111話 「失念していた」
「アイシャ、例の手紙はちゃんと魔王たちに渡したか?」
「はい、しかと手渡しました」
「そうか」
〈星樹の国〉レミューゼ王国。王城。
その玉座の間の隣に設置された新しい執務室で、ひとりの男が小さなため息をつきながら言葉をこぼしていた。
その男は執務机に片肘をつき、目の前に散乱する膨大な数の紙片にうんざりとしながら、海青色の瞳を隣に立つ侍女に向けている。
「アイシャ、この紙はもう少し減らないのか」
「減りません」
「……」
「ハーシム様がお手を動かさないかぎりは、減りません」
「……はあ」
ハーシム=クード=レミューゼは、隣で自分を見張るように立っていた侍女アイシャに、また暗鬱としたため息を返した。
「それにしても――今回も結果的にはムーゼッグに一歩先を行かれていたわけだ」
ハーシムはアイシャが自分のため息をまるで意に介さず、淡々と紙片を整理しはじめたのを見ながら、いったん椅子を後ろに引いて言った。
「――ムーゼッグはおれたちよりも先に〈魅惑の女王〉が魅魔であることを突きとめていた」
「……はい」
ふとハーシムが口にした言葉に、アイシャが短く相槌を打つ。
「大国、大軍、それを支える諜報集団。国家の地力というのはいたるところに表れるな」
「ですが、今回は一矢報いました。――いえ、今回も」
「いや、今回は、で合っている」
アイシャの言葉をすぐにハーシムが訂正した。
「前回の戦における一矢は、おれたちの一矢ではない。あれは『魔王たちの一矢』だ。……それと、フリードマンたちの。おれは言うほど大きなことはできなかった」
ハーシムは椅子を少し回して、自分の後ろに開いていた窓の外へ視線を向ける。その窓から見える景色の中には、きれいな緑色の光子を放つ大星樹と、その大星樹に守られるように抱かれている星樹城があった。
「だが、今回はしてやったぞ。少しは借りを返してやった。あとどれだけ返せばいいかわからんがな」
「メレア様は『お互い様だ』、と言うのではないでしょうか。あの方は恩を笠に着る方ではないでしょうし」
「あいつが言わなくてもおれがそう感じるんだ。いっそわかりやすく笠に着られるよりこっちの方が心にくるぞ。しかもあいつ、これからもっと手柄を立てそうでおれをヒヤヒヤさせる」
そう言いながらも、ハーシムがほのかな笑みを浮かべていたことにアイシャは気づいていた。そこには苦笑も混ざっているが、決して嫌悪的な笑みではない。
「まあともかく、今回は結果的にムーゼッグが優秀であったことが功を奏したな」
「はい。手柄を横取りするようでしたが、良く言えば今回は密偵戦に勝った、というところでしょうか」
「おれはお前にも頭があがらないよ、アイシャ」
不意にハーシムはアイシャの方を振り向いて言った。
「〈魅惑の女王〉が魅魔であることを突き止めたのはお前でもあるからな」
「いえ、それを突きとめたムーゼッグから『引きだした』だけです。――彼らはたしかにとても大きな集団ですけれど、案外脇は甘かったようで」
アイシャは珍しくその淡々とした表情の中に妖しい笑みを浮かべた。
ハーシムの世話をする優秀な侍女でありながら、裏ではレミューゼの密偵団の長としてたぐいまれな才能を発揮している彼女の、その裏側の表情が今の笑みには表れていた。
「ですが、逆に言えば、私たちに流れてくる程度の情報だった、という考え方もできます」
「疑い深いとなにかと大変そうだ」
「真面目な話です」
「ハハ、わかっているとも」
ハーシムは「悪かった」と手を振って、襟を正す。
「たしかに、やつらが優秀だと知っているからこそ、そういう考え方もできる。なら、やつらが本当に大事にしている情報は? ヴァージリアの周辺でやつらの密偵がコソコソしていた本当の狙いはなんだ」
「……わかりません」
アイシャは頭を垂れて答えた。
ハーシムは「気にするな」とまた手を振った。
「北大陸の勢力との交戦がいったん終わった可能性がある。これはおれの予測だ。キリシカが率先して様子を窺っているが、まだそれらしい情報はない。だが、ムーゼッグがあえてヴァージリアに近寄ったことに、答えの断片がある気がするのだ」
「それは?」
「いかにムーゼッグといえども、北大陸の勢力と苛烈な戦争をしている最中に、有力者の集まるヴァージリアに手を出そうとはしないだろう。ほかの有力者たちを刺激すれば、そこからまた新しい戦がはじまりかねない。まあ、ムーゼッグとしては、ただ戦争するのであればまったく構わないだろうが、さすがにほかで激戦をしている中で同時進行というのは面倒だ」
「では、今回ヴァージリア周辺でムーゼッグの密偵がいたのは――」
「それがつまり、すでに北大陸の勢力との戦争を終えている可能性がある、ということの根拠だ。すべて終えているとは言わないまでも、手が空くくらいには余裕ができたとか、そんなところだろう」
「それで、魅惑の女王に手を伸ばしたと?」
「いや、それならもっとうまくやる。だからおそらく、『本当の狙いは別にある』。ゆえに魅惑の女王関連の情報は脇が甘くなった」
「それこそハーシム様の深読みでは?」
アイシャが小さく首をかしげて言った。
「おれは『敵として』ある意味ムーゼッグを信用している。セリアスの父、現ムーゼッグ王の狡猾な手腕をな。正直言って、即位中にムーゼッグをここまで大きくしたあの男が、そう簡単に本命の情報を漏らすとも考えられんのだ。お前の腕を疑っているわけではないのだが」
ハーシムは少しアイシャに申し訳なさそうな顔をするが、アイシャはまったく構わなかった。
「メレア様たちに何もないとよいですね」
「……そうだな」
ハーシムは再び執務机に肘をついて、思案気に机の上の紙片を眺めはじめた。
その表情は少し、心配そうにも見えた。
◆◆◆
シーザーはレミューゼ王〈ハーシム=クード=レミューゼ〉からの手紙を見て、ついに心の中の天秤を傾けていた。
まだ完全に話のすべてを信じたわけではないが、これだけの証拠を列挙されると、まったく信じないというわけにもいかない。
シーザーにはシャウの巧みな口車に対する耐性のようなものがあって、それゆえに心の中で『やすやすとは乗せられまい』と断固として思う側面があったが、その側面も着実な証拠の積み重ねに決壊寸前であった。
「――わかった」
「信じてもらえましたか?」
「……不本意ながら」
「素直じゃありませんねえ」
シャウは両手を広げて肩をすくめる。
顔には苦笑こそ映っているが、そこに悪感の表れはない。
「で、じゃあ、ボクがキミたちを信用したうえでの取引は――」
「簡単だ」
そこへサルマーンが口を挟んだ。
サルマーンは人差し指を立てて、シーザーに提案する。
「魅惑の女王を、助けさせろ」
またなんとも奇妙な言い回しだとシーザーは思った。
『助けさせろ』
あるいは聞く者が聞けば、それは傲慢な物言いにも聞こえたかもしれない。
だが、殊、魅惑の女王ジュリアナ=ヴェ=ローナという魔王を対象としたとき、その言葉は傲慢とは程遠いものになる。
シーザーはサルマーンの言葉に、胸の中でじわりと温かいものが染みだしてくる感覚を得ながら、ゆっくりとうなずいた。
「……わかった。あの子はキミたちに任せる。でも、もし彼女をもう一度絶望の淵に追い込んだりしたら、ボクは絶対にキミたちを許さないから」
ジュリアナは現状に絶望しかけている。
むしろ彼女の境遇を思えば、完全に絶望していないだけマシですらあった。
◆◆◆
シーザーはジュリアナの境遇を知っている。
自分がサイサリスにとある事情で仕えはじめていくらか経った頃に、彼女を見つけた。
彼女は魔王という名の本質が変容した、あの『転換期』当時の英雄と似たような境遇にあった。
彼女は最初、自分が魔王などということを知らなかった。
ジュリアナが〈魅魔〉としての能力に目覚めたのは最近だったのだ。
それまでの彼女は、その美貌と、研鑽の積み重なった歌と踊りによって、ある小地方でそれなりに有名な歌劇役者をしていた。
――あのときの彼女は、無垢な美しさを備えていた。
しかし、そんな彼女は悲劇の台本の中にいた。
彼女の人生は、その瞳に魅魔の魔眼模様が浮かんだときから一変する。
生まれつき身寄りのなかった彼女には、しかし幸運なことに、そのとき家族がいた。つまり、『後から』家族が出来たのだ。彼女はある貴族の養女になっていた。
――あるいは、彼女の魔王としての力が〈魅魔〉のものでなければ、まだどうにかなったのかな。
人の精神に感応するタイプの魔眼は、とかく人の印象に悪い影響をもたらしやすい。
〈魅魔の魔眼〉に目覚めてから、彼女を取り巻いていた慈愛の流れは逆流した。
結果的にジュリアナは、その養父たる貴族から養子縁組を切り離され、領外に放り出された。
――彼もかばいきれなかったのだろう。
実を言えば、その養父本人はジュリアナの魔眼をさほど嫌っていなかった。
だが彼の領地に住む領民は、そうではなかった。
――いずれにしろ、人の心なんて簡単に変わる。
シーザーは人の心が移り変わりやすいことを知っている。どんなに親しくとも、人には疑ってかかるべきである。
シーザー自身もある事件を経て、強くそう思うようになっていた。
そしてジュリアナは、絶望の最中辺りを放浪した。
――口では説明できないほどのいろんな思いが、彼女の中にはめぐっていたはずだ。
彼女には最初、温かな繋がりがあった。
かえってそれが、彼女の絶望を増幅させた。
よく絶望のうちに死ななかったものだと、今でもシーザーは思う。
最終的にジュリアナは、元養父の領地周辺をうろうろとしているところをサイサリスに拾われた。
それは半分、偶然であった。
拾われたことそのものについてではなく、『サイサリスに拾われた』という意味で。
――もしかしたら彼女を拾うのは『ムーゼッグ』だったかもしれない。
サイサリスの方が彼女の力に勘付くのが早かった。
そうしてジュリアナは、サイサリスに飼われることになる。
実際には手を差し伸べただけだが、ほとんど『飼う』に近いものであることをシーザーは疑わない。
サイサリスは彼女の『魔王としての恐怖』を巧みに利用したのだ。
――まあ、たとえ断ったとて、最後には手を取らざるをえない状況をサイサリスが作っただろう。ジュリアナはあんな目にあっても、まだ元養父のことを思っていたから……。
彼女は優しすぎた。
ジュリアナは元養父たるあの貴族が、泣く泣く自分を犠牲にしたことに気づいていた。
結局彼は領民を取ったが、ジュリアナ自身は、自分が魔王としての力に目覚めてからも彼が自分を決して虐げなかったことに感謝していた。
――ボクにはキミみたいな考え方、絶対にできないよ。
シーザーは率直にそう思う。
どういう形であれ、自分なら自分を裏切った相手はもう信じられない。
たとえサイサリスに『あの貴族の領地を焼く』と言われても、「別にかまわない」とすら言っただろう。
彼女もまた、ある意味で馬鹿だったのかもしれない。
その打算的な頭の悪さを、いっそシーザーはうらやましく思った。
その羨望は一部『尊敬』に変わって、彼女に対する慈愛心にまで変化した。
――だから、そんな彼女をまた悲しませるのは、ボクが許さない。
許さないからといってなにができるわけではないかもしれない。
だが、言わないよりは言った方が良い。
その空虚な言葉が、少しでも彼女の身の安全につながるのなら――
◆◆◆
「もう一度言う。彼女を泣かせたら、ボクはキミたちを許さないからね」
シーザーは念を押すようにシャウとサルマーンに言った。
すると二人は襟を正し、まっすぐにシーザーの目を見てうなずく。
「それで結構」
「ああ、わかってる」
彼らの目は本気だった。
シーザーにはそれだけはよくわかった。
「忘れんなよ、俺たちも〈魔王〉なんだぜ」
「――そうだったね」
サルマーンの言葉にシーザーもまたうなずく。
「あの夜に金の亡者から聞いていたけど、そもそも半信半疑だったから失念していたよ」
「こいつの話に半信半疑でかかるのは正解だと俺も思うがな」
砂色の髪を掻き上げながら、困り顔でサルマーンが言った。
「ハハ。……なら、もしかしたらキミたちの方がジュリアナのことを理解してあげられるかもしれない」
「まあ、魔王ったって境遇はいろいろだ。簡単に理解できるなんて言わねえが、理解しようとすることを諦めたりはしねえよ」
そんなサルマーンの言葉を聞いて、シーザーはついに最後の納得を腹の底に落とした。
「うん。やっぱりジュリアナはキミたちに任せる。いずれにせよ彼女はそろそろ限界だった。心の弱い部分をつくサイサリスのやり方に、彼女は疲弊していた」
「そうか。――てか待て。お前さっきからサイサリスに微妙に敵対的な話しぶりしてっけど、お前はどこに立ってるんだ?」
どこに立っている。
その訊ね方には独特の響きがあったが、シーザーはそれをどういう意味であるか正確に捉えていた。
つまるところ、自分がどこの勢力に所属しているのか、という意味だ。
「サイサリスさ」
シーザーはすぐに答える。
「なのに、魅惑の女王をこうやって俺たちに渡しちまっていいのか? サイサリスからしたら痛手だろ? サイサリスがなにをしようとしてんのかはまだいまいちわかんねえけど」
「そうだね。痛手だ。――でも構わない。ボクはサイサリスの側に立っているけど、同時にジュリアナの味方だ」
そんな会話を二人がしているさなか、ただひとりシャウだけが、苦い表情を浮かべていた。
しかしそれは一瞬の表情で、サルマーンはシャウのその表情には気づかなかった。
「ふーむ。よくわかんねえけど、なんか複雑そうだな。もしそこがいづれえなら、シーザーもこっちに来るか?」
それはサルマーンの何気ない一言であった。
サルマーンの高い庇護心――簡単に言えば親切心や優しさからきた、ふとした一言だ。
「アハハ、それもまた魅力的だね」
シーザーはそのサルマーンの言葉に笑って返す。
だが――
シーザーは決して明確な肯定や否定の言葉は紡がなかった。
ただ笑ってやり過ごすように、シーザーは美貌に笑みを乗せているだけだった。
「――そうか。いや、なんでもねえ。今のは適当に聞き流してくれ」
そしてサルマーンは、シーザーの笑みの中に何かを見た。
だから今の言葉をはぐらかすように、当たり障りのない言葉を重ねた。
やはりシャウは、一瞬だけ苦い表情を宿していた。
「ともかく、今回キミたちが彼女の傍に来たのは奇跡だ。彼女にとってキミたちは救世主だった」
「まだ助け出したわけじゃねえ。安心はできねえだろ」
「そうだね。だからこれからキミたちに彼女を救出しやすいよう情報を与えよう。――キミたちの言う『取引』ってこういうことだろう?」
本題に戻すようにシーザーが言った。
サルマーンはその言葉を肯定するような沈黙を浮かべ、いくらかの間をおいてから口を開いた。
「そうだ。お前にもなにか益があればそれが一番だが――」
「あるよ。ジュリアナがより幸せになれるような居場所に移ることができるのなら、それがボクにとっての益だ」
シーザーのまっすぐな言葉に、またサルマーンの口から「やっぱりお前はこっちにこい」という言葉が出かかる。それだけジュリアナを思っているなら、一緒に来るべきだと思った。
しかし、さきほどの得も言われぬシーザーの対応が頭の隅をよぎって、やはり言葉はすらすらと出てこなかった。
「シーザーがこう言うんですから、ひとまずそれで良しとしましょう」
と、シャウがそこでようやく口を挟んでくる。
「さほど悠長にしている暇もありませんから、まずは情報です。メレアたちもまだ動いているところですし」
「ああ、そうだな」
シャウの提案に合わせ、サルマーンも思考を切り替えた。
「シーザー、今回サイサリス勢力はどの程度ヴァージリアに?」
シャウは机の上で手を組んでシーザーに問う。
表情は至極真面目なものだった。
「五、六十ってところかな。加えて、思ったよりヴァージリアでの教化がうまくいってるから、追加要員が送られてくるって話を幹部たちから聞いたよ」
「となると、数はさほど問題ではありませんね」
『ムーゼッグの軍隊をたったひとりで追い返すくらいなら、間違いなく問題ないだろうね』シーザーがシャウの素早い判断に対し、そう言って苦笑した。
「しかし、場所が場所だ。ここは街中です。ヴァージリアは入り組んでいますし、私たちもあまり街の事情にくわしくない。ネズミのように逃げ回られてはかえってやりづらい」
シャウはそう続けながら、突如、なにかに勘付いたように目を丸めた。
「――」
シャウはあきらかな停止を見せた。
直後。
その顔が不機嫌そうに歪む。
「――失念していた」
いったい何が、とサルマーンとシーザーが同時に眉をひそめた。
シャウの思考は自分たちよりずっと素早く動くだろうという確信があって、二人は特に予想したりもせず、シャウの次の言葉を待った。
「サイサリスが今回こういうやり方をしていることを知った時点で、その可能性にも気づいておくべきだった」
やはりシャウの言葉は判然としない。
だが、
「もし、その五、六十の中に、『ほかの魔王がいたら』――」
次にその口から放たれた言葉を聞いて、サルマーンはシャウの言わんとすることに遅れて気づいた。
そしてサルマーンは、シャウの言葉に続けるように、少し焦燥を含んだ声で言った。
「――メレアは、手を出せないかもしれない」
「えっ? ど、どういうこと?」
シーザーだけはまだ二人の言わんとすることがわからなかった。
二人の抱いた予想は、あのリンドホルム霊山からずっと傍でメレアを見てきた者にしかわからない、ある種とてもばかばかしい予想だった。
だが、サルマーンとシャウは知っていた。
「……あいつのやろうとしていることは、そもそもが馬鹿げてるんだよ。人に『それは無理だ』『綺麗事だ』って笑われるくらい、馬鹿げてるんだ。でもたぶん……あいつはそれをギリギリまでバカ正直に追う。たとえ、自分の身が傷つこうとも」
「ただの外傷。それだけだったらむしろいいです。そもそも普通の戦闘で、メレアが負けることなんて私には想像できませんし。そこは心配してません。――ですが」
最後にシャウが言った言葉が、シーザーの脳裏にやけに残った。
「世の中にはひどく狡猾に、相手の心を弄ぶ輩がいるんです。メレアは意志が強い。むしろその意志の強さが――弱点になりかねない」
その言葉のあと、シャウとサルマーンは同時に立ちあがっていた。





