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9 戸田美玲  Last Christmas

昨年発表の番外編「霊感応力者 周防朱莉の虚しいクリスマス」を本編に寄せて大幅加筆改稿したものです。

本編幕間的な位置づけとなりますが、改めて登場人物の魅力が見えるようなお話にできればとの思いで作りました。次回第十話より、第二部本格始動いたします。

 大手出版社企画営業課で働く戸田美玲は、書類の束をデスクに積み、パソコンのディスプレイを食い入るように見つめていた。駆け出しの一年生社員ながら、提出した企画書が上司の目に留まり、一つの年間企画を任せられていた。


 ほかの新入社員を差し置いて成績を伸ばし続ける彼女の実力は、一日を通して休む間もないほどに働きづめる体力と精神力と、集中力の賜物であることは多くの者が知るところだ。


 酒にはめっぽう弱いが、酒席は嫌いではない。人当たりがよく同僚との交友関係も良好。社内の信頼関係も厚く、先輩諸氏らから可愛がられて順風満帆な社会人生活を送っていた。


 容姿端麗かつ明朗快活、雲中白鶴、博学広才。人物を称える四字熟語はまるで彼女のためにあるのだと言わんばかりに、全てを兼ね備えているような女性である――などと古参の社員までもが彼女にまぶしい視線を送る有様である。


 しかし、今日はそんな彼女がいつになく時計を気にして、そわそわと落ち着かなかった。


 机上の資料をまとめ、ファイルを片付け、袖の引き出しに順序良く仕舞う。椅子の背もたれに引っかけていたスーツの上着を羽織ると、通りがかった上長に対面し、背筋を伸ばし両足をそろえて言う。


「課長、『食彩の匠』の光山食品さんの件、フォルダにあげておきましたので、お時間があるときに目を通しておいていただけますか」


「おっ……ああ、早いな。もうできたのか? 明日でもよかったんだが……」営業課長は、彼女の勢いにいささか押され気味で、目を丸くして応える。


「いえ、今夜より東京を離れますので、ご迷惑をおかけすることになりかねませんし」


「あ、ああ里帰りか。出社は週明けにな――」


「いえ、明日の十時には出社いたします」


「え? 日帰り……」


 壁に掛けられた時計の針は十八時と一分を過ぎていた。


「そういうことで、わたくし、戸田美玲はただいまをもって退社いたしますのでっ!」と、おまけのように愛嬌のある敬礼をして、嫌みのない笑顔をみせる。


「ひゅう、戸田。今日は彼氏とデートか?」と隣のデスクの男性先輩営業マンが茶化してきたが、「えへへ、ご想像にお任せします。では!」と、ペロッと舌を出して鞄を担ぎ上げる。


 こんなやり取りであっても微笑ましく受け入れてもらえるほど、職場の雰囲気は良い。これも大手ならではの余裕ともいえるのだろうが、この企業がもともと持っている社風がそうさせている側面は大きい。


 日本国内では知らない者がいないと言われるほどの、大手出版社の社員は皆やりがいを感じて働いている。年功序列ではなく実力主義。給料を上げるために功を競う、というより、より豊かな成果を求めるがゆえに功を上げる、という気質が染みついている。そのために超過勤務になることもいとわない体質は、しばしば外部から非難の的にもなるが、内部で働く者たちにとってはどこ吹く風である。


 ちゃんと仕事さえすれば無駄に働く必要はない。働くという事は働く必要性に駆られて働くのだ。それは給金を得るという目的でもあり、仕事の質をよくしようという自己努力でもある。


 無論才色兼備とはいえ、美玲自身が最初から順風満帆であったわけではない。学生のときからすれば意識の違いは痛感せざるを得なかった。


 就職のため、親元から初めて離れ、右も左もわからない東京に移り住み、がむしゃらに仕事をつづけた。まるで時間を跳躍したかのように、気が付けば十二月だ。この半年、自分のことを気にかけるほどの余裕は、ほとんどなかった。


 今だって大変だ。勉強しなくちゃいけないことだらけだ。休んでいる暇なんてない。


 だけど今日は――今夜だけは、特別。


 美玲は軽い足取りでロッカールーム向かうと、着替えを済ませ、そこから少し大きめの荷物を取り出し、廊下ですれ違う社員たちに「お先に失礼します」と声をかけながら、エレベーターホールへと向かう。


 就職のために東京に出てきて九か月。今日はクリスマスイヴだ。


 先輩にはぼんやりとした返答をしておいたが、彼の指摘通り、美玲はこれから恋人の元へとゆく。

 社屋ビルからほど離れていない駅へと向かい、かつて住んでいた街への特急列車の切符を買い求める。人の流れの絶えることのない駅前は、緑、赤、金色のクリスマスカラーに彩られて、いつにもまして華やかになっている。心もち寄り添いあうカップルの姿が多いと感じる。


 自分もあとであんな風におもいきり甘えるんだ、とほほ笑みながら、向かいのプラットホームの男女のカップルを見つめる。


 就職で地元を離れる際、恋人と約束した。


 きっとお互いに忙しくしているだろうけど、クリスマス・イブの夜だけは、仕事がおわってから待ち合わせて、一夜を二人で過ごそうと。それだけを約束して二人は離れた。


 それまでは自分中心でいいと。頻繁に連絡がなくても、連絡をしなくても気負いすることはない、互いに自分中心で、自身の基盤作りに励もうと約束した。


 いずれは一緒になるのだから、今はそれでもいいとお互いに思っていた。二人とも社会人になって住む場所も離れたけど、いずれは一緒に住むのだから今はそれでいいと。


 この先長い人生を思えば、今なんてほんの短い時間に過ぎない。それこそ忘れてしまうような一瞬だと思えるのかもしれない。一緒に同じ目標に向けて頑張れる人がいる。そのことが美玲にとって一番の励みであり、輝こうとする原動力だった。


 改札を抜けてはたと気づいた。今夜は忘れずケーキを買って行かなくちゃと。


「いっけない、電話するの忘れちゃってる。私馬鹿ね」美玲は日の落ちかけるプラットホーム上で、独りごち、こつんと自分の頭を小突いて、舌を出す。昨年まではずっとケーキ売りのバイトをしていたから、買いそびれる心配がなかったのだ。


 昔のよしみでかつてのバイト先、笠鷺市の老舗洋菓子店『陽窯軒ようようけん』の電話番号をスマホの画面に呼び出すとコールを始める。


 陽窯軒の店主は不愛想で、頑なで、予約販売は受け付けていない。その日売れる分を見越して仕込み、売りきったら終わり、ロスも余分も出さないという売り方を徹底している。それだけに、盛況の時などは午後六時を待たずに閉店するなんてこともある。融通がきかない店主よりも、一緒に働く彼の娘に連絡を取ることにする。


 美玲は今夜の事を恋人には伝えていない。約束は守られるはずだからだ。相手が今日のこの日を覚えてくれていたなら、きっと突然行っても快く迎え入れてくれると信じられた。


 いつでもお互い忙しくしていたせいもあるが、普通の恋人のように四六時中連絡を取り合わなくても信頼できる関係だった。今から陽窯軒に寄って家に向かっても、きっと美玲の方が先に着いてしまうだろうなと思った。


 好きな人のことを思って待つのも幸せだ。いつか一緒の人生を歩むために、今だってずっと待ってるのだから、今夜少し待つくらいどうという事はない。


 私が家の前で待ってたら驚くかな、などとその光景を頭に浮かべると、おかしさに自然と笑みがこぼれ、うつむいて首に巻いた赤いマフラーで口元を隠した。


 新幹線の自動ドアが閉まり、ゆっくりと、そして徐々に速度が上がり、夜のとばりにきらめく東京の街が後方に流れてゆく。


 車両に据え付けられた、液晶表示パネルの速度表示をぼんやり見上げて、美玲は漠然と思う。人の本質が魂だとしたら、この身体は感情を運ぶ移動手段なのだろうなと。


 そしてその身体を運ぶ乗り物は今三百キロという速度で移動している。


 もしも身体がなければ、もっと速く、一足飛びに心だけあの人の元に飛んでいけそうなのに。今くらい気持ちが強ければなんだってできそうなのに。一つになって溶け合う事もできそうなのに。


 どうして人の心には身体がくっついているのだろうか。男と女を分けるため? もしそうなのだとしたら――それだけなのだとしたら、ますます身体なんて不要じゃないか。


 そんなとりとめもないことを考えて、じわっと胸の奥が熱くなるのを美玲は感じながら、故郷へと続く穏やかな街の灯を窓外に求めていた。


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