27. awake/sleeping
水面に靴先が触れる。そのまま靴底がべったり着いた。それでも沈まない。
正真正銘、陸は水の上に立っていた。スカートの裾を持ち上げ、優雅に歩きもした。
はぁー、とカルアの口は素直に感嘆の息を洩らしたが、しゃくなのでばちゃばちゃと波を立ててやった。夕闇の溶けた海水が、光の加減でちらちらときらめいた。
「ちょっとっ、邪魔しないでよっ」
「おめえ、ニンジャなのか?」
「まぁ……その流れを汲んではいるよ。歩き巫女って知ってる?」
もちろん知らないし、深く聞く気もない。
カルアは自分でもさっそくやろうと思い、水面に向けて足を伸ばした。
そこは大きな海浜公園のなかにある人工の磯浜だった。おとなしい岩が整然と並んでちいさな湾をつくり、日が暮れなずむこの時刻、海水が満潮位まで満ちてプールのようになっていた。
「ちっ……。んだよ、これ……」
ごついブーツはいともたやすく水の膜を破いた。界面張力などないかのようだ。
「靴脱いだほうがいいかも」
言われたとおりカルアが裸足になると、陸が水上から手を差し出してきた。
気に食わない。そう思ったが、カルアはその手をつかんだ。
「境界を意識して。自分と自分以外との」
「おい、師匠、もっとわかるように言え」
「伝えるんだよ」と陸は楽しげに眼を細めた。「君の意志を、力を……」
そろりとおろしたつま先は、つぷりと水面を突き抜けるかと思われた。けれどある地点で、たしかな感触を得た。
見えない足場があるかのようだ。カルアはそこに体重を乗せていき、残していた足も岸から離した。
「そう……その調子」
陸は一歩、二歩とカルアを導いていく。ワインみたいな水面の真ん中へと。
別世界に踏み入るような感覚に、カルアは言葉を忘れている。
「君はいま、水に干渉してる。ぼくは君に干渉して、それを手伝ってる。ぼくらは〝世界〟の何にでも干渉できる……〝世界〟に許される限り」
世界、とつぶやいてカルアは顔を上げた。
「かたちのないものにも、ぼくらの力は届くんだよ。君には、そのへんをわかってほしいな。そしたら、身体を無理に変化させなくても強くなれるってことが……」
カルアは聞いていたが、陸の声だけに耳を傾けてはいなかった。
波が寄せ、鳥が鳴き、子らが笑うのを聞いていた。そして自分を、陸を、海と空を包んでいる天地の気を感じていた。
海峡を渡る大橋や、行き交う船や、色もかたちも混沌とした地水平線を見ていた。
五感に入ってくるものを、入ってくるがままに任せていた。
「きれい……とっても」
ささやく声にカルアは振り向く。すると陸は心臓が止まったような顔をした。
陸の泳いだ視線が、重ねたふたりの手を見て、はたと固まる。そこから赤い光の粒が、泡噴くように現れていた。
「ぼくの干渉が打ち消されてる……?」
カルアは別のことに気づいて、飛び上がりそうになった。
「おっわ! 沈んでる!」
あわてて岩場に戻った。
西の空の燃えるような赤みのわりに、地上はうっそうと闇が濃くなっていた。
カルアが濡れた足を拭いていると、風がひやかしを入れてきて、くしゃみが出た。
「着換えたら? 寒いなら」
陸が隣に座って言った。
「あー?」
カルアは足拭きにしている赤いバスローブを見て、眉をしかめた。これを着ろというのか。
「ほら、今朝着てた服持ってるでしょ?」
「……。――あ」
服屋に置き忘れた。
「え、うそっ!? 取りに行かなきゃ!」
「いいよ、めんどくせえ」
立ち上がって靴をはこうとした。
「でも……お気に入りなんでしょ?」
「オレちゃんがそう言ったか?」
カルアはムスッとした。自分でもよくわからないが、陸の決めつけるような言い方がカンに障った。
実際、ぶかぶかの服はシェイプシフトにちょうどいいから着ていただけ。特別好みだとかそういう思い入れはない。
「なんでもいいんだよ、動きやすけりゃ、な」
そのはずだったが、ふと、惜しいという気がしてきた。しかし自分で拒否した以上、取りに戻ると言い出せない。フラストレーション。
そのとき、ぐうと腹が鳴った。
これじゃ空腹で不機嫌になったみたいだ。陸はそう思ったらしい。ごはん行こ、と言ってすぐに出発した。
近くに飲食店が並んでいる通りがあった。そのあたりを歩きながら陸は、ラーメン、中華、和食、なんでもあるよと得意そうに話した。
「でも~、やっぱお肉がいいよねっ? 焼肉っ。ぼくも賛成~っ」
「は? 勝手に決めんな」またトサカに来た。
「ごめんごめん」と陸は軽く応じた。「じゃ何がいい? 何が好き?」
「好き……」
ちょっと考えてみたが、言葉が出てこない。無意識に髪をいじった。
「……よくわかんね。そういうの」
へ? と陸は、それこそわからないという顔をする。カルアはちょっと心地悪くなった。
「あれが好きとか、お気に入りとか……そういうのオレちゃんにはねーんだよ」
吐き捨て、早足で先に行く。
(そういうのは全部、カレンのものだ……)
そう思うと同時にこみあげた感情を、カルアはあわてて打ち消した。
「つーかてめえ、忘れてんじゃねえだろうな? オレちゃんがカレンかもしれねえってこと!」
「それ、自分で言っちゃうの?」
「いいから! ……カレンの好きなもの食わせろよ。そんくらい、てめえだっておぼえてんだろ?」
ちらりと振り返ると、誰もいない。
「あれ?」
陸はいつの間にか前方に立っていて、危うくぶつかりそうになった。
「おっ――どかすなコラ!」
「ぼくは、君のことが知りたい」
「……」
「いま眼の前にいる、君のこと」
視線も言葉もまっすぐすぎて、カルアはきちんと受け取ることができなかった。困惑のほうが先に来た。
「それで……できれば、ぼくのことも知ってほしい。いまの、ぼくのこと」
視線をはずし、陸は踵を返して歩き出した。
何もなかったように声の調子を変え、
「さってさて、じゃあ今日はラーメンでもどーお?」
「いや、ステーキ」
「結局肉じゃん!!」
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部屋のなかは何もかもが静止していた。時でさえも止まってしまったかのようだ。
外は陽が昇り、朝靄も晴れようとしているのに、そこにはつめたく暗い夜気が閉じ込められたまま。
踏み入った魔術師たちも、しばし凍りついたように立ち尽くした。
息をのむ光景だった。
岩窟、あるいは牢獄。
格子状の石柱が縦横に張り巡らされ、懐中電灯の照射を遮る。それでも、奥のほうの暗がりに人のかたちをした岩があるのがわかる。
腹部で弱々しく明滅する魔導円陣、そしてブルーノの言がなければ、誰もその岩がレディ・バロンだとは信じなかっただろう。
仮面の男たちのなかには、それでも信じられない、という様子の者もいた。
意外なことに、夜卿カンケルもそういう顔色だった。
「……魔女めが、このような姿を晒すとはな」
ふんと鼻を鳴らして、カンケル卿はそう言った。喜色はみじんもなかった。
「さすがはシリウス卿というべきか」
そのつぶやきをブルーノは聞き逃さなかった。
「カンケル、あなたは……親父とつながっていたんですか」
「つながりという意味では、貴様もだ、ブルーノ。私などよりはるかに深く、な」
ブルーノは唇を噛んだ。驚きよりも、やはりという心情が浮かんだ。
「親父を復活させたのも、あなたなんですね」
カンケルは返事もうなずきもしないことで、それを肯定した。
「シリウス卿は貴様を術の媒介に使った。貴様の一瞥、一語一句を通して、バロンを催眠状態に陥れたのだ」
カンケルはバロンの生み出した石柱を指で叩いた。
「やつの意識は夢幻の術のなかに囚われている。無防備になった身体を護るための術が働いたようだが、これ以上悪あがきはできまい。そのあいだに……我々はなすべきことをなす」
魔術師たちは踵を返した。
ブルーノは追う。
「《太陽》を捕らえる気ですか!」
「それだけで済むものか。じきに我々は――闘争に至るだろう。貴様もせいぜい備えろ」
一団は扉を出て、石の階段を靴音で満たした。
「こんなのは間違いだ。相手は英雄と、その娘ですよ! 悪ではない」
「善悪は関係ない!」
カンケルは振り向き、一喝した。
「大きすぎる力は〝在る〟だけで問題なのだ。貴様こそ眼を覚ませ」
指をブルーノの胸に突き立てる。
「バロンは必ずや復活する。催眠の術者を殺してな。次にまみえるとき、やつは貴様の親の仇だ。それでも味方するつもりか」
ブルーノの口から答えは出なかった。
カンケルは釘を刺すような視線を残し、階下へとおりていった。そのうしろ姿を高窓から差す光が薄黄色く照らした。
その光は部屋のなかにも伸びている。
光明の岐路の真ん中でブルーノは立ち尽くした。




