第1話 深夜の地鎮
お初にお目にかかります。
溶けた犬と申します。
初投稿故、ご容赦ください。
不慣れな点もあるかと思いますが
精一杯書き進めてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
――八月の夜気というのは、どうしてこうも粘つくのだろう。
深夜の二時半を回った頃である。
生きものの息吹きがぷっつりと途絶える、しんと静まり返った閑静な住宅街。
その一画に、ぽっかりと空白が口を開けた敷地がある。
周囲を取り囲むのは、経年で薄汚れた「建設予定地」の看板と、境界を峻別するように張り巡らされた黄色い立ち入り禁止のロープ。
それだけが、そこが人の領分であることを辛うじて主張していた。
その静寂を、滑るように破って現れた車影があった。
九十年代の、無骨にして奇妙な愛嬌を持つルノー・4である。
車輪の音も低く、ヘッドライトを消したその鉄の塊は、闇に同化するようにして敷地に面した公道の脇に停まった。
運転席の扉が開き、男が降り立つ。
暗がりの中にあっても、その存在は異様だった。
長髪を後ろで一本にきつく結わい、身に纏うのは夜の闇をそのまま切り取って仕立てたような漆黒のシャツと、同色のスラックス。
男は一切の気配を殺したまま、迷いのない足取りで車のトランクへと回り、それを開けた。
中から取り出されたのは、大小様々、時代を吸い込んで煤けた木箱の群れである。
男はそれらを厳かに両腕に抱えると、件の黄色いロープを、まるで初めから存在しないかのように易々と潜り、敷地へと足を踏み入れた。
敷地の中央――
澱んだ陰気が最も色濃く渦巻くその中心点に、男は持ち込んだ木箱を素早く、しかし理路整然と組み上げていく。
瞬く間に、そこには小ぶりな、だが確かな威容を持つ祭壇が設えられた。
配置を終えた男は、胸の奥底で深く息を吸い込み、次の瞬間。
「――カーン!」
と、乾いた、しかし鼓膜を直接震わせるような峻烈な音。
まるで、拍子木を打ったような甲高い音が鳴り響いた。
男が柏手を打ったのだ。
劇的な変化は、その刹那に訪れた。
敷地の境界線に沿って、大気が不自然に歪み、目に見えない半透明の「壁」が立ち上がったのである。
そこは瞬時にして外界から切り離された。
音も、光も、因果さえもを通さぬ、厳然たる結界が張られたのだ。
◇
――折悪しく、敷地沿いの公道を、千鳥足のサラリーマンが通りかかったのはその時分であった。
「うおっ!?」
静寂を引き裂いた突如たる音に、酔っ払いは大仰に肩をすくめ、不審げに敷地の方へ視線を巡らせた。
だが、見えない。
彼の泥酔した眼裏に映るのは、ただの、どこにでもある暗い敷地の風景に過ぎなかった。
結界の向こう側で今、何が起きようとしているのか。
凡庸なる人間の目には、それを捉える網膜も、認識する脳髄も持ち合わせてはいないのである。
サラリーマンは気味悪そうに首を傾げ、身震い一つ置き去りにして、再び夜霧の彼方へと消え去っていった。
◇
誰の目にも触れぬ、隔絶された結界の内部。
そこで、男の「神事」が静かに幕を開けた。
男の薄い唇が微かに動き、低く、地鳴りのような祝詞が紡ぎ出される。
独特の抑揚、呪術的な音韻が敷地を満たしていく。
すると、足元の土壌が、まるで融解したように蠢き始めた。
ズブズブと音を立て、地面の至る所から、黒く細い棒状の「何か」が這い出てくる。
それは、意思を持った無数のミミズのようであり、あるいは地底に封じられた怨念の触手のようでもあった。
それらがウネウネと狂おしくのたうち回り、大気を穢していく。
しかし、男の視線は微動だにしない。
祝詞の声を微かも途切れさせることなく、その指先が、流麗にして複雑な印を結んでいく。
「――滅」
男の口から放たれた言霊、そして不可視の力が敷地を奔った。
のたうち回っていた黒い蠢きは、断末魔をあげる暇さえ得られず、一瞬にしてその輪郭を霧散させ、ただの塵となって虚空に消滅した。
だが、これは前触れに過ぎない。
怪異の本番は、ここからであった。
男は小さく息を整えると、今度は先程とは全く異なる、より重々しく、より禍々しい響きを帯びた、別の祝詞をあげ始めた。
言葉の一つひとつが質量を持ち、敷地の空気をねっとりと圧殺していく。
突如、敷地の真ん中が、巨大な生き物の背中のように大きく盛り上がった。
バキバキと乾燥した土が引き裂かれ、その亀裂の奥底から、信じ難いものが姿を現した。
巨大な、黒い玉である。
それは光を一切反射せぬ、底なしの暗闇を凝縮したかのような悍ましい質量塊であった。
表面はどろどろと波打ち、真夏の夜であるというのに、周囲の熱を根こそぎ吸い取るような悍ましい冷気を放っている。
男は祝詞を読み続けながら、一切の怯えを見せることなく、その不気味に蠢く黒い玉の芯へと、躊躇なく自らの腕を差し込んだ。
男の拳の中には、あらかじめ何か「秘められた物」が握り締められていた。
黒い玉の最深部、その核において、男は拳を開いた。
己が掌中にあった何かを、その闇の深淵へと捧げたのだ。
変化は、一瞬であった。
黒い玉の内部から、爆発的な反転が起きた。
泥のようだった漆黒が、内側から洗い流されるようにして、純白へと染まっていく。
白変化した玉は、八月の夜の闇を悉く圧殺するほどの、神聖にして圧倒的な光を放ち始めた。
それは敷地全体を、一切の穢れを許さぬ浄化の波動で満たしていく。
眩いばかりの光を放ちながら、その白い玉はゆっくりと、しかし抗いがたい力で、今度は吸い込まれるようにして、再び地底の奥深くへと沈み込んでいった。
光が完全に消え去った後には、ただ、夜風に揺れる夏草のそよぎと、熱を帯びた敷地の静寂だけが、何事もなかったかのように残されていた。
男は静かに結界を解くと、手際よく祭壇を片付け、再びルノー・4のエンジンを始動させた。
排気音が夜の闇に溶けていく。
そこにはもう、ただの敷地があるだけだった。
――丑三つ時の出来事であった。




