21. 陸とカルア
日向で閉じたまぶたの裏。真っ赤な血潮が透けて見えるような。ぽかぽかの陽気に包まれているような。陸はその感覚におぼえがあった。
(リン……ちゃん)
「――カレンちゃんっ!」
がばと起き上がる。
眼を見張ったが、すぐにまぶしさに顔をしかめた。
朝だ。
ベッドの上でぽかんとしていると、額の奥がじんと響いた。
「アタマ痛ぁ……」
すがめた眼で見まわす。そこは昨夜、彼女といた部屋だった。
ところが今朝になって横にいたのは、知らないヒゲづらの男だった。
「ぎゃああ?!」
陸はベッド脇に転げ落ちた。
ちゃんと服は着ていた(バスローブだが)。
男のほうはGジャンの袖をまくったラフな格好で、サングラスをつけたまま、靴さえ脱いでいない。その長い足がベッドからはみ出て、頭のうしろにまわした腕はごつごつした筋肉におおわれている。
「よーやく起きたか」
くわえ煙草の口で言って、男はサングラスをはずした。浅黒い肌、濃いめに整った眼鼻立ちとヒゲ。中東系の顔立ちだ。
しかし砂漠よりは海、ラクダよりはサーフボードのほうがよっぽど似合いそうな男だった。
「だ誰ですか」
「フフン、俺はイスマイル」
アラブ男はベッドから出て、得意そうに日本語を話した。
「良ーいスマイルの……」
「イスマイール!! さっさとおいで!!」
開いたドアの向こうから、女性のドラ声が飛んできた。それは英語だった。
「OK、ダニー」
男は首をすくめ、のしのしとドアから出て行った。
入れ違いに、あわただしい足音がして、赤いドレッド頭が部屋のなかに飛び込んできた。
「わぁ!?」
アメフトタックルに陸はひっくりかえり背中を打った。心臓が飛び出すかと思った。二重の意味でそう思った。あたたかい女の子の身体に、ぎゅっと抱きすくめられたから。
そのまま数秒がたった。
「ねえっ、ちょ、何か言ってよっ」
陸は沈黙に耐えかね、起き上がろうとした。
すると身体が離れ、〝彼女〟と向かい合わせになった。
ドレッド頭にリボンがついている。なぜ。それもへんてこな位置に。なぜ。
彼女はうつむいていたが、不意に陸を見返すと、にこおと歯を見せた。くしゃくしゃに丸めた紙を苦心して広げたような笑みだった。
「ワターシ、〝カレン〟!」
陸のまぶたが勝手に高速のまばたきをした。
「カレン、DEATH YO! SO REAL DEATH YO!」
「……何言ってるの?」
「カレンだっつってんだろオラァ!」
眼つきが獰猛に変わっている。
「それはわかってるけど……」
「信じろコラァ!」
リボンを投げつけてきた。
陸の頭にクエスチョンマークが吹き荒れる。
彼女は何も説明しないし、そのあとは口をきこうとさえしなかった。眼も合わせないのに、それでいて陸にぴったりくっついて離れないのだから、まったくわけがわからない。
「ねえ、ほんとにどうしたの? 恥ずかしいんだけど……」
返事をあきらめつつも、階段の途中でそう声をかけずにいられなかった。一階におりると大人たちが待っていたからだ。
昨夜のままの荒れたリビングに並ぶ顔ぶれは、黒猫のナッツ、ふたりの女性(催眠から醒めたようだ)、そしてさっきのアラブ男。名前はたしかイスマイル。
「よう、来たな」
彼はまた日本語で言った。輝く歯を見せ、腕を広げた。
「オトモダチに紹介しとこう。俺らはマスター・バロンの付き人さ。試用期間中のぺーぺーだけどな」
主人の娘は使用人の話など聞く気がないようだ。陸をどしどし押しやり、ソファに腰を落ち着けたが、その座り方が問題だった。彼女が陸をうしろから抱くかたち。陸が彼女の抱き人形、あるいは彼女が陸のクッションみたいになっている。背中にすきまをつくろうとしても、彼女がぐいと引っ張ってまた密着。
「ダニエラに、カジワラ」
イスマイルが女性たちを紹介したが、頭に入ってくるのは別のことだ。彼女の身体。細っこいのに、どこにこんなやわらかさを隠しているんだろう。
肌はしっとりしている。その内から発せられた体温が、皮膚を通してじんわりと陸の身に移ってくる。
「そして俺がイスマイル! チームを束ねるキャプテンってわけだ。ハハハ」
「なぁにがキャプテンか、このボケナス!」
ダニエラがこらえきれなくなったように爆発した。
「てめーのせいでこんな一大事になってんだろがい!」
レスリング選手のような体格の彼女が、ラテンなまりの英語をまくしたてるさまは迫力がある。
「そりゃないぜ、ダニー」とイスマイルは英語で言った。やはり西海岸な話し方で。
「誰が悪いかっつったら、勝手にいなくなったこのお嬢さんが悪い」
馬鹿、と言いかけて、ダニエラは口を曲げた。「お嬢さん」に非があるとの意見にいくぶん同意するところがあるのかもしれない。
「……勝手に街に連れ出したうえ、逃げられたのはあんたでしょうが!」
「それはそうだけどよー」
イスマイルは女性陣を交互に見た。
「ふたりも同意したろ? お嬢さんには気分転換が必要だって。ずーっと引きこもって、ベッドとデジタル機器に魂吸われてたんだもんなー」
「そうなの?」と陸は肩越しに彼女に訊いた。意外だった。
しかし返事はなく、見ると彼女はばつが悪そうに陸の頭のうしろに隠れている。
「ほーら、あの調子だよ。ほとんど口もきかない」
イスマイルはかぶりを振りながら近づいてきて、ソファの隣に座り、長い腕で陸と彼女ごと肩を組んだ。
「それがどうよ、ええ? かぁいいオトモダチができちゃってさー、ハハ!」
大人たちと黒猫の視線を浴び、陸は変な汗をかいた。バスローブ一枚という恰好の危うさにいまさらながらめまいがしてくる。無意識にもじもじと内ももをこすりあわせた。
しかしイスマイル以外は、陸と彼女の包帯に眼が行ったようだ。
「能天気もたいがいにしな」とダニエラが言った。「こっちは襲撃を受けたんだよ」
「あー……それについては俺の見通しが甘かった」
イスマイルは立ち上がってうなだれた。しかしすぐにあっけらかんとして「ソーリー!」ぺろっと舌を出した。
「蹴っ飛ばすよ、このケツ穴野郎!」
「ダニー、」
「ケツ穴!!」
ダニエラが一方的にまくしたて、収拾がつかなくなってきた。イスマイルは口を挟む間もなく、肩をすくめている。
カジワラという眼鏡の女性は横でおろおろするばかりだ。日本人だとおぼしき彼女は、英語での仲裁の言葉を思いつかないのか、あるいは引っ込み思案な性質なのかもしれない。
いずれにしてもこの三人、バロンお抱えのチームとしては頼りないと陸は思った。
「おい」と彼女がぼそっと言った。「オレちゃん、遠くに行きたい」
「え?」
「つれてけよ。……おめえが言い出したんだ」
「でも……」
陸は大人たちと彼女を交互に見た。
彼女は眼で訴えかけてくる。すると陸はだんだんわかってくるのだ。
ほかの選択肢などありえない、と。
◆
腹ごしらえしたあと、支度しているはずのふたりがいなくなっていることに、付き人たちはいつごろ気づいたろう。いずれにせよ充分に時間を稼げた。
島を脱出して海底鉄道に乗り込むまで、見つかった気配はまったくなかった。地上に出て、ポートライナーに乗り換えようとするところで、ようやくというか電話が来た。
バロンからだ。
「何考えてるわけ」
あきれた声がスピーカーから響く。
煙草の煙まで洩れてきそうだと思い、カルアは携帯端末を耳から数センチ離し、朝のプラットホームの空気を吸い込んだ。まわりには深呼吸したように見えたかもしれない。
「あんたは……いえ、〝あんたたち〟は狙われてるのよ?」
「だから陸といっしょにいるんだよ」とカルアは言った。「てめえの手下を巻き添えにすんのも嫌だしよ」
バロンはため息したようだ。「まぁいいわ。別の〝子守〟をつけておいたから」
げっ、とカルアは見たくなかったものを見つけた。荷物のジッパーから黒猫のしっぽが飛び出ている。
「でもあんた、肝心なこと忘れてない?」
「あー?」
「陸にバレるわよ、あんたとカレンの秘密」
携帯端末を持つ手に力がこもった。付き人から新しいのをもらったのに、また壊してしまいそうだ。
「カレンは知られたくないのよ……たぶん〝まだ〟ね。そのへんはあんたのほうがわかるでしょうに」
「知った口きくな! あのうんこ野郎に会えっつったのはカレンなんだぜ」
カルアは、あっと口に手をやったが、遅かった。
「眼を覚ましたの?」
身を乗り出すようなバロンの声音に対し、カルアはあわてた。
「いや……カレンが眠る前の話だぜっ。つまりあれだ、遺言ってやつ」
「言葉に気をつけなさい」とバロンはたしなめた。「カレンは生きてるんだから」
反射的にカルアは舌打ちした。「はいはい、そうですねー」
気まずい沈黙におちいりかけたそのとき、駅の到着アナウンスが聞こえてきた。
「とにかく、オレちゃんは決めたんだ。止めんなら力づくで来いよ、いつもみてえによ。じゃあな」
出発だ。
カルアは着ぶくれた身を窓側の座席に押し込み、サングラスで眼を、ヘッドフォンで耳をふさいだ。
ささやかなバリア。ささやかな安心。
隣の席の陸が、気遣わしげにちらちら見ていることには気づいたが、カルアは無視した。




