あの渋谷の中心だというのに、ときおりドブネズミの死骸が転がっている以外には、生命の痕跡すら感じられない。
「清掃装置がある程度機能したみたいだな、人も腐敗すれば生ごみか」
ロックダウンの影響もあるだろうが、全く遺体が転がっていないことを考えると、自律式の清掃機械が主人を失っても役割を果たしたと思うべきだろうか……無駄とは悟りつつも、一応、「彼女」に約束した手前、全く行動せずに拠点に帰るのも気が引けたので、用意したメガホンのスイッチを入れた。
「こちら、前川幸人、こちら、前川幸人、生存者がいたら応答せよ」
音量を最大にして、一縷の望みに賭けて声を張った。朽ちた街には、あまりに女性的に高く、嫌悪感を抱いてきた自分の声が反響した。だが、今となっては耳朶を打つ自分の声に対する憎悪は消えつつあり、これで、女が生存していることに期待した男でも出てきてくれれば御の字とさえ思った。
「……信じられないな」
自分の思考の変化に驚愕する。今までの人生において、我が身が男の性欲の対象となることをあれだけ不快に感じてきたというのに、今ではそういった無遠慮で野卑な男の視線でさえ、歓迎できそうな自分がいることに戦慄した。
だが、この劇的とも思える我が思考の変化とて、世界に起きてしまった変化に比較すれば、非常に些細なことと言わざるを得ないだろう。世界人類の多くがパンデミックを契機に死に絶えた事に比べれば、個人の感情や思想など、もはや考慮すべき事象ではないのかもしれない。
そうだ、いまだに信じがたいことなのだが、5年前に始まった新型ウイルスの大流行により、人類は今まさに絶滅の危機に瀕していた。2019年、今から約55年前に起きたウイルスを遥かに凌ぐ猛威により、霊長を標榜する人類は脆くも崩れ去ったのである。
もっとも、先の大流行を経験した祖父に言わせれば、当時の大流行も、今回の大流行も、始まった状況的には似通っていたという。破滅は、信じがたいほどの防疫の誤りによって、燎原の火のごとく起った。
生存者の捜索を中断し、誰もいない街の広場のベンチに腰を預ける。忠犬の像は無人の街の中でも変わらず佇んでいた。私は彼のその姿を眺めながら、祖父の入院先を訪ねた時の事を自ずと思い返していた。