8.沼
隣で眠るエリーの髪に触れた。
身も心も、こんなに満たしてくれるのは君だけだ。
「どうしたら、君が手に入る?」
……考えるほど、深みに沈んでいく気がする。
こんなにも満たされているのに。手に入らないと分かっているから、余計に欲しくなる。
どんな夢見ているんだろう。寝ぼけてても、ふにゃっと笑う君を見ていると、胸がとても熱くなる。
マグノリアとの義務的な夜も、王太子として必要だと重々承知しているのに。やっぱり欲望のまま、抱きしめられるエリーとの情事の方が満たされてしまうんだ。
それでも、現実に引き戻される。
ドアを叩く音が部屋に響いて、外から声がする。
「殿下、いらっしゃいますよね?」
「あぁ」
「入っても宜しいでしょうか?」
「いや、僕がいく。そこで待っててくれ」
急ぐわけでもなく、床に放られた服を着ながら、ベッドですやすや眠るエリーを目に焼き付ける。
次は、いつ会えるんだろう。
手紙くらい……残しても、許されるだろうか。
机に置かれた、メモに一言。
"来週の同じ時間、ここで待ってる"
それだけで、一週間頑張れる気がする。
例え政務に追われても、周囲の騒めきも、乗り越えられる。
「またね、エリー」
***
一時、殿下の周囲が騒然となった。
街に出たきり、行方が分からなくなり捜索隊が組まれる寸前だったからだ。可能性のある場所を護衛や側近が探し回って、発見されたらしい。
城内に戻ってきた殿下とすれ違ったけど、何か違和感を覚えた。いつもなら無表情で、顔色ひとつ変えない殿下が、ほんの少し口角を上げて機嫌良く通り過ぎたから。
ただでさえ、部下を心配させたはずなのに。
後方を歩く一人の騎士を止めた。
「お疲れ様です。あの、殿下はどこに居たんですか?」
「街にある、休息用のお部屋です」
「……一人で?」
「だと、聞いています」
「そうですか」
どうしても頭に、あの子がチラつく。
何もないなら、それで良い。
――翌週、すぐにサインの必要な報告書を持って、殿下の執務室へ向かう途中、物陰から覗き込むように背中を見せる妃殿下に遭遇した。
「……如何されましたか?」
「んっ! ……シー、静かに」
「すいません」
同じように陰に隠れた僕は、妃殿下の隙間から同じ方向を覗き込んだ。
"あれは……殿下? 今日は外出の予定だっただろうか?"
「最近……様子が変で……」
「今日の予定は、いつ変更に?」
「……それが、誰も聞いてないんです」
「だからお調べになっているんですね?」
「だって……」
「だって?」
「先週と全く同じだから……」
先週の今日と言えば、街で姿を消した日だ。
このままでは、殿下を尾行してしまいそうな気配を感じ、報告書を握りしめたまま「僕に任せて下さい」と、そう伝えた。
「今日の仕事は、あらかた片付いています。宜しければ、自分が確認して参りますので、お任せ下さいませんか?」
「でも……自分の目で――」
「そのドレスでは目立ちますし、馬にも乗れません」
「…………」
「報告に来ますから、ね?」
「……分かったわ。待ってます」
報告書を託し、先に出発してしまった殿下を馬で追った。
風を切りながら思い出す "休息用の部屋"。
それが、どこにあるのか皆目検討もつかないが、とにかく広場の方へ走った。何か手掛かりがあれば、それで良いと。
すると、ローブを羽織って、広場を横切る如何にも怪しい者に目が止まった。歩き方は女性、顔は見えないが、隙間から溢れる髪色があの子の似ている。
馬を置いて、距離を詰めながら尾行すると、建物の中に入っていくのが見えた。
建物の上まで見上げたが、何の変哲もない。
なのに……嫌な予感がする。
建物に入ってすぐ、警備員から身分証の提示を求められた。
「王城の外交文官、ノエル・ランドアークです。殿下に急ぎの決裁をお持ちしました」
「…………どうぞ、お入り下さい。アレクシス王太子殿下のお部屋は二階奥です」
一か八か、不確かな殿下の名前は、見事に当たった。二階の奥に向かって、辺りを気にしながら進んだ。
「――良かった。こないだは…………で、ごめん」
扉から漏れる、不穏な会話。
中を確かめないことには、確証が得られない。
護衛もいないこの状況を、もし、殿下が意図的に作り上げているとしたら? 誰にも告げず、街に出てるとしたら?
――あの子と会うために、ここに来たとしたら……?
でも、確かめる術がない。
ここで、ずっと聞き耳を立てるわけにもいない。
どうする…………そうだ――
ここで立ってても仕方ない。
一つ深呼吸をして、躊躇いなく扉をノックした。中の様子は見えなくとも、慌てる足音は感じれる。祈るような思いで、殿下を待った。
「……誰だ」
「ノエル・ランドアークです。急ぎ、報告書を持参しました」
すると、ガチャッと開き、殿下が顔を出した。
視線はなるべく変えないように注意を払って、様子を伺う。
ズボンの腰に収まりきっていないシャツ、乱れたベッドのシーツ、それに……床に転がる女性ものの手袋。
「こちらです。お休み中に申し訳ありません。陛下が至急準備せよ、との王命でして」
「……分かった。サインするから少し待ってくれ」
「承知しました」
締まり切る前に見えた、あの髪色――
白が、黒に変わった瞬間だった。間違いなく、殿下はあの子と関係を持ち、こうして人目を避けて逢瀬を重ねていたんだ。
きちんとサインがされた報告書を握りながら、再び閉ざされた扉を見つめた。ここで何をするかなんて、野暮だ。
城に戻った僕は、約束した通り妃殿下を訪ねた。この行き場のない感情を処理出来るほど、僕は大人じゃない。
「……ノエル、それで……殿下は?」
不安そうに瞳を揺らした妃殿下に頭を下げた。
「――何も……ありませんでした」




