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第六話 大丈夫、いきていこうよ 2

「おおっ空いてる空いてる、さっすが平日! しっかも社員割引!」


 チケット売り場では並ぶこともなく、トーコを背負った朱莉はすいすいとエントランスゲートをくぐる。


(イルカショーいきましょう! いっるっかっ! イルカは居るかのぉ!)背中越しから前脚を伸ばしたトーコがハイテンションに叫ぶ。今日は彼女の好きなようにさせてあげようと思う。猫だけど。


 売店でビールとソフトクリームを買い、トーコにも少し分けてやる。


(あまーい! おいしー!)


 結局ソフトクリームはほとんど舐められてしまったが、彼女にとってはおそらく三年ぶりに取り戻した身体感覚なのだ、心置きなく味わうといい。


 朱莉は目を細め、プールを泳ぎ回るイルカを見つめる。平日の午前中という事もあり観客はまばらで、大きく賑わいはないが、イルカが芸を披露するたびにパラパラと拍手が鳴る。暑くもなく寒くもない秋の日差しが心地いい。球技場のようなすり鉢状の場内の雛壇の席中ほどはあまり人もおらず、リュックを下ろしてトーコを自由にさせていた。朱莉は缶ビールのプルタブを引き起こす。


(イルカってね、どの種類でも皆念話で話が出来るのよ)鞠が隣に座って眩しい水面に目を細めている。


(へぇ、反捕鯨団体が喜びそうな話ね)


 朱莉は思う。サーカスで動物に芸を仕込ませるのを否定的に捉える団体もあるが、イルカショーとて同じでないだろうかと。


「ねぇ、トーコ知ってる? イルカはみんな念話で話が出来るんだって」


(ええ? そうなんですか! じゃ、じゃあクジラは?)


 朱莉は開いたコンパクトの中の鞠に視線を投げる。


(イルカはクジラの中で四メートル以下の小型のものを指すの。だからイルカもクジラも同じ種類なのよ)


「――イルカってのはクジラの種類で四メートル以下の小型のものを指すの。だからクジラとも話が出来るよ」


(へぇ、シュリ様物知りなんですね)


「まあ、ね」


(もっとも話が出来ても、彼らは海の上でしか生きてないから、人間のような会話になるかどうかは解らないけどね)鞠はおどけるように両掌を広げる。


 確かにそうだ。いくら知性があるといってもイルカは海の上で餌をとり子孫を増やしてゆくことを生業とする生き物だ。人間の生き方とは違う。


(私ちょっと話しかけてきてみます!)興奮気味に駆けだしたトーコを捕まえることが出来ず、朱莉は周囲に謝意を示しながら慌ててトーコの後を追う。


 最前列の目の前のプールの壁は透明のアクリル素材でできており、水中でイルカが泳ぐ姿が見えるようになっている。トーコはイルカの姿を探してプール沿いを駆けてゆく。


 見失った。まあ、ただの猫じゃないしそのうち戻って来るだろうと、席に戻り缶ビールを流し込みつつ待っていると、しばらくしてトーコがとぼとぼとした足取りで戻ってきた。


「どう? イルカとお話しできた?」


(できたんは出来たんですけど……)


「なんて言ったの?」


(あなたたちは海に帰りたいって思わないのかって、訊いたの)


「そしたら?」


(ここじゃ芸を覚えるのは大変だけど、それさえ出来れば大事にされるわけだし食うにも困らない、海に帰ると天敵もいるし飢えや災害や、それはそれで苦労は絶えないからって。選択肢として海に帰るってのはなしかなぁ、って」


「は、はは。イルカもなかなか打算的だねぇ……世渡り上手っての?」


(なんか、ショックです)


 そんなこととは露知らず(きゃーすごーい)と手を叩き、背後ではしゃぐのは、日傘をさした和服の淑女である。その喜びの視線を追ってプールの上に目を向けてみれば、三匹のイルカが華麗なアーチを連続して描いていた。飛沫と共にさっと一瞬、宙に虹が彩られる。


 報酬は仕事の対価である。この点では人もイルカも同じ生き物であろうと、華麗に列を揃えて芸をこなす彼らを見ながら朱莉は思うのである。






(次はすいぞっかん! 水族館いきましょう!)


(はいはいりょーかい!)


 館内に入ると外の眩しさから暗転し、視界を奪われる。しかし次の瞬間には目の前に水色の光に包まれた半円形の水槽のトンネルが伸びる。頭上をまたぐようにして熱帯魚の群れが来場者を出迎える。


 志賀崎マリンワールドの中心に屹立するマリンタワーは地上五十メートル地下十メートルの建物中心に据えられた、水量一万七千トン直径四十メートル深度十五メートルの円筒形巨大水槽を擁している。このサイズはこれまでの名だたる水族館を押さえ、世界一の容積を誇る。


 観覧は最上階かららせん状にくだってゆく順路になっており、中心のセントラルパシフィックと呼ばれる巨大水槽を横目に見つつ、廊下を挟んだ対面には各種のテーマ別に分けられたショーウィンドウのような水槽が設置されており、館内を歩くだけでくまなく全てを観覧できるよう配慮されている。


「わっ、ワニだ!」


(あっちにはペンギンいますよ!)


「おお、トド!」

(セイウチです)


「オットセイだ!」

(アシカです)


「シーラカンスだぁ!」

(いませんっ、ピラルクです!)


「ダイオウグソクムシ!」

(なんすかそれ?)


 セントラルパシフィック水槽最大の特徴として、中心付近を水平方向にループ曲線を描きながら貫く三本の、『アクアループ』がある。水槽内を巡る全周囲強化アクリル製の円形チューブ状の回廊を歩くと、まるで水槽の中に入ってしまったかのように感じる事が出来る。これも高度な技術を駆使した世界初の試みで、大人気の所以だった。


「うわわ、天上も床も透明だぁ、これが話題になってたやつね。すご……」


 頭上には屋上階から入射される自然光が水槽内を照らし出し、ダイビングの映像で見るようなマリンブルーの海を再現している。水槽内を泳ぐ色とりどり、多種多様の魚や海生生物はアクアループの周囲を遊ぶように泳ぎ回る。


 ループの内壁は直径約二メートルと狭いが、その狭さが、より海を近くに感じさせる演出となっており、同時に心もとない足元は深い海底部に吸い込まれそうな不安感を煽る。


 朱莉は魚の名前などほとんどわからないが、まるで水中を舞うように見たこともない鮮やかな黄色や青や赤の熱帯魚が、縦横無尽に飛び交う姿に見とれる。


自分が息をして地上に居ることを忘れてしまうほどの美しさだ。


 きっとダイバーはこんな感覚で海に潜っているのだろう。いや、もっともっと直接的に肌で、五感で感じているかもしれない。世界最大の水槽とはいえ、本当の海からすれば小さな世界だ。だが、それでもこんなにも感動している自分がいる。隔絶された水中の筒の中から別世界を覗き見て。


 ふと、魂だけになったら世界はどう感じる事が出来るのだろうか、などと考える。霊体になってしまえば五感は失う。だが意識だけは生きたまま物事を見て感じる。


 普通の人は霊体には触れられない、声も聞こえない、ましてこちらからアプローチすることも出来ない、それは今の自分と水槽の中の魚たちと同じようなものだ。厚さ三百ミリにも及ぶアクリルパネルは水中世界と地上を隔てる絶対不干渉の隔壁。人と霊の間にも分厚く、互いの理が通用しない、見えない壁が存在している。


 しばし目を奪われていた。背中に背負ったリュックの中のトーコも目を丸くして水槽の中を見回している。


そこに突然、視界が黒く染められる。


 ループ上を通過する巨大なジンベイザメだった。白い腹を見せながら悠々と泳ぐ姿は神々しくさえある。続いて羽根のように全身をはためかせるエイが朱莉の目の前で反転する。驚いて思わず体をのけぞらせる。逸らした頬にトーコの唇が触れたような気がし、ドクンと密度の濃い、熱い血液が心の臓から吐出される。


 しかし体が熱を纏った後で襲い掛かったのは、わずかな痛みだった。


「いいいったぁ!」


 朱莉の頬を撫でたのはトーコの前脚の肉球。朱莉が仰け反ったためトーコは落ちそうになると驚いて咄嗟に爪を立てたのだった。


(ふっ、ふあああああ! しゅ、シュリ様! もももも申し訳ございません! 大丈夫ですか! うっひゃお! 血が出てますです! きゃー大変!)


「あー煩い。こんなのかすり傷よ」コンパクトを開いて頬を確認する。


(シュ、シュリ様、血が……赤いんですね)


「ばーか、人間なんだから当たり前でしょ――こんなもん、唾つけときゃ治るって――ぶっ、ぶわっか! 舐めんなよ……あ」


 三毛猫を背負い、大声で独り言を言っているように見られた朱莉は、他の観客から視線の集中砲火を浴びていた。


(シュリ様、本当にすみません……)


「だからもういいって」


 洗面台の上にリュックをおろし、改めて鏡で頬の傷を確認していた。


(ま、絆創膏貼るほどじゃないわね)


 背後から腕を組んだ鞠がいつもの調子で言う。


(傷残ったらやだなぁ)


(大丈夫よ、まだ若いんだから)


(あ、鞠さんがそういうなら確かだよね)


(――ねえ、解釈次第じゃタダじゃおかないけど?)


 背筋を伸ばして鏡に映る鞠の視線から逃れる。


「っ、つぅあ! なんでもねぇっす!」


 また思わず口に出してしまった。


(シュリ様ぁ?)


「ぬわぁ! な、何でもないぞよ、くるしゅうないっ!」


 二体の霊体と同時に指向性念話をするとさすがに混乱する。広汎性オープンで会話が出来ればこれほど気を遣わずに済むのだが。


 洗面所から出る間際、隣にいた女性が不気味なものを見るかのような目を向けていたが、無視して急いで場内へと駆け戻った。


(あのシュリ様、念話と実話をごっちゃにするとまずいですよ、気を付けたほうがいいですよぉ)


(――む、みなまでいうな。承知しておるわ!)


地階に抜ける回廊は再び照明が暗く落ちており、両脇の水槽には海底の生物が展示されている。


細長い脚におどろおどろしい文様をあしらった外骨格、一見凶悪にすら映る両手のハサミ。水中でその姿と対峙したシチュエーションを想像すると軽く身震いする。ありていに言えば、生きて水底に佇立ちょりつする蟹は意思疎通ができない異生物を思わせ、理解不能な恐怖を感じる。


「食べるとおいしいのにこうして見るとグロいなぁ……カニって」


(蟹ですかぁ……冬になったらカニスキしましょうよ!)


「カニスキかぁ、焼きガニとか蒸しガニとかも美味しいよねぇ。甲羅酒に……あ、あとはシメの雑炊でしょ、んでから……あ、あっちの奴の方がでかくて食い応えありそうだな」


(朱莉ちゃん、水槽にへばりついてよだれ垂らさない! はしたない)


(っていうか、水族館の蟹見て食欲湧くとかさすが魔人ですよね)


(この人昔から食には貪欲でねぇ)


(まあわかりますけど、その割に自分で作る食事はサイテーですよねぇ)


(そうそう、私もいつも言ってるのよ。まともなご飯が作れるようになりなさいって)


(この前もちらっと何気に、私が教えますからって言うのに『作る人がいるんだから別にいいじゃない』ってさ、亭主関白もいいところですよね、家では何もしないおっさんですよあれじゃ)


(おっさんって! あーっはっはっは!)


 朱莉はタカアシガニの水槽にへばりつき、両拳を握りダラダラと油汗を流していた。なんと水槽のガラスに映る、背後の鞠と猫の姿が仲睦まじく哄笑しているではないか。


 なんだこれは……何が起きてい、る?


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