最終話 真夏の夜の終わりに
高橋と三雲の車が神社の駐車場へと滑り込んだのは、夜の十時を過ぎた頃であった。
車を降り、三人が神社の古い鳥居をくぐると、暗闇の中にぽつりと社務所の灯りが見えた。
駐車場に車が止まる音を聞きつけたのだろう、入り口には高橋の妻である志保が立ち尽くしていた。
彼女は三人の姿を認めると、張り詰めていた糸が切れたようにホッとした表情を浮かべた。
「ただいま」
高橋が低く疲れた声で志保に声をかけた。
高橋、竹宮夏美、そして三雲の三人が社務所に入り、応接のソファに深く体を沈めると、志保は何も言わずに温かいお茶を淹れて差し出した。
「志保さん、電話をしてくれてありがとうございました」
湯気の向こうから、三雲が静かに言った。
実は高橋が斎服に着替えていたとき、裏で志保にこれまでのいきさつを急いで説明し、三雲に助けを求める電話をかけるよう頼んでいたのである。
高橋はお茶を一口すすると、重い口を開いた。
「京さん、今日は本当にありがとう。本当に助かった……。夏美ちゃんに悪霊が憑いて、もう私の祓いなんかじゃ、どうにもならないところだったんだ。あのときは八方塞がりで、体力も限界だった。だから、斎服の袖に入れていた携帯電話が震えたときは、直感で京さんだ! と分かったよ。それで、トイレに駆け込んで状況を説明したんだ。だが……結果的に、あなたにあれほど拒んでいた除霊をさせてしまったこと、どうか許してくれ」
高橋はそう言うと、三雲に向かって深く頭を下げた。
「高橋さん、頭を上げてください。私も、除霊というものに対して、少しこだわりを持ちすぎていたのかも知れません」
三雲は表情を変えずに答えた。
「今回の夏美さんのことで、自分なりのけじめができました。ただ、大切な人を助けたい。純粋にそれだけです」
二人の会話を横で聞いている夏美には、高橋と三雲が一体何の話をしているのか、すぐには理解ができなかった。高橋はふと思い出したように、三雲に質問を投げかけた。
「そういえばあのとき、悪霊に取り憑かれていた夏美ちゃんの耳に、あなたは携帯電話をあてていたね。一体、何を話していたんだい?」
三雲は眼鏡の奥の目を少し細めて説明した。
「夏美さんが手首に付けていたミサンガの、守り神に話しかけていました。私が祓いを行うときに、宿主……つまり夏美さんの身代わりになるようにと。『あなたの大切な人を護りなさい』と、そう伝えていたのです」
その言葉を聞きながら、夏美の頭の中で、バラバラだった記憶の点と点が一本の線に繋がり始めていた。あの部屋で聞いた、もう一つの優しい声の主が誰だったのかを。
三雲の話を聞きながら、夏美はふと違和感を覚え、自分の手首に視線の端を落とした。そこにあるはずのミサンガが、綺麗さっぱり消え失せていることに気がついた。
彼女の視線に気づいた三雲は、静かな声で言った。
「夏美さん。ミサンガは、貴女を護ることができて嬉しかったと、そう言っていましたよ。それから、今回のことで、あのミサンガをこの世から消滅——昇華させてしまったこと、どうか許してください」
夏美は、三雲のどこか申し訳なさそうな態度を見て、優しく首を振った。
「三雲さん、そんなこと言わないでください。今回のこと、私も本当に感謝しています」
夏美はそう言って、少しだけ微笑みながら、三雲に向かって丁寧に会釈をした。お茶が少し冷めてきた頃、高橋がふと思い出したように話し出した。
「そういえば京さん、ちょっと聞きたいのだけれど……黒沢社長の家は、もう本当に大丈夫なんだろうか?」
三雲は湯気の消えた湯呑を見つめたまま、淡々と答えた。
「大丈夫です。あの家は完全に浄化されました。もともと、大体の穢は夏美さんがその身を挺して祓ってくれていましたからね。それで——これはあくまで私の見立てですが、あの怪異、半分は黒沢社長自身が作り出したモノだと思いますよ」
高橋は「黒沢さんが?」と、怪訝そうに眉をひそめた。
三雲は静かに言葉を続けた。
「元々あの土地には、誰のものともつかない負の部分、つまり、欲や嫉妬、傲慢といったどろどろとした感情が渦巻いていました。それが、ちょうど黒沢さんという、利害の一致する人物の心に宿った。すべてはそこからはじまった現象です。しかし、器である黒沢さんの心の中だけでは、穢の側の欲望は満足できなくなってしまった。結果、あの家の外へと溢れ出たエネルギーが、あのような恐ろしい霊障となって表れたのでしょう」
高橋は腕を組み、深く納得したように頷いた。
「なるほど、そういうことか。人の心の隙に、土地の悪意がはまり込んでしまったわけだね」
三雲はさらに事実を付け加えた。
「ただ、今回の事件と引き換えに、黒沢さんは以前のような、おぞましいモノを感じとれる体質ではなくなりました。これからはもう、黒沢さんの不動産会社から、おかしな曰く付き物件の相談が持ち込まれることもなくなるでしょう」
高橋はそれを聞いて、どこか呆れたような、しかしホッとしたような苦笑いを浮かべた。黒沢の持つ妙な霊媒体質には、これまでも何度か振り回されてきたからであった。
やがて、高橋は隣に座る竹宮夏美に視線を向け、悪戯っぽい顔をして話し出した。
「最後に、夏美ちゃんに一つ、いいことを教えてあげるね」
「えっ、何ですか?」
夏美が不思議そうに聞き返すと、高橋は声を潜めて笑いながら言った。
「今日、意識を失った夏美ちゃんを優しく抱きかかえて、一階のソファまで連れていってくれたのはね……そこの三雲さんだよ」
その言葉が耳に届いた瞬間、夏美の顔は耳の付け根まで真っ赤に染まった。あまりの気恥かしさに、彼女は両手で顔を覆い、うつむいてしまう。
そんな竹宮夏美の分かりやすいリアクションを見て、高橋も、志保も、そしてどこか居心地の悪そうな三雲までもが、つられて声を上げて笑った。
社務所を包む温かな笑い声は、今度こそ本当に、真夏の夜の悪夢が去ったことを告げていた。
おわり
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました!
今作『禊祓師』は、私にとって初めて投稿した小説作品となります。
手探りでの執筆となり、至らない点も多々あったかと思いますが、最後まで走り抜けることができました。
物語や雰囲気を少しでも楽しんでいただけたなら、心より感謝申し上げます。
本当にありがとうございました!




