表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
57/104

第七話 欲しいのは一本のナイフなのに 4

「――お父さん、お母さん!」

「――こっち来ちゃダメ!」

「――お姉ちゃん!」


 暗闇の中ゆらゆらと揺れ動く青白い炎が見慣れた室内を照らし出していた。それはまるでホラー映画のように、あるいは演出の過ぎた怪談番組のように、夏至とはいえすっかり暗くなった室内はその灯りだけが頼りと思えるほどに暗く沈んでいた。


「っああ、だめだぁ……私には才能がないのかな」


「ええ? うそだぁ、沓子ちゃんうまく書けてると思うよぉ」


「だあってさ、なんかこうリアリティに欠けるっていうかさ、そりゃ見たことない物書くわけだから想像で当たり前なんだけど……」


「登場人物が実際に近すぎて容赦なく書けないとか?」


「逆にさ、お兄ちゃんだったらさらに想像がつかないじゃない? だから自分の環境に合わせた人物設定にしようと思ったんだけどね」


 今年は一足早い梅雨入りで、学校を出たとたん、ざんざんと雨が降りはじめたので、あわててコンビニに駆け込んだ。


 傘を持っていけと言われていたのに、あわてていたのですっかり忘れていた。それでこの体たらくだ。


 和久井沓子わくいとうこはクラブ活動の帰りにコンビ二のソフトクリームを食べるのを、週一度のひそかな楽しみとしている中学二年生である。


 それにいつも付き合ってくれるのは小学生の頃から仲のいい、唯。ともに文芸部に所属しており、下校を共にする仲である。それが今日はコンビニの軒下で雨宿りを強いられていた。


「ああ、なんか鬱だぁ……」沓子は後頭部をコンビニのガラスにこつんと当てて灰色の空を見上げる。


「ま、ホラーだしね。楽しく書くってのもどうなの、って感じじゃない?」沓子に付き合ってソフトクリームをペロリとなめておどける唯。


「そりゃそうだけどさっ。けど、こんな温い私たちが書いたホラーなんて、怖いと思うかなって」


「ネガだねぇ、ネガネガ。そんなこっちゃ作家は務まらんよ!」


「いっそ霊にでもインタビューできたらいいのに……」


「じゃあ、いっそ死んでみる?」


「ばーか、死んだら小説書けなくなるじゃん」


 ただの雨宿りのつもりが、ついぞ心霊談議になり長引いてしまった。雨はすっかり上がっており、十五分遅らせた腕時計の時刻でも既に七時半を回っていた。沓子はオートロックを解除し、エントランスをぬける途中、管理人の初老の男性に声を掛けられる。


「沓子ちゃんお帰り、今日も部活かい」


「あっ、おじさん、うん、ああ、ええとそうそう」コンビニ前で部活の連中と二時間駄弁っていたとは言えない。


「お喋りもほどほどにせんとダメだよ」にんまりと笑う管理人の笑顔に、なんで知ってるんだろうとばかりに背筋を伸ばすが、すぐに、「大変大変、絶対もうお父さん帰ってきてるよ、うひゃあ、今日も雷落ちるわ」と独り言ち、エレベーターホールへと駆けていった。


 沓子は夏のホラーノベル大賞に向けて作品を書いていた。物語を書きはじめると時間も忘れて、下校時刻ギリギリまで部室に籠り、コンビニで駄弁って帰ると今日のような時間になってしまう事が度々あった。門限は夜の七時と決められていた。


 父は会社員で定時には必ず退社し、ギャンブルや女遊びはおろか、酒を飲んで帰ってくるなどという事もない、折り目正しい人物だった。母は専業主婦で、週に一度茶道の教室を開いていた。いつもニコニコとしており優しかったが、礼儀や作法といったものには厳しく、女性のたしなみというものをきっちりと二人の娘に教え込んでいた。


 高校三年生の姉、桜子は容姿端麗、頭脳明晰で、県下でも有名な進学校に通う、地元でもちょっとした有名人だった。それというのも、高校一年生の時に芸能プロダクションからスカウトがかかり、一度だけテレビのコマーシャルフィルムに起用されたことがあった。当然流れでプロダクションからはこのままタレントにならないかと誘われた。


 それを間近で見ていた当時小学六年生の沓子は、同級生にも鼻高く、輝かしい芸能界という未知の世界に瞳を輝かせた。もしかしたら自分にも声がかかるのではないかと。色気づく年ごろでもあり仕方のない事であった。


 だが、桜子は将来考古学者になるという夢があり、タレントの話はそのまま流れた。 

 

 タレントなどという水商売に娘がなることは和久井家では反対だった。沓子は散々もったいない、せっかくのチャンスなのに、と言って駄々をこねたのだが、堅実な父親に一喝された。


 姉程の容姿はない、頭がいい訳でもない、だが姉のように皆から注目されたい一心で、何者でもない自分を何者かにしたい一心で、沓子は小説執筆という手段を用いた。


 中学に上がると文芸部に入り、ありとあらゆる賞に何度も何度も挑戦した。だが作品は端にも棒にもかからなかった。今回も、この夏から秋にかけて三つの文学賞があった。そのうちの一つが夏のホラーノベル大賞だった。


 普通の家族に襲い掛かる、この世ならざる者たちの手による謎の一家惨殺事件を皮切りに、物語は始まる。その序盤の序盤で沓子は書き出しにずいぶん苦労していた。



 一年間で夏至という日は地域によって特別な意味を持つ日である。古くは新麦で作った酒を神に供えるという習慣の所もある。最も日照時間の長い日、すなわち太陽神が最も生命力を強く発揮する日、ともいう。


 夕飯の支度が一通り整うと、家族は各々の部屋から出てきて食卓に集まりだす。朝食と夕食は特別な事情がない限り、揃って食べるというのが決まりだ。箸をつけるのはまず父親から。県下でも山の手と呼ばれる新興住宅街に住む核家族ながら、古臭く厳格な家だ。


「なんだ、まだ帰っていないのか」次女がまだ学校から戻っていない事に父親は眉をしかめる。


「最近はクラブ活動に夢中になっているみたいで――」


「来年は受験だろう、若い頃に一生懸命になることは悪い事じゃないが、そればかりにかまけているのは感心出来んな――」


「ええ、ええ、あの子にはよく言って聞かせておきますから。さっきメールがありましたからもう帰ってきますよ――あ、帰ってきたわ」


 ドアの開く音を聞き、ソファに座っていた姉が立ち上がり、テーブルからテレビのリモコンを取り上げる。この家ではテレビを見ながら食事をすることは禁じられている。


 父親の目の前のグラスに母親がビールを注ぎ始める。


 姉がリモコンの電源ボタンを押す。


 その途端、部屋中の照明や電気器具の電源が落ちる。


「おい、誰が電気を消せといった」まず飛び込んでくるのは父親の不機嫌な声だ。次いで母親が何か声を上げようとしたとき、それは果たされず封殺された。


 その代わり、堅いものと柔らかいものがこすれ合うような艶めかしい擦過音、細いチューブを引きちぎるようなブチンといったかすかな反発を伴う音、圧に押されて噴き出る液体の音、そんなもののあとに、ドン、ゴロ、という音がフローリングの床に鳴る。次いでさらに大きな質量の何かがしなだれ落ちるように、床に伏せてゆく。同じ部屋に居た者はそれらを気配によって感じ取れた。


 何となくだが背中からではなく胸から“それ”は倒れたように感じられる。ぬるま湯のような液体の迸りを頬に受けた父親は、それが何なのかを判断する部位は右と左脳に分けられ、論理的思考も感覚的思考も意味をなさなかった。ただ、一刃のなにかが喉を通過する瞬間、息が出来ないか、物が食べられなくなるか、なにかしらそういった事を考えた。


 急に沈黙してしまった両親よりも、完全消灯してしまった室内を復旧させようと、姉は慌てて電灯のスイッチのある壁に駆けたが、記憶の中にあるスイッチの位置を押してみても電灯はつかなかった。いや、正確には押せなかったのだ。それに気づいたとき激しい指先の痛みが彼女を襲う。


 彼女が真っ先に考えたのは、“ブレーカーを落とされたのだ”という事と“マンションのセキュリティはどうなっているのだ”である。うしなった、三本の指を確認するのが恐ろしくなり、彼女はその激痛に意識を失いそうになりながらテラスの側へと身を引いてゆく。


 そこへ「ただいま」という、遠慮がちな聞き覚えのある声が届く。


 トタトタと暗闇の廊下を歩いてくる二本の脚。


「なんで真っ暗なの……お母さん……? おとうさん?」


 姉は今自分が対峙している異常事態に妹を巻き込むまいと腹に力を入れ、肺の空気を押し出すように叫ぶ。


「――沓子! こっち、来ちゃダメ!」


 姉の常軌を逸した悲痛な声に、妹、沓子はただならぬものを感じ訳も解らず呼応する。


「お姉ちゃん!」


 姉の桜子はその言葉を最後に聴けただろうか。左の耳から肩、そして胸にかけて、心の臓を削ぎ落すようにして、薄く固く、容赦なく研ぎ澄まされたそれは振り落とされた。


 それより先、部屋に人の声といえるものは聞こえなかった。


 学校からの帰宅が遅くなった、そのことが何かの災厄を招いたのであれば、どれほどでも頭を下げて許しを請う。自分だけがおそらく事件の渦の外側に居て、累を逃れているのだとすれば、それは何故だったのかと、なぜ自分は生きているのかと、どうして家族が犠牲になったのかと、涙が枯れるまで泣いたとしても、問うだろう。


 真っ暗闇の廊下、その先のリビング、電灯のスイッチを操作しようとするより先に、青白い光が点り、そこに何かがあることを確認させられる。かつて見慣れた腕、手、指。広い背中、大きな肩。形のいいしなやかな脚、ふくよかな乳房。だがそれらは全て黒い、青い光の下では黒く見える液体に汚されていた。そして天井からひたひたと滴り落ちる生温かいなにかが彼女の頭から噴き出した汗と共に、夏服に替えたばかりの制服を汚してゆく。


 沓子はリビングから退き、廊下の両側の壁を頼りに、後ずさる。


 だが、背後の開かれた玄関ドアの向こう、マンションの廊下には、黒い装束を着た長い髪を振り乱した人物が一人立っていた。そして眼前には宙を舞い迫りくる一振りの柄を持たない抜身の刀。


 逃げ場がないとばかりに、沓子は慌てて手に触れたドアノブを開き中に飛び込む。


 トイレだった。


 信じられない光景だった。何が起きているのか。執拗にドアを突き続ける金属の刃物。鍵をかけ恐怖におののく。しかしおそらくどれほどの業物であっても所詮は刃物だ。軽合金を合成樹脂でサンドイッチした複合素材の扉を一刀両断するなどという事は出来ない。その判断の冷静さに我ながら驚きつつ、洋式便器にしがみつき状況を捉えようと必死で考える。制服が汗と涙と血で濡れていた。


 トイレのドアを叩きつける音が恐ろしかった。


 その力でドアがガタガタと、何度も何度もゆすられた。


 隙間から刃物が入ってくることはないだろうが、これほど何度も衝撃を与えられていればいつかドアが壊れてしまうのではないかという恐怖に、両手でドアを押さえる。


 このがたつきを止めるためには、ドアとサッシの隙間を極力なくすことだと、沓子はありったけのトイレットペーパーを隙間に詰め込んでゆく。きつく圧力をかけて隙間なく詰め込んでゆく。こんなものであの凶器から逃れられるのかどうかは解らない。だが少しの助けにはなるだろうと考えた。いや、気休めだ。


 やがて突きの回数は減り、一切の音がしなくなった。


 何者だろう。


 そんな疑問を沸き起こすことができるほどに静かな時間が流れた。


 あのマンションの廊下に居たのは何者だろうか。宙を自在に飛ぶ刀は、あの者によって操られていたのだろうか。それよりなにより、なぜ、そんな、なぜウチが、なぜ家族を殺されなければならなかったのか。


 同じ市内にはいたが、借家を返上し、今春ここに越してきたばかりで、やっと慣れたばかりだ。やっと手に入れたマイホーム。あこがれのマンションの最上階。母は随分頑張ったと言っていた。父はこれからもっと頑張らないといけないなと、笑っていた。姉と自分はやっと一人部屋が出来て喜んでいた。しあわせな、これからもっと幸せになるはずだった家族だった。


 他人から恨まれるようなことがあろうはずもない。


 “あんな話”を自分が書こうとしていたからなのか、それが現実となったのか。


 父も母も姉も。


 死んだ。


 たぶん、死んでいた。


 むごたらしく、四肢を切断され、全身の血を床に全て流して死んでいた。皆。


「うっ……く……」声に出して泣き叫びたいのに、事実認識に感情が追いつかない。


「が……げほっ……」喉が詰まる。刺激臭が鼻につく。


「……に、これ……ぃきが……できなぃ」


 揺らぐ沓子の視界に映るのは、何らかの液体で濡らされたトイレの床だ。濡れている靴下が不快だ。


 水が漏れている? うちは最上階のはずなのに? トイレの棚に置いていた何本かの洗剤が床に落ち、容器が不自然にひしゃげて、中身がドクドクと漏れ出している。


“混ぜるな危険”という文字を読んで、あれはなんていう中毒になるんだっけ?


 沓子の、最後の、最期の意識がそれだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ