116話 「もう一つの葛藤」
「姉ちゃん、あれで本当によかったの?」
「あ? なんだよ、アルター。あたしなにか間違ってたか?」
「うんうん。たぶん姉ちゃんの判断は正しいよ。でも――」
「でも?」
ザラス=ミナイラスとその弟であるアルター=ミナイラスは、あのぼろぼろの建物の中で肩を並べて座っていた。アルターが術機銃弾で扉に風穴を開けた建物の奥間だ。
二人とも同じ色の茶色い髪を隙間風に揺らし、建物の内壁に背をあずけている。
「あの人、姉ちゃんを〈光魔〉だって知ってからも、手を出さなかったよ」
「ああ、そうだな。あたしを追ってる連中の中じゃ、一番の甘ちゃんだ」
「素直じゃないね、姉ちゃん」
「なにがよ」
「本当はああいう人のこと、好きでしょ」
「あっ!?」
不意に言ったアルターに、ザラスは怒ったような声を返した。
「『まっすぐな目をしてるやつは嫌いだ』っていうけど、それは嘘だよね、姉ちゃん。俺だって姉ちゃんの弟だ、それくらいはわかるよ」
「知らねえよ、お前の勘違いだろ」
ザラスは続けてアルターの言葉を否定したが、アルターは嬉しげに笑っているばかりだった。
「あの人、例の『白い髪の魔神』だと思う?」
「……」
と、アルターが今度はザラスの顔を下から覗き込みながら訊ねた。
ザラスはそんなアルターの視線からわざとらしく顔をそらし、そのままいくばくかの間をおいてぽつりと言う。
「……だろうな」
「まあ、そう思っていたから、姉ちゃんもあんな確信的な物言いをしたんだよね」
「でも、断定はしてねえだろ」
「どうして断定しなかったの?」
「……『知ってるならいいじゃねえか』って、言うかもしれねえ。『あとで証拠を見せるから、今は大人しく連れ去られろ』って。男はよくそういう言い分を使う。――あのクソ親父みてえにな」
「あの人は親父とは違うよ。実際に追ってこなかったじゃない。俺は、あそこまで魔王に関して葛藤してる人、はじめて見たよ。姉ちゃんの嫌いな言い分を使えば、あれだけ強いんだから無理やりさらっちゃえばいいのに」
「……」
ザラスはバツが悪そうに舌打ちをした。
「じゃあ、お前、あいつについていきゃ良かったって言うのかよ」
「うんうん、姉ちゃんの判断は間違ってないよ。身を守るためなら、俺もまだサイサリスの方が信頼性は高いと思う。本当にあの人がほとんど一人でムーゼッグの遠征隊を追い返したっていうなら、話は別だけど」
ザラスはその言葉に内心でうなずいていた。
〈地竜〉すらを含んだと言われるムーゼッグの騎兵隊をたったひとりで追い返したとなれば、むしろそちらの方が脅威性はわかりやすい。
「……想像がつかねえんだよ」
ザラスはぼやくように言った。
「それがただのうわさで終わったらどうするんだ。こっちは命が懸ってる」
「そうだね。サイサリスと手を切って、向こうへ行って、やっぱりダメでしたってなったら、今度はサイサリスにすら帰れないかもしれない」
「途中にムーゼッグにでもつかまってみろ……」
「うん」
アルターは優しげな笑みを浮かべて姉の肩をなでた。
いつの間にか落ち込むようにうな垂れていた姉を、そうやって慰める。
するとザラスが顔をあげて、アルターの方を見た。
「アルター、もしサイサリスがあたしらを裏切ったり、ムーゼッグが介入してきたりして、面倒なことになったときは――あんたは逃げな」
「……」
アルターは姉の表情の中に強がりを見つける。
そしてその強がりの中に隠れた、今にも泣きそうな表情を見つけた。
「いいか、あんたまであたしと一緒に死ぬ必要はない。あたしだって、これが移植できないような力であるってわかれば、殺されずに済むかもしれないんだから」
「でも、そうなったらそうなったで、姉ちゃんはきっと自由じゃなくなる」
「いいんだ、あたしは別に。もしかしたら何年かしたあと、うまくいくこともあるかもしれない」
漠然とした良案を求める姉が、アルターにはひどく弱々しく見えた。
人目があるときはいつもは気丈だけれど、二人のときだけは彼女の弱みが現れる。
むしろアルターはその点に安心する。
こういうところでそれを吐きだせなければ、姉はもっと早くに壊れてしまっていた気がするから。
「だからあんたは、ヤバくなったら逃げな。もともとあたしに付き合う義理なんて――」
「ダメだよ、姉ちゃん。俺たちは家族なんだ。だから義理とか、そういうのじゃない。俺は好きで姉ちゃんと一緒にいるんだから」
「……」
アルターが笑顔で言うと、ザラスは面食らったように顎を引いて、それから両足を立ててその膝に顔をうずめてしまった。
アルターはそんな姉の肩を、それからずっと、優しく撫で続けた。
◆◆◆
しばらくして、建物の中に物音がやってくる。
「……ジュリアナ」
隣の部屋に続く扉の奥から、あの〈魅惑の女王〉が姿を現していた。
そのときアルターは、姉が撒いた種が見事に咲いたことを知る。正直に言えば、かなりの驚きを覚えていた。
「……」
しかしすぐに、アルターは顔を俯ける。
この状況では彼女に憎まれるだろうと思った。
――いや、憎まれるべきなんだ。
彼女にとってはおそらく、向こうに行っていた方がよかった。
彼女がサイサリスに与えられた役割は、あまりにもつらすぎる。
自分たちとは違う。
ジュリアナは――早く向こうにさらわれるべきだった。
アルターは、ぶちたければぶってくれとでも言わんばかりに、身体を少し前にずらす。
「もし、お疲れですか? 癒しになるかはわかりませんが、一曲歌いましょうか?」
が、ジュリアナの口から放たれた言葉は、ひどく優しい音色をたたえていた。
アルターはバっと顔をあげて、ジュリアナの方を見る。
彼女の顔には――
「あら、顔になにかついてます?」
とても優しげな、微笑が浮かんでいた。
「っ――」
アルターはそれを見てすぐ、強烈な罪悪感に襲われる。
しかし姉が隣でまだ俯いている手前、ここで弱気になるわけにはいかない。
「いえ、なにも」
「そうですか」
「歌も、大丈夫です」
「それは残念ですね」
ジュリアナは幼気な少女が残念がるように、無邪気に片頬をふくらませて言った。
アルターにはそんなジュリアナの内心がまるで読めない。
もしかして現状を理解していないのだろうか。
「たぶん、もうすぐサイサリスの方が来ます。そうしたら一度隠れ家へ向かいましょう。なんだか力を使った初日から、変なものに巻き込まれてしまったようですので」
不意にジュリアナの方からそんな言葉が飛んでくる。
「ああ、わかった」
その言葉に、ザラスが顔を膝にうずめたままで答えた。
アルターも姉が言うから、それに従う。
「では、三人で待ちましょう」
ジュリアナがアルターとは反対側、ザラスを挟んでその向かいに、同じく両膝を立てて座り込んだ。
部屋の天井で回る洒落たシーリングファンを見上げながら、彼女はその美貌にぼうっとした表情を浮かべる。
「――ごめん」
ふと、ザラスがとても小さな声で紡いだ。
「……ザラスさん? 今、なにかおっしゃいましたか?」
しかし、あまりにも小さな声だったので、シーリングファンに夢中だったジュリアナには聞こえなかったようだ。
ジュリアナは透き通った水色の髪をさらりと顔横に垂らしながら、小さく首をかしげてザラスに訊ね返す。
「……いや、なんでもない」
結局ザラスは、そういって、それ以上の言葉を紡がなかった。
彼女の漠然とした謝罪の言葉は、反対側に座っていたアルターにだけ、頼りない音量で届いていた。
◆◆◆
やがて、しばらくの時間が経つと、その場に『道化衣装を着たサイサリスの手先』がやってくる。
その道化師は軽妙な動作を伴わせて自分についてくるように指示を出すと、そのままサイサリスの地下隠れ家へと向かいはじめた。
隠れ家へと連れられる途中、アルターは再びジュリアナの顔を窺う。
やはり彼女の顔には怒りなど映っていなかった。
むしろどこか安心したような、そんな気配さえ見て取れる。
なぜ、ジュリアナは怒っていないのか。
――いや、もしかしたらそう見えるだけで、内心では憎んでいるのかもしれない。
いろいろなことがアルターの中に駆け巡ったが、さきほどの戦闘で疲れた身体は徐々に思考する気力すらを奪っていって、結局それから数時間、まともにものを考えさせてくれなかった。
アルターの脳裏には、ぼんやりと、あの白い髪の魔神の姿が浮かんで揺れていた。