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第11話 湖の精霊

 次の瞬間、湖全体が大きくうねり始めました。

 湖の底から低く唸るような音が響きます。


 次から次へと水が溢れ、川へ流れ込んでいきました。

 それに伴ってどんどんと流れが速くなっていきます。


「お願い!やめてよ!」





 その頃、町でも人々が異変に気づき始めていました。


「おや?ずいぶん川の音が大きいな」


 川の近くにいた人が、足を止めて川を見つめます。

 いつもなら穏やかに流れている川の水が、今は勢いよく流れていました。


 川は、少しずつ水かさを増していっているように見えます。


 アルベルトも町の中で足を止め、人々と川の様子を見ていました。


「なんだ?こんなこと今まで……」


 何かがおかしい――。


 そう思ったのは、アルベルトだけではありませんでした。


「上流で何かあったのかしら?」


 農家のおかみさんがぼそりとつぶやきます。

 それを聞いた町の人々は、同時に森の方へ目を向けたのでした。


「……ウンディーネ?」


 アルベルトも人々と同じように森の方を見ます。

 胸の奥に、言葉にできない不安が広がっていきました。


 その時です。


「きゃあっ!」


 誰かの悲鳴が響きました。

 振り返ると、川の水が岸を越え、町へ流れ込み始めています。


「みんな川から離れて!とりあえず僕の屋敷へ!!」


 アルベルトは声を上げ、近くにいた人たちを安全な場所へ誘導します。

 その間にも、水は次から次へと町の中へ溢れてきています。


「お坊ちゃま!!離れてください!!」


 じいが使用人たちを引き連れて、土のうを持ってやってきました。

 けれど、いくら土のうを積もうと水は止まりません。

 むしろ、どんどん勢いを増していました。


 アルベルトは人々を誘導しながら、ふたたび森へ振り返ります。


「ウンディーネ……」








 その頃、湖では――。


「……!」


「おっと、その身体で湖には入らない方がいいですよ」


 ニクスは相変わらず不敵に笑っています。

 ウンディーネは手だけを湖につけ、力を使おうとしますが、湖はちっとも答えてくれません。


「うう……どうしよう……。何か……」


 辺りを見回してみますが、周りは大荒れの湖と川、そして森の木々しかありません。

 ニクスを止められそうなものはなさそうです。


 すると、どこからか声が聞こえてきました。


「ウンディーネー!」


「!!」


 荒れ狂う湖の景色にはそぐわない、優しい風がウンディーネの頬をなでました。


「シルフ!!」


「ウンディーネ、やっぱり君なんだね」


「湖の様子が気になって来てみたの」


 二人のシルフは、ウンディーネの周りをくるくると周ります。


「シルフ、町は……アルベルトは大丈夫なの!?」


「川の水が町に流れはじめてるよ」


「だからみんな一番大きな建物に集まってるよ」


「一番大きな……アルベルトの屋敷だわ!よかった……」


 ウンディーネはほっと胸をなでおろしますが、状況は変わりません。


「このままじゃ町が……!」


「ウンディーネ、シルフ達の精霊の力を使って」


「えっ!?」


「その力を使って湖を……」


 シルフ達は左右に分かれると、ウンディーネの両側へ飛んでいきました。

 そして、それぞれウンディーネの右手と左手をそっと握りました。


「ダメ!そんなことをしたらあなた達は……!」


 ウンディーネの手に、じりじりと何かが流れ込んでくる感覚がしました。










「ああ……そんな……」


 気が付くと、シルフの羽だけがウンディーネの手のひらに残され、やがてそれも波が砂をさらうようにさらりと消えてしまいました。


「シルフ……!」


 ウンディーネの頬を、涙が次々と伝っていきます。


「あら、無駄なことを……」


 ニクスが鼻で笑ったのを見て、ウンディーネの感情が爆発します。


「許せない……!」


 ウンディーネは勢いよく湖に飛び込みました。


「そんなことをして大丈夫ですか?」


「……!」


 シルフ達の力のおかげでしょうか、ウンディーネは波に飲まれることなく水の中を自由に動くことができます。


「ああ、ウンディーネ。シルフ達の行動は本当に無駄になりましたね。私を止めるにはまだ足りない」


 ニクスが大きな波を作り出し、ウンディーネにぶつけます。

 ウンディーネは抵抗しますが、すぐに波に飲まれてしまい、枯葉が渦に巻き込まれるように、全身が上下左右に揺さぶられました。


「きゃああっ!」


「いいですね、ウンディーネ。今、あなたは私が最も好きな表情をしている!」


 ウンディーネは激しい波に飲まれ、必死にもがきます。

 ニクスは、そんなウンディーネを見下ろすように笑いました。


「シルフ達の力を借りても、今の私には敵わない!」


「……」


 やがてウンディーネは動くのを止め、ニクスの言葉を聞いても何も答えず、ただじっとニクスを見つめているだけでした。


「……どうやら、もう諦めたようですね。もう楽にしてあげましょう……」


 ニクスはゆっくりとウンディーネへ近づいていきます。

 ウンディーネは逃げもせず、その場で力無く浮かんでいます。

 ニクスは、ウンディーネのすぐ目の前まで来ると、満足そうに笑いました。


「これで、湖も町も終わり――」


 その時でした。

 ウンディーネが、ニクスへ向かって手を伸ばします。


「……え?」


 ニクスの水でできた身体の中に、ウンディーネの手が入り、ウンディーネの力とニクスの力が混ざり合っていきます。


「お前……!まさかシルフと同じことをっ!?」


「ええ……!でも、少し違うわっ!」


 次の瞬間には、ニクスとウンディーネの姿が曖昧となり、溶け合うように融合します。

 すると、激しく荒れていた湖が、少しずつ静かになっていきました。


 川へ流れ込んでいた水も、次第に勢いを失っていきます。

 やがて、湖は何事もなかったかのように静かな水面を取り戻しました。

 そこにはもう、ウンディーネの姿も、ニクスの姿もありませんでした。








「見て!!川が!!」


 誰かが屋敷の窓から指を指します。

 川の流れは、いつの間にか普段の穏やかさが戻っていました。


 それを見た人々から、安堵の声が聞こえてきます。

 アルベルトもひとまず安心はするものの、心の片隅に引っかかるものを感じていました。


「……っ!」


「あ!お坊ちゃま!どこへ!!」


 じいの静止を振り切り、アルベルトは屋敷を飛び出しました。

 夢中で駆け出し、森への入り口まで着くと、どうしてかそばを流れる小川がふと気になりました。

 戸惑いながらも駆け寄ると、川の底に何か光るものを見つけました。


「あれは……!」


 急いで拾い上げると、それはアルベルトがウンディーネに贈ったペンダントでした。


「どうして……これが……」


 アルベルトはペンダントを震える手で強く握りしめました。

 ウンディーネが大切そうに身につけていたもの。

 それがどうして川の底にあるのか――。


「ウンディーネ……!」


 アルベルトはペンダントを握ったまま、森の奥へと走り出しました。


 湖は、いつものように静かで、相変わらず豊かで美しい水をたたえています。


「ウンディーネ……?」


 アルベルトは辺りを見回します。 けれど、ウンディーネの姿はどこにもありません。


「ウンディーネ……いるんだろ?」


 いくら待っても、返事は返ってきません。





「……お祭り……一緒に行こうって……」




 手の中のペンダントを握りしめ、その場に膝をつきました。


「約束だったじゃないか……」


 アルベルトの頬を、涙が次々と伝っていきました。

 何度も何度も拭っても、その涙は溢れて止まりませんでした。




 それから数日後のことです。

 祭りの音が、遠くから聞こえていました。


 アルベルトは人々の輪から離れ、湖を見つめていました。


「……今日は、お祭りの日だよ」


 アルベルトの隣にはやはり誰もいません。


「待ってるから……ずっと……」


 アルベルトの胸元には、ウンディーネのペンダントが光っていました。







 あれから長い年月が流れました。


 川の異変以来、人々は精霊をすっかり見かけなくなりました。

 今はもう、精霊が存在していた事を知る者はいません。




「母さん!早く早く!」


 森の中に、男の子の声が響きます。


「落ち着いて。慌てなくても湖はなくなったりしないですよ」


 その後から優しそうな母親の声も聞こえてきます。


「だって、早く着いたらそれだけ長く湖にいられるじゃない!」


「本当にこの子は、湖が大好きね――」






 湖は今も静かに澄んだ水をたたえていました。

 風が湖面を撫でるたび、水面には小さな波紋が広がります。


 そこには、かつて人間と心を通わせた水の精霊が暮らしていたことなど、誰も知らないまま――。

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