217話 「死者の宴がはじまる」
「申し訳ありません、アリシア様。曲者を逃がしてしまいました……」
「……」
仮面の男――シャウ=ジュール=シャーウッドがサイサリス城の最上階から劇的な逃走を遂げたあと、遠くに移る上流区のきらびやかな景色を背にザイムードが言った。
対するサイサリス教皇アリシアは、心ここにあらずといった表情で思案気な表情を浮かべている。
「ザイムード」
しばらしくてようやく口を開いたアリシアが、足元に散らばった金貨を一枚拾い上げ、その表面を指でなでながら訊ねた。
「お前の名をもう一度私に告げよ」
きらきらと輝く金貨に落とされていた視線が、鋭さをもってザイムードを射抜く。
ザイムードは一瞬その視線の圧力にたじろいだが、すぐにこう答えた。
「ザイムード=エル=バルドラ」
「バルドラ……」
その名前にアリシアはある組織の名前を思い出す。
「……〈バルドラ武装商人連合〉か」
その名の持つ意味を、アリシアはまだ深くは知らない。
◆◆◆
「んんあああああああああああ!!」
「やかましいですよ、金髪の坊や」
「私は坊やってほどの年齢でもないのですがあああああああああ!!」
「いいえ、まだ二十歳やそこらでは坊やに違いありません。なぜならメレアも前世を含めれば三十そこらだったというのに、私が天界へ昇るまで坊やのままだったので」
「あなたの子は例外ですよおおおおおおおおおおお!!」
シャウがクリア=リリスに運送されながら抗議の声をあげる。
人の体をたやすく潰せてしまいそうな黒尾の拘束から解放されたのは、それから数分後のことだった。
「ぜえ……はあ……」
「ずいぶん息が上がっていますね。あの子と肩を並べるにはいささか鍛え方が足りないのでは?」
「あなたの生きていた時代と違って、この時代には適材適所という言葉があるんですよ……。『商人も農民も一皮剥けばみんな戦闘民族!』みたいなあなたたち〈暗黒戦争時代〉の人間と一緒にしないでください……」
気づくとそこはあのカラーリスの丘だった。
サイサリスに訪れた当初、シーザーと密会をするためにやってきた思い出の場所である。
「ああ、私はここで人知れず〈土神〉に惨殺されるのですね……」
立ちあがって服の埃を払ったあと、ちらりとクリアの顔を見てシャウが言った。
「おかしなことを言いますね。わたしがそのつもりなら出会いがしらにひき肉にしています」
シャウの冗談にも特段悪びれる様子なく答えるクリア。
紺色の髪がよく映える白皙の顔には、「なにをいまさら」とやや困惑した表情も見えた。
――なんかこう、冗談に対するちょっとマジな答え方に、メレアと同じ化石感を覚えます。
そんな世代間の溝を感じながら、シャウは襟を正した。
「ま、まあいいでしょう。……しかし、この状況をどこから整理したものか」
さすがに状況を把握しきれない。
シャウは一度空を見上げたあと、ポケットから金貨を一枚取り出して指の上で遊ばせた。
落ち着くには金貨に触れているにかぎる。まったく金の力は偉大だ。
「ところであなたの名前をまだうかがっておりません、金髪の坊や」
「ああ、たしかに。いつまでも金髪の坊やでは私もいたたまれないので、名乗りましょう。私の名前はシャウ=ジュール=シャーウッド。この時代においては〈錬金王〉の号を不本意ながら頂戴しています」
「〈錬金王〉? ……なるほど、あの肝の小さな人間の末裔ですか」
クリアが納得したようにうなずく。
対するシャウは眉をぴくりと反応させた。
「知っているのですか?」
「ええ。ついさきほどまで私と共に行動していました。たしか名を――〈ガルド=リム=ウィンザー〉と」
「あら、でもファミリーネームが違いますね」と首をかしげるクリアをよそに、シャウは指の上で器用に遊ばせていた金貨を手のひらで握る。
「……また面倒なことを。〈死神〉め」
一瞬、シャウが唇を噛んだのをクリアは見逃さなかった。
「なにやら因縁があるようで。まあ、あなたがあの肝の小さな男の末裔だったとして、性格まで同じとは限りませんものね。むしろ同じだったらメレアの匂いがつくわけがない。あの子とも絶対に調子が合わないような男でしたし」
「でしょうね。我が祖先ながら〈魔王〉と呼ばれるに足る男でしたから。無論、直接会ったわけではないので確固たる判断はしかねますが」
「代を経れば人も変わる。血の根は同じなれど、咲く花まで同じとはかぎらない」
古風な言い回しをする。そんなことを思いながらシャウは再び思案にふけった。
「一つ訊いてもいいでしょうか、クリア=リリス――様」
「クリアで構いませんよ」
――いや、さすがにそれはおそれ多い。
シャウは〈土神〉クリア=リリスの逸話をいくつか知っている。
中にはメレアから伝え聞いた話もあるが、いわゆる一般的に認知されている逸話の中にも彼女がなした偉業についていくつも記述があって、とてもではないが友人のように振る舞うのは気が引けた。
「クリア様でご勘弁ください」
「意外と礼節を重んじるのですね」
くすりと笑ったクリアの笑みは、どんな名画の美人像にも劣らぬ妖艶さをたたえていた。
「これでも元王族なもので」
「なるほど。では、メレアのしつけも買って出てくださっているのでしょうか」
「ああ、いえ、彼のお守りにはもっと適任がいますのでそちらに任せています」
亡国ルーサーの元王子と、あの〈暴神〉の末裔たる奇天烈なメイドに。
「まあそこらへんは追々。取り急ぎ確認したいことがあります」
「ええ、良いでしょう」
「クリア様、あなたは〈死神〉ネクロア=ベルゼルートによって現界させられた死者ですね?」
「そうらしいということは感覚的にわかります。しかしわたしはわたしを降ろした者の名前も顔も知りません。それどころか、どうして自分がここにいるのかも、いまいち判然としない状態です」
たしかに、クリアから殺意や敵意といったものは感じない。
明確な目的があって天海から降ろされたのなら、それに見合った行動をするはずだ。
――さすがに私たちを助けろなんて命令は下さないはずだ。
少なくともあのネクロアという男は魔王たちに敵対的だった。
芸術都市ヴァージリアで〈雷神〉の姿を見せ、メレアを激怒させるほどには。
「不気味ですねぇ」
ネクロアという男に不気味さを感じる理由は、なにもあの容姿が原因ではない。
――目的がわからない。
まだムーゼッグやサイサリスの方がわかりやすくて安心する。
ムーゼッグはありとあらゆる力でこの世界の覇権を握るつもりだし、サイサリスもまた似たようなことをしようとしている。
「わたしの方からも一つ訊いて良いでしょうか、シャウ=ジュール=シャーウッド」
「なんでしょうか」
シャウは自分の思考を途中で切ってクリアに相槌を返す。
「あなたの――ひいてはメレアの今の目的は、どうなっていますか?」
そのときのクリアのまっすぐな瞳には、何人も嘘をつけないような独特の圧力があった。
「今の我らが主の目的は――」
とはいえ、シャウももとから答えを偽るつもりがない。
今の自分の主の目的は、嘘などつかぬとも、凡人が聞くと「冗談だ」と笑われるものだ。
「〈魔王〉という言葉の意味を、変えることです」
そう答えたときのクリアの顔を、シャウは本心から美しいと思った。
「ふふ、あの子らしい目的です」
慈愛に満ちた、優しげな母の顔。
ここにはいない彼にこそ、その顔を見せてやりたいとシャウは素直に思った。
「では、あの子の願いのためにも、やはりわたしはあなたに力を貸しましょう。まあ、いつまでこうして自由にしていられるのかはわかりませんが」
クリアが黒のドレスの裾を小さくつまみあげる。
「心強いですね」
「ただし、すでにこのサイサリスという国にはわたし以外の霊が降りてきていると思われます。わたしは、暗黒戦争時代の初期を生きた者としてそれなりに戦うことに自信がありますが――」
クリアがふと背後を振り向いてサイサリスの夜景を眺めた。
「わたしよりもよっぽど戦うことに特化した者たちが、いずれの時代にもいたと思います。よく勘違いをされるのですが、わたしはあまり戦うことが得意ではありません」
――ご冗談を。
シャウは苦笑してそう言いかけたが、声には出さなかった。
実際にかの時代を生きた彼女が言うのだから、そうなのだろう。
「ですので、いざというときは自分の身を一番に考えてください。わたしは時代の部外者。もしほかの霊に殺されたとて、あるべき場所へ還るだけ」
天の果てにあるという、魂の天海へ。
「しかしあなたには命がある。メレアの同志というのなら、あの子の途方もない願いのためにも、生き残らなければならない」
「親バカですねぇ」
「あなたにも目的があるのでしょう?」
ふとそう言われ、シャウは今度こそ苦笑した。
「あなたはあの子と違ってとても器用な人間のようです。そんなあなたがただの共感だけであの子と行動を共にするとは思えません」
「気を遣った表現をしていただいて恐縮です」
器用な人間。
それがどういう意味なのか、シャウにはわかる。
自分自身がそう思うからこそ、苦笑ではなく得意げな笑みで返した。
「無論、私も死ぬつもりはありません。私にも目的がある。それを成し遂げるまでは、あなたを道具にしてでも生き延びます」
「そうです。その意志こそが、戦乱の時代を生き残るための最大の武器なのです」
〈土神〉クリア=リリスに言われると妙に背中を押された気分になる。
シャウは我ながら情けないと思いつつ、また襟を正した。
「では、さっそく手伝っていただきましょう。実は私の仲間――つまりメレアの仲間たちがほかにもサイサリスの国内で情報収集をしているのですが……」
そうシャウが告げた直後。
「っ」
サイサリスの上流区の一角が、謎の光に包まれた。
それは、紫色の光だった。
「あれは……」
以前見たことがある。
リンドホルム霊山からの逃走劇の最終幕。
〈拳帝〉サルマーン=ゼウス=フォン=ルーサーが、体を張ってムーゼッグ軍を止めようとしたとき、彼の願いに呼応した魔拳が光による嬌声をあげた。
――あのとき地面を割った紫色の光と同じ。
シャウの視線の先で再び紫色の光が天に昇る。
今度は爆発というより、行き場を失った莫大な力が、無節操に天に発散されているかのような動きだ。
そして――
「今すぐに私をあそこへ連れていってください」
シャウはそこに、その紫色の光の柱が二本立っているのを見た。





