110話 「魔神の証明」
「ねえ、取引をする前に、一つだけ疑問を解消させて」
シーザーはシャウとサルマーンを交互に見てそんな言葉をあげていた。
シーザーにはどうしてもまだ理解できないことがある。
なぜ、あの場で〈魅魔の魔眼〉の催眠にかけられたはずのサルマーンが、こうしてこの場にいられるのか。
「あれは初見で対応できるようなものじゃない。あの魔眼の力は通すまでが結構難儀だけれど、一度通ってしまえばとても強力だ」
「だろうな」
サルマーンが「してやられたよ」と頭をかきながら言った。
「そしてジュリアナという最高の美と組み合わさったとき、その通すまでの難儀さもずいぶん緩和される。彼女は簡単に人目を集められるから。……それに今回はセッティングも完璧だった。キミたちは掛かるべくして彼女の魔眼の力に魅了された」
はずだった。
「ああ、された。気づいたら――っていうのもあれだが、とにかく、気づいたときにはお寝んねだ」
「なのに、どうして――」
シーザーはまるでその答えがわからない。
シーザーは〈魅魔の魔眼〉の力を知っている。
あれが強力である一方、同じ者に複数回かけるとその力が弱まることや、何秒かその目を盗み続けなければ魅了に掛けられないことも知っていた。
だからこそ、それに見合った――彼女にすべての視線を集中させるという状況を作り出し、場を整えた。
完璧だったはずだ。
実際、メレアたちを含めてあの場にいた者はすべて頭を垂れて眠りこけていた。
しっかりとそれを確認したつもりだった。
「シーザー、これをご覧なさい」
すると今度はシャウが、いまさら机の上においてあった何枚かの紙片を指でつまんで、シーザーの眼前に垂らして見せた。
「これは?」
シーザーは言われるがまま、その紙面に視線を走らせる。
その紙の上には、黒のインクで複雑な幾何模様が描かれていた。
おそらく術式にたぐいするものだろう。
「あなたの予想通り、これは術式です。とある術式の断片とでも言いましょうか」
「これが、いったいなんだと言うの」
「気づきませんか?」
掲げた紙片の向こう側からシャウがひょいと顔を出して、さらに軽く首をかしげて見せた。
シーザーはまだシャウの言わんとするところがわからない。
「まあ、そちら側の陣営にいるあなたが、これをじっくり見ることなんてありませんかね」
しかし、そのシャウの言葉を聞いて、ようやくシーザーは勘付く。
「それ、まさか」
「そう、実はこれ、かの魅惑の女王の魔眼術式です。――〈魅魔の魔眼〉の。まあ、これでもかなり断片的なんですけどね」
言われてみれば、その紙に描かれた術式陣はところどころ欠けている部分がある。
大雑把に見て術式だとわかるものの、場所によっては大きく削れている箇所もあって、完成図はさすがに予想できない。
「こんなものどこで……」
「うちには優秀な情報収集員がいましてね。ついでに、その情報を的確に補完する頭脳も持った人員もいたりします。やたら派手な髪色の女性なんですがね。とても優秀なんです」
シャウが言葉端に「まあ、少し口調と私の横腹をつねる力が強すぎるのが難点なんですが」とこぼす。
「そんな優秀な彼女が、今回風鳥を使ってこの文書を芸術都市まで送ってきました。――いざというときのために魔王連合専用の風鳥を買っておいて本当によかった。備えあればなんとやらですね」
「お前あれいつの間に教育してたんだよ。匂い覚えさせてたのか?」
「させてましたよ。一羽はいないと不便ですし。ハーシム陛下に何羽かお借りしたのもありますが、あっちはレミューゼ国内で使う分にはいいとしても、外部まで匂いを追わせるには成長しすぎていましたからね。レミューゼのほかの匂いを覚えすぎていて、まっすぐにこちらまで飛んでこれるか少し不安が残ります。――ともかく、こういうときのためにも、ちゃんと外出先まで追ってこれる風鳥が一羽はいないと」
「はー、なるほど。お前も結構いろいろ考えてるんだなぁ」
「まあ、仮に私が失念しても、このあたりをリリウム嬢が失念するわけもないので、結構気楽にやってますよ。私は金を稼ぐついでです」
「ハハ、ずいぶんリリウムに対する信頼があるんだな。でもたしかに、あいつ一人いないと俺たちの組織は立ち回らなくなりそうだな」
サルマーンが顎に手をやって思案気にうなる。
シャウはその間に、再びシーザーの方を振り向いて言った。
「ともあれ、そうやって送られてきた文書に、こんなものがあったわけです」
「よくそんなものを見つけたね、キミの仲間は。魅魔はそこまで有名な魔王じゃない。それこそ今日の劇の人形王と比べれば、知名度は落ちる」
「彼女、近場にある文献を片っ端から調べてましたからね。もう何週間も。近場といっても、一応一国の王城の中に貯蔵されたものにまで手を伸ばしてましたし。それに、もともと今回この街へ来る際に、〈魅惑の女王〉が魔王であるという前提でその単語からある程度の能力の予想はしていました。だから、ある程度調査の方向性もまとめやすかったのでしょう。とはいえ、かなりぎりぎりであったことも認めますが」
シャウはようやく手に持っていた紙を再び机の上において、疲れた腕をほぐすように揉んだ。
「でも、仮に魅魔の魔眼の術式がわかったところで、どうしようもないじゃないか」
「いえ?」
「は?」
シャウの即座の答えにシーザーは思わず素っ頓狂な声をあげる。
「たしかに、どうしようもない可能性もあった。それも認めます。ただし逆に、『どうにかなる可能性』もあった」
「バカな、魔眼術式だぞ。魔眼は術式の描写に動きを伴わないし、発動もかなり速い」
シーザーが「どうしようもない」とでも言わんばかりに大仰な身振りで両手をあげてみせる。それからさらに続けた。
「仮にあの世界最高の術師と呼ばれた〈術神〉であったとしても、魔眼に反転術式を当てることは不可能だ。術式を解読できたとしても、反転術式の術式生成が間に合わない」
「ハハ、どうなんでしょうね。今度本人がどう言っていたか聞いてみましょうか」
「……ん?」
シャウの言葉にシーザーが首をかしげる。
シャウは「ああ、こちらの話です」と手を振った。
「たしかに、〈術神〉なら、そうだったかもしれません。ですが、今あなたが仰ったように、魔眼術式もある意味術式でしかない。反転術式を当てれば原理的に無効化は可能だ。――あ、これ私の言葉じゃなくて彼の言葉なんですが」
『彼』という単語は、これまでの話の流れからシーザーの中で容易にメレアという単語に変換された。
「……ちょっと待ってよ。さも反転術式手法がこの世に残っているとでも言うような口ぶりだけど、今のボクのたとえだって相当な夢物語だ。だから仮に、と言ったんだけど」
「残ってますよ?」
シャウが楽しげに笑った。
シーザーの表情は対照的に曇る。
「ふざけてるの? 術神は子を残さずに死んだ。反転術式の胆となるあの魔眼も、その術式手法のノウハウも、かのフランダー=クロウ=ムーゼッグを最後に潰えた。それにあれはあの天才だからこそ使えた代物だ。常人には技術も知識も足りない」
「さすが、あなたも結構そのあたりの造詣が深いですね。昔〈術神〉に憧れてましたっけ?」
「〈術神〉自体には憧れてないよ。彼は常人が目指すべきものじゃないから。――ボクは小さい頃に読んだ〈術神〉が題材の本が好きだっただけだ」
「そうでした、そうでした。……しかしそれなら、少しくらいピンときませんか? 彼の容姿を思い出して」
そこまで聞いて、シーザーはようやくハっとした。
会話をしながら、英雄譚に描かれていた〈術神〉の容姿を思い出して、そこにメレアとの決定的な共通点を発見してしまっていた。
――赤い眼。
「――ありえない。たまたまだ」
「みんな最初はそう言います」
「それでも、ありえない」
自分で言いながらその言葉がおかしいことに気づいていた。
「まあ、それはあとで本人にでも訊いてください。ともかく、仮に今回追っている魅惑の女王が魅魔であったと仮定して、私は彼に聞きました。『もし相手がこの魔眼術式を使ってきたとして、あなたはこれに反転術式で対抗できるか』というふうなことを。結構ボカしましたけどね」
「……なんて答えたの」
シーザーは訝しげな表情のまま訊ねる。
シャウは肩をすくめて苦笑しながら言った。
「『二秒あれば』」
「ばかげてる」
シーザーの眼が飛びださんばかりに見開かれた。
「曰く、『似たものを見たことがある。断片的だから即時で対応できるものではないけれど、この断片を見た上で本物を見ればおそらく反応できる。こういう術式には特に注意しろって、かなり重点的に対策を叩きこまれたからね』、と。――反応? ほとんど反射ですよね。頭の中でどういう術式思考がなされているのか想像だにできない」
「もし本当にその場で初見の魔眼術式に対抗する反転術式を組めたのなら、それはもう人間じゃない」
「ですが、どうやらやってみせたようです」
シャウ自身がその言葉に疑いを持っているかのような口ぶりで、それは放たれた。
シャウの言葉を聞いたシーザーは、数秒の間沈黙した。
どうにかこうにかその言葉を消化しようと四苦八苦するかのようだった。
「……まさかキミ、それを見越して今回ボクとの取引に応じたの?」
そしてついに、シーザーはもはやその点について話を聞くだけ無駄だと言うように、話題をずらした。
「まあ、多少はそういう側面もありますが、今回は自分でも不思議なほど強気に踏み切った方です。たしかに完全に分が悪ければ途中でなんらかの手を打ったかもしれませんが、そもそもこの術式断片が届いたのはあなたと密会したあとのことですからね。メレアにこれを見せたのだって、レーヴ=オペラ座に向かう前の、あの『別れ際』です」
「キミがあのときメレアを呼び寄せていたのはこれのためか……。やっぱり、信じられないよ。キミがそういう勇気を見せるなんて」
「勇気ではありませんよ。別にこれがなくても、メレアにはなんとかしてもらわねばならなかった。さきほども言いましたが、この程度で躓いてもらっては困る」
「どうだか。本当に分が悪ければ自分のポリシーを曲げてまで取引を反故にするくらいしそうな気もしてきたよ。今のキミを見ていたら」
「だとしたらあなたの目は節穴です」
シャウが面倒臭そうに手を振って言った。それにシーザーは「照れ隠しに芸がないね」と返す。
「もう、その点はいいでしょう。それで、話を戻しますが――私にも保険はあった。というのも、これらはすべてあの〈魅惑の女王〉が〈魅魔〉であることを確定させていなければ成立しない対策方法だったからです。つまり、私には彼女が魅魔であることがわかっていた。あなたの仄めかし以外から、実は情報を得ていました」
「どこから嗅ぎつけたんだい」
シーザーが訊ねると、シャウが先ほどシーザーに見せた術式断片の紙の下から、もう一枚の紙を取り出した。
それは術式断片の紙と比べるといくぶん質の良い植物紙で、またそこに描かれている文字もずいぶん達筆である。
そしてその紙に書かれていた内容は、
「『魅惑の女王は魅魔である可能性が高い』……?」
ほぼ確定するような、そんな文言であった。
直後、シーザーは、より注目すべき文字がその内容の下隅に描かれていることに気づく。
今までの『ありえない』という疑問のひとつを、解消する文字であった。
「――『レミューゼ王 ハーシム=クード=レミューゼ より』」
シーザーは自分の口元が震えるのがわかった。
これを見たあとで、最初に聞いたあのレミューゼ対ムーゼッグの戦争のうわさを思い出した。
かの男は、たったひとりでムーゼッグを押しのけた。
もし、もし本当にそうであれば、その男はレミューゼに並々ならぬ借りを作らせたことになる。
レミューゼのみならず、そこに関係した三ツ国も同じだろう。
であれば、レミューゼがその男に協力し、今回このような文書を送ってきたことにもある程度の納得がおける。
「まあ、あなたは間違えないと思いますけど、この手紙の王印、本物ですからね」
自分が抱いた疑問への証明が、紙に描かれた国家元首の名前と、その隣に押された王印によってなされていることに、シーザーは遅れて気づいた。





