第1話 水の精霊と人間
それはまだ、人間が精霊という存在を見ることができた頃のお話――。
とある所に、豊かな森と水に囲まれた町がありました。
森の奥には、美しい水をたたえる湖があり、人々はそこを『禁足地』と呼んで、神聖な場所として大切にしてきました。
その湖の清らかな水は、町を流れる川となり、人々の暮らしを支えていました。
川の水はどこまでも澄んでいて、飲めば喉を潤し、畑に注げば作物を豊かに実らせました。
人々は、そんな恵みを与えてくれる湖を決して汚してはいけないと考え、森の奥へ立ち入ることを固く禁じたのです。
そして、町にはこんな言い伝えがありました。
――あの湖には、水を司る精霊が棲んでいる――
その精霊が湖を守っているからこそ、水はいつまでも清らかなのだと。
人々は湖へ近づくことなく、ただ遠くから感謝を捧げていました。
湖の水が美しいのも。
町に豊かな水があるのも。
すべては、そこに棲む一人の水の精霊――ウンディーネのおかげだったのです。
「ウンディーネー」
「聞いて聞いてー」
そう言って湖に飛んできたのは、二人の風の精霊シルフでした。
二人で一生懸命、全く同じ声とリズムで水面に向かって声をかけています。
すると、静かだった水面が波打ち、やがて水が人の形を成していきます。
「シルフ!今日も人間の所へ行ったの!?早く聞かせて!」
水底のように深く青い瞳を輝かせ、ウンディーネはシルフに話をせがみます。
シルフ達は自由自在に空を飛び回って人間の暮らしを見て、それをウンディーネに話すのがお決まりです。
「女の子が転んで泣いてたよ」
「あの家の夫婦に子どもが生まれたよ」
「凄い!人間の暮らしってどんな感じなんだろう……!私もいつか……」
シルフの話を聞いて、ウンディーネはいつも人間への思いを馳せていました。
「ダメだよウンディーネ、君がいなくちゃこの湖はあっという間に淀んでヘドロ溜まりになってしまうよ」
「そうだよ、ウンディーネがここにいるから森の仲間や人間達が暮らしていけてるんだよ」
シルフ達はウンディーネを引き止めます。それを聞いて、叱られた子どものようにウンディーネはうつむきました。
「うん……。わかってるけど……」
「そんな事よりウンディーネ、また人間が森の掃除をする時期だよ」
「もう?早いなあ」
町とこの湖を隔てる森には魔物が住んでおり、人間達は年に一度、町の安全の為に森の魔物を一斉討伐するのです。
森に棲む精霊達はそれを『森の掃除』と呼んでいたのでした。
「なんかいつもより準備が盛大だったんだよね」
「どうしてなのかな?」
「でもこれでしばらくはまた静かになりそうだよね」
ウンディーネ達が人間の話で花を咲かせていると、フワリと柔らかい風が水面を撫でました。
「じゃあウンディーネ、そろそろ行くね」
「また人間の話をしにくるよ」
シルフ達はそう言って風に乗って大空へ飛び立っていきました。
次の日の事です。
水底で水面をただ眺めていたウンディーネは、湖の周囲がなにやら騒がしい事に気が付きます。
「なんだろう?シルフ達が来るのはもう少し先なはずだけど……」
水面に近づくにつれ、バウバウと狼が獲物を吠え立てる声が聞こえてきます。
ウンディーネは、そっと水面から顔を半分だけだして辺りを見てみました。
「うっ!!」
声がする方を見てみると、派手な装飾が施された鎧に身を包んだ青年が、森の厄介者である三匹の黒狼に襲われている最中でした。
次々と襲い来る鋭い爪と牙にやられ、青年は傷だらけになっています。兜も失っているようで、額には血が滲んでいました。
「あれが人間!?どうしよう……助けたいけど、姿とか見られてもいいのかな……」
ウンディーネが迷っていると、一匹の黒狼が青年に飛びかかります。
「――!!」
青年は首を守ろうと身体をひねると、そのまま肩に噛み付かれてしまいます。すると、よろけて木に頭を強打してしまい、そのまま動かなくなってしまいました。
黒狼はトドメを刺すつもりか、三匹がじわりじわりと距離を詰めます。
「ダメ!!」
たまらずウンディーネは水面へ飛び出します。
湖全体も大きくうねっており、やがてそれは水の竜巻となっていきました。
「いっけー!!」
水の竜巻が三匹の黒狼に向かっていき、そのまま飲み込み巻き上げられ、何度も宙を舞います。
やがて竜巻が消えると、黒狼は地面に倒れ伏していて、ピクリとも動きませんでした。
「た、助けられた……けど……」
ウンディーネがその様子を呆然と見ていると、突然声をかけられました。
「あの、危ないところをありがとう……!」
振り返ってみると、いつの間にか青年は目を覚ましており、ウンディーネの方をしっかりと見つめています。
「ところで君は……?」
「……あ……」
ウンディーネが何を言おうか迷っていると、遠くの方から声が聞こえてきました。
「お坊ちゃまー!アルベルト坊ちゃまー!!」
声と同時にガチャガチャと金属音も聞こえてきました。
ウンディーネは慌てて水面に紛れて姿を隠します。
「あ、待って!」
少しすると、眼鏡をかけた白髪の男性が、息を乱しながら走ってきます。
細身の体型に見合わない大きな鎧を着込んでおり、ずいぶんと動きづらそうです。
老人はアルベルトと呼ばれる青年に駆け寄ります。
「お坊ちゃま!よくぞご無事で!」
「じいか……」
アルベルトは放心状態で力無く答えます。
「危のうございましたな。しかし驚きましたぞ、初陣で黒狼を三匹も仕留めるとは!じいは嬉しく思います!」
老人がどこからか取り出したハンカチで涙を拭います。
それに対してアルベルトは、老人の方を見もせずただじっとウンディーネが消えた水面を見つめて言いました。
「いや……違う」
「え?」
「精霊様だ……」
「精霊様、ですか?」
「うん、精霊様が助けてくれた……」
「なるほど……!それはきっと、お坊ちゃまの普段の行いが良いからでしょうなあ」
老人は嬉しそうにそう言って、眼鏡の位置を直します。
「さあ、お坊ちゃま、ここは禁足地ですので。早く町へ戻りましょう」
「……ああ」
老人に促され、アルベルトは何度も湖を振り返りながら、その場を後にしました。
ウンディーネは二人の姿が森の向こうへ消えていくまで、面に身を隠したままじっとその背中を見つめていたのでした。
「あれが……人間」
初めて間近で見た人間。
初めて声を聞いた人間。
そして――初めて自分の姿を見た人間。
ウンディーネの心は、高揚感でいっぱいになっていました。




