9.棘の傷跡
「危なかったね。もう、出てきて大丈夫だよ」
少し引き攣ったような笑みのアレクが、端っこに座り込んだ私をフワッと抱き上げた。シーツに包まってるせいで、上手く身動きが取れないのを良いことに、いたずらなアレクが遊んでくる。
「ちょっ、お仕事は良いんですか?」
「ん? もう終わったから平気だよ。ほら、早く充電させてよ。あぁ〜……温かくて、柔らかい」
「そんなとこっ、くすぐったいです」
露わになる肌に、何度もキスをしてくれる。優しいのに、時々痛くて、でも優しい。それに、いつも耳元で囁くように名前を呼びながら「好きだよ」って。
例え、いつも側にいれないとしても……私だけのアレクじゃないとしても……それでも良いと思えるくらい、私に愛をくれる。
「――もう、我慢出来ない」
「んっ……」
目が覚めたら、またアレクはいないかもしれない。
それでも、きっと私は、来週もここに来てしまう。
「可愛い……エリー。もっとこっちを見て」
「あぁ――!」
誰にも言えない秘密の関係でも、良い。
強く抱き締められて、脳が痺れて、悦びを得るの。
***
――このままで、良いんだろうか。
あの日、部屋の隙間から見えた乱れたシーツ、崩れた殿下の服、転がった女性ものの手袋…………間違いなく、不貞。
妃殿下には、申し訳ないと思ったが、それでもこの事実を明るみに出せば、国の中枢が揺ぐ。
何せこの国は、夫婦の契りを重んじるのだから。
不貞は、罪になり、国の法で裁かれる。
それを……国の王太子がしたとなれば、貴族の反発は目に見えている。強固と言われる王族ですら、茨の道だ。
「何もしない訳に……いかないよな」
自分のデスクに積まれた書類の山を前に、スケジュールの組み直しをし始めた。
まずは、相手が誰なのか突き止めること。そして、出来る限りの説得を試みること。街に出るための時間を捻出しなければならない。
毎週同じ曜日、同じ時間で約束してるとしたら……今日も来るかもしれない。そう思って、急いで書類を片付けた。
例の建物に入るであろう時間は間に合わなかったけど、しばらく待っていると、護衛を伴った殿下が出てきた。あの子が一緒じゃないことに、ほんの少し安堵したが……やっぱり待っていれば、後からローブを羽織ったあの子も出てきた。
“バレないように、尾行しよう“
一定の距離を保って、行動を開始した。
広場の先で、侍女らしきメイド服の女と合流し、街を抜けて貴族外へ歩いて行く。
そして……入った先は――
「ヴィルローズ邸……ということは、エリアナ嬢……か」
まさか、公爵家の令嬢が……殿下と繋がっていたとは。
果たして、交渉する機会を得られるだろうか。格上相手に、安易な接触は出来ない。
家に行くのも、得策ではないだろう。
そこで、頻繁に出入りする行商人が、僕の顔見知りだと知り、少しばかり協力してもらうことにした。
「エリアナお嬢様なら、こっちのクッキーの方が好きね」
「オマケしておきますよ」
「じゃ、これとこれも買っちゃうわ」
「毎度あり」
陽気に巧みな話術で、メイドと商売する。さすが、会話のプロフェッショナルだと感心するばかりだ。
帽子を被り、あたかも同行してるように見せて、僕もその会話に混ざった。
「エリアナお嬢様って、よく街に行きますよね。何か買い物に行ってるんですか? 良かったらお持ちしますよ?」
「良いの良いの。お嬢様は、好きで街に行ってるんだし、それにほら、パン家の娘さんに勉強教えてるし、ねぇ」
「あぁ……そうでしたね。二番通りのパン屋ですもんね」
「違うよ、一番通りの角でしょ? 昔っからお嬢様通ってるんだから間違えちゃダメだよ」
「僕、商売人失格ですね。はははっ」
――殿下と待ち合わせする以外にも、彼女がよく街に行く。
それなら、そこを狙うしかない。
殿下と密会するのは、毎週金曜日。
昨日も来てない。今日もいない……そして、翌日。それは、木曜日のこと。学園帰りの馬車が街中で止まり、彼女は迷いなくパン屋に入っていった。
メイドの話が本当ならば、勉強を教えているのだろう。
「エリアナ様、今日もありがとうございましたっ」
「また来るわね。今日も美味しいパンを、ありがとう」
「またね〜」
手を振った彼女は、邸とは逆に広場まで歩いた。
そして、ベンチに座って深呼吸をつく。そのベンチが、殿下と言い合いをしていた、あのベンチだと言うことを僕は覚えてる。木目に合わせて指で撫でながら、なんて切ない顔をするのかと驚いた。色香の混じる溜息に、周囲の男性が何度も見返すのも頷ける。
僕は、躊躇いなく木陰から歩き出した。
「お顔の色が、優れませんね」
驚いた彼女の大きな瞳が、まっすぐ僕を見上げた。
「いえ……大丈夫です」
「なぜ、ここに戻ってきたのですか」
「……え?」
「失礼ですが、少しお話をしても?」
一度は立ち上がろうとした彼女だけど、諦めたように姿勢を正した。
「茨の道が、辛いのではありませんか?」
「な、何の話ですか……」
「具体的な話は、避けます。このまま進めば、必ず傷になります」
「……失礼します」
立ち上がる彼女の瞳に、涙が溜まるのを、僕は見逃さない。
「その涙を拭えるのは、彼ではありませんよ」




