115話 「たかが言葉、されど言葉」
とはいえ、メレアと言えども、無条件に魔王に対して救済的であるわけではない。
メレアは実際に悪徳的魔王が今の時代に再出現している、あるいはもとから人知れず紛れていた、という可能性に関して、当然昔から考えていた。
潜在的な悪徳は誰にでもある。
そもそも徳とはなんだ、と言われれば、メレアにも明確な基準はわからない。そこまでくると哲学だ。
しかしメレアはメレアで、己の価値観にその選択の責任のすべてを乗せている。
だから、自分も間違えるかもしれないということに関して、もちろん恐れはあるが、それでもその恐れのために足を止めるということはしなかった。
間違ったときは、その責任はすべて自分にやってくる。
そうやって自分の身を担保にすることで、信念を後押していた。
ゆえに、メレアはそれが自分にとって悪徳的であるとしたら、その魔王と間違いなく敵対しただろう。
『百の英霊の悲嘆』を知っているからこその理想と合理性が、メレアの中にはある。
――でも、これは、ダメだ。
しかし、今ばかりは、そんな価値観も惑わされていた。
目の前の姉弟が、ひどく絶妙に、メレアの合理性の境界線上に立っていて――どうにかして手を差し伸べるべきなのか、それともこの場は諦めるべきなのか、とっさに『判断』を下せないのだ。
◆◆◆
「姉ちゃん! 逃げてっ! こいつも姉ちゃんを狙ってるんだ!!」
アルターの叫びに、メレアはハっと我に返った。
アルターがしびれた手に再び術機銃をたずさえて、メレアにどうにかこうにか銃口を向けている。まだ腕は震えていた。
そんな状態でも、必死に銃口を向けてくるアルターに、メレアは自分に似た何かを感じ取った。それは親近感に近いものだ。
しかしメレアの顔には、一転して憔悴したような表情が浮かんでいた。一瞬のうちに疲れ切ってしまったような、そんな顔だった。
「大丈夫だ、アルター。たぶんこいつはあたしを奪ったりはしない。……実際に見るのは初めてだ。お前たぶん、すごく『バカなやつ』だろ」
対し、姉のザラス=ミナイラスの方は、メレアに眉尻を下げた苦笑を向けていた。
彼女は、まるでメレアの葛藤のすべてを見透かしたような言葉を、いくぶんかの慈愛すらをたたえてメレアへ飛ばす。
「あたし、知ってる。サイサリスの幹部たちの話を盗み聞きしたから。話っていっても、うわさ話だとか、冗談めいた話、って方が正確だろうな。……『近頃東大陸の中央部付近で起こったムーゼッグ関連の戦で、魔王をかばった人間がいるらしい』って。なんでもそいつは、ムーゼッグがいつもの力の収集のために追っていた魔王を全部抱えて、まるごと助けたって」
それはまさしくメレアのことだった。
「ああ、あと、レミューゼか。まあ、実際はその謎の誰かが主導していたのか、レミューゼが主導していたのかはわからねえけど、なんか、おもしろいことになってるって。いや、サイサリスからしたらおもしろくねえのか。ったく、人の話を自分の主観を混ぜないで話すのって結構めんどうだな」
ザラスは面倒くさそうに頭をかきながら言った。
「ともあれ、そんなことをするやつは、もしかしたらお前みたいなやつなのかもな」
メレアはザラスの言葉に、答えなかった。一瞬、その話を知っているなら、それをやったのは自分だと言って、ザラスを説得しようとも思ったが、すぐにその言葉は出てこなかった。――理由があった。
そしてその理由を、次のザラスの言葉が形にした。
「でも、そんな荒唐無稽な話、さすがに信じられねえよな。あたしたちは〈魔王〉だぜ? それこそそんな甘い話につられてきた魔王たちを一網打尽にするムーゼッグの策略かもしれねえ」
メレアもまた、ザラスのその言い分を、回りすぎる頭で予測してしまっていた。
メレアはザラスの言葉に、否定の返事を飛ばせなかった。
彼女の言い分はあまりにもまっとうで、そしてあまりにも悲しくて――
「少しでも信じてみようとは……思わなかったか」
「ああ、思わない」
なによりもメレアは――
力のない自分に腹が立っていた。
◆◆◆
言葉の力だ。
魔王というそれと同じ。
メレアたち〈魔王連合〉にはまだ――『名声』が足りなかった。
「実際にその場面を見てたら、あたしもそれを信じたかもしれない。んで、近くにいたら、『あたしたちも助けてくれ』って叫んだかもしれない。――でも、見てない。人の話や言葉なんか、案外あてにならないもんだ。……めんどくせえから言っちまうが、お前の予想どおり、あたしは〈魔王〉だ。〈光魔〉なんて呼ばれててな。ちなみに、知ってたか?」
「……知らなかったよ」
「そうか」
ザラスは少し目を丸めて驚いた表情を浮かべるが、それ以上の反応は見せなかった。
「じゃあ、あたしを魔王だと見抜いた褒美に教えてやる。あたしには別に、戦う力はない。才能がなかった。でも〈光魔〉としての力はある。……あたしはな、身体に『回路』を持ってるんだ。特殊な術式回路ってやつだ」
腕を開いて、まるでみずからの身体をさらすような体勢になりながら、ザラスは続けた。
「頭のいいやつ曰く、『光を異常なまでの変換効率で術素に変換する』回路らしい。だから、〈光魔〉って。――ハハ、安易な名前だよな。でもたしかにわかりやすいんだ。わかりやすいから、簡単に情報が人の頭に定着する。クソみてえだな」
口から漏れた脈絡のない悪態が、ザラスの得も言われぬ怒りを体現していた。
「でもまあ、そんなもんだ。本人は術式なんてたいして使えねえのに、術素だけはやたらある。あとまあ、そんな術素に親和しすぎる体質のせいで、左眼が変異して人の術素がよく見えるようになった。……そのくらいだ。たいしたことねえだろ? 魔号だし、こんなもんだろ。――って、あたしも思ってた」
そこでザラスがわざとらしく肩を落とす。
「だが、あたしが生まれた『時代』が悪かった」
そのころにはメレアにも予想が芽生えていた。それを表すように、メレアの視線は自然とアルターが手に持っている術機の方に流れる。
ザラスはその視線の動きにめざとく気づいて、小さく笑いながら言った。
「やっぱお前、察しがいいな。そうだ、『術機』だ」
彼女の口をついて出てきた言葉で、メレアは得心する。
「術機産業なんてもんが、近頃ところどころで盛んになってるだろ。あたしはバカだから、難しいことはわかんねえけど、まあ、やたら術素だけはあるあたしの身体は、ずいぶん術機を使うのに便利らしい。あたしがこのクソみてえな血筋のせいで継いだ身体のことを、どこかから嗅ぎつけた輩が、何年か前からやたらに追っかけて来てな」
「……それで」
「逃げたよ。あいつらの目、超こええからな」
ふと、アルターの方から鼻をすする音が聞こえてきて、メレアはもう一度そちらへ視線を向けた。
「ああ、あたしの弟は泣き虫でな。あとついでにバカだ。実はそいつには〈光魔〉としての回路はない。理由はあるが、言いたくねえから言わねえ。ともかく、そいつはバカで――あたしに無理についてきやがる。勝手にどこへでも行けばいいのに」
「ダメだよっ! 姉ちゃんは幸せにならなきゃダメなんだッ!!」
「ほら、なに言ってっかわかんねえ。話すとき自分の中の独自の論拠に頼りすぎるクセがあるんだ」
ザラスは鼻で笑って大げさに肩をすくめた。
「だがまあ、そのバカな弟にはあたしと違って戦う才能があった。あと泣き虫だが根性はある。だから、あたしの代わりにいつも弟が戦う。あたしを守るために」
ザラスは一転して、慈しむような目でアルターを見ていた。
「今回もそうだ。あたしだけだったら、たぶんこうして取引の体裁を取っていられなかった」
「サイサリスは……」
メレアがついに口を開く。
ザラスはやはり察しが良かった。
「そうだ、マシな『取引相手』だ。追ってきたほかの連中よりもいい条件で取引をしてくれた。だから別にサイサリス教とかに恩はねえけど、外に出るとまた厄介なことになるから、こうして使われてやってる。もちろん、ほかにもっといい条件があれば、そっちに鞍替えする」
それは追われる魔王ゆえの合理性だった。
「なら――」
「でも、あたしだって易々と信用するわけじゃない。サイサリスはでかい国家だ。そこから鞍替えするんなら、相応の根拠が欲しい。同じレベルの国家の名前か、そういうものに対抗できると思わせてしまう出来事を自分で見るか」
ザラスは続けてため息をついた。
「だから、もしお前が魔王をかばったっていう『うわさの誰か』であったとしても、あたしはお前にはついていかない。たしかにお前はアルターを手玉に取るような強い男だが――」
言う。
「それでもお前が、国家に勝てるという証拠にはならないからだ」
メレアはその言葉に言い返せなかった。
どうすれば彼女たちを信用させられるのか、とっさに思いつけなかった。
◆◆◆
「アルター、帰るよ」
ふと、ザラスがアルターに言った。
「えっ!?」
アルターは姉の言葉が腑に落ちないといわんばかりに大きな驚きを見せる。
「で、でも、この人たちジュリアナを追ってきているんじゃ……」
「そうだけど、あんた本気でやってあいつに勝てるのか?」
「……た、たぶん無理」
「じゃあやり合ったって意味ねえだろ。一応時間は稼いだが、この分だとジュリアナを担いでった白装束の方にも別のやつが送り込まれてる。これはあたしらだけじゃどうにもならん」
ザラスは両手を投げ出しながら言った。
「でもこのままじゃ上の連中に……」
「まあ、まだ賭けみたいな方法は残ってるから、そのための種を植えておく。それでどうにもならなかったら、あたしらに運が無かったってことだ」
すると、不意にザラスがもう一度メレアの方を見た。
「なあ、白い髪のお前。実はあたしら、ジュリアナを護衛しきれなかったときに罰を受けることになってるんだ。内容は想像に任せるが――まあ、アルターはともかくあたしは多少痛めつけられても能力に支障はねえからな、とだけ言っておく。んで、もしあんたが本当に立場の弱い魔王を助けようなんて理想を掲げてる噂のバカなら、あたしらのことも少しは気遣ってくれると嬉しいね」
ザラスは自分で自分のことを『バカだから』と言いながら、その実ひどく心理的な策謀に長けた女だった。
彼女の言葉は、目に見えぬざらついた手となって、メレアの心をがりがりとひっかいていた。
「で、もしあんたがあたしらのことを気遣ってくれるってんなら、ジュリアナをもう一度その建物の中に『戻して』おいてくれると助かるよ」
「そんな馬鹿げたことを……」
「ああ、普通に見りゃ、かなりバカげてる。でもたぶん、あんたはそうする気がする。それにあたしは、ジュリアナの性格も知っているからな。余計に、そう思うんだ」
意味深な言葉を残し、ついにザラスは踵を返した。
アルターは急ぎ足で彼女を追って行き、二人は建物の中へと消える。
メレアはその二人の背中を、動かずに、ただ後ろから眺めていた。
『あたしたちも助けてくれって、叫んだかもしれない』
彼女のあの言葉が、メレアの足に楔のように突き刺さっていた。
◆◆◆
「メレア!」
やがて、路地の横道の方から声がやってくる。サルマーンの声だった。
急いで駆けてきたのであろうサルマーンは、悄然と立ちすくむメレアに駆け寄って、その顔を覗き込む。
「メレア、ジュリアナは確保したって、途中でマリーザに聞いたぞ。もうそろそろ来ると思うぜ」
「……ああ」
サルマーンの言葉に、メレアは重く声を返した。
すると、それから数分も経たぬうちに、サルマーンの言葉どおり複数の足音が背中側から近付いてくる。
メレアはそのとき内心で、時間が止まって欲しいと願っていた。
「――メレア、さん?」
そんなメレアの耳を、心地よい揺らぎを伴った声がつついた。
魅惑の女王――ジュリアナ=ヴェ=ローナの声だ。
声を掛けられたメレアは、とっさに彼女の方を振り向けなかった。
「もし? どうかいたしましたか?」
ジュリアナの声が横に回り込んでくる。
メレアはまだ顔をあげられない。
彼女の顔を見てしまったら、『彼女が救えたのだからいいや』と、諦めてしまいそうで。
このときメレアの中には、ある迷いと葛藤があった。
「あの、どこか具合でも悪いのですか?」
「ああ、いや、……なんでもない。ジュリアナも、怪我はない?」
「はい、おかげさまで」
「そうか……、良かった」
心からそう思う。
なのに――なぜだか心は晴れない。
「……」
――やめろ。考えるな。
一瞬メレアの中に、自分で自分を叱咤したくなるような考えが浮かんでいた。
しかしメレアはすぐにそれを頭の外へ追いやる。
――これで、良かったんだ。ジュリアナは救えた。向こうから手を伸ばした魔王を、救えたんだぞ。
なら、それで終わりだ。
余計なことを考えるな。
「メレアさん? ――もしかして私に、何かお願いしたいことでもありますか?」
しかし、不意にジュリアナが優しく紡いだ言葉が、メレアの心を強く揺さぶった。
ジュリアナの言葉は、メレアが何も言っていないのに、その内心のすべてを見抜いたかのようなものだった。あるいは顔に、出ていたのかもしれない。
「……ジュリアナ」
そして彼女の言葉は、メレアの背を後押ししてしまっていた。
メレアは自分の口が開くのを、止められなかった。
「俺は今から、君にとても残酷なお願いをするかもしれない」
「……」
ジュリアナはメレアの言葉を聞いて、わずかの間を置いた。
そのあとに、ゆっくりと、穏やかな声で彼女は言う。
「それは、時計塔の上で聞いた、あなたの信念に関わることですか?」
「……ああ」
「では、聞きましょう。――さきほど、あなたのお連れさまに聞きました。あなたは私を救ってくださるようですね」
「そんな、たいそうなものじゃない」
メレアはうつむいたまま、絞り出すように言った。
「いいえ、実は私は、すでに二度、あなたに救ってもらっています。ですから、今この場で、その恩返しをしようと思います」
その声のあと、メレアは誰かに頬をなでられた。
心地よい温もりをたたえるその手は、ゆっくりとメレアの顔を持ち上げて、ついに正面を向かせる。
そうやってメレアが視線をあげた先に、ジュリアナが、微笑を浮かべて立っていた。
「どうぞ、仰ってください。最後には必ずあなたが救ってくださると言うのなら、私はなんでもしますよ」
「っ……」
ジュリアナの優しさは、このときのメレアにとって、ありがたいと同時に、自分の不甲斐なさを湧き起こさせる要因にもなっていた。





