葬送行進――3――
今日も私は一番乗りで登校した。
いつも私が朝一番に登校するのは人と挨拶をするのをなるべく避けるためだ。人間が恐ろしい私にとって人が少ないというのは重要なことだ。一日の初めから大勢の人と顔を合わせるのは精神衛生上よろしくない。一日を通して人と出くわす回数が少なければ少ないほど喜ばしい。教室は期待通り空っぽだ。私は席に着きすぐに机の上に顔を伏せる。二番乗りのクラスの友人が入ってきても目を合わせない。絶対に目立たないためにも無駄な動きはしない。少し尻を浮かせて座り直すという動作も慎重にやる。頭の中では無難なことだけを考える。楽しいことや羽目を外したようなことを思い浮かべるということ、これは危険だ。そういう時の感情は必ず面に出て周囲の他人に悟られるものだ。自分の机の木目を数え終わる頃には私はもう半分無機物だ。傍から見れば私は寝ているように見えるだろう。私の最終目標は誰にも見えなくなることだ。私は透明な空気になりたい。
分刻みでじりじりと気温が上がってくると残りのクラスの友人たちが一斉にやって来た。一段と賑やかになるのを聞くと今日の授業の様子がどんな風になるのか思い浮かぶ。数学では私が質問を当てられるだろうし世界史の授業は私の作文が読み上げられる。体育の授業では私だけが準備運動が上手くできないので目立つだろうし今日はソフトボールをする日なので私は無能ぶりを発揮し味方チームから責められるだろう。英語の教師は泣かされて教室は無法地帯になる。先週は教室でカラオケやボーリングをやっていた。今日は多分ボクシングで私は下手くそな解説役、場外乱闘に巻き込まれタコ殴りにされる役だ。
暑い。
ここ最近は最高気温の観測史上記録を更新し続けているそうだが、私の場合シャツの下に体操着を着込んでいるから余計に暑い。人前で裸になるのが怖いので体育のある日はいつもあらかじめそうしている。だがそんな変な格好をしていることが誰かに暴かれたらどうしよう。少なくとも体育の授業までは何とか私に皆の注目が向かないようにしなければならない。
今日はもっと懸念すべき事案がある。私の家の前まで来て様々なパーティーグッズで囃し立てた人物のことだ。それはここにいる友人たちの誰かに違いない。仮にそうでなくとも兄の死はもう皆の噂になっているはずだ。否応なく私に何かしらの意識が向けられるに決まっている。退屈な日常に波紋を投げかける身近な人物の自殺。私のささやかな努力など跡形もなく吹き飛ばす話題であることは明白だ。
今日一日は始まったばかりだ。
いつ、誰から話しかけられるだろう?
どういう目的で話しかけられるだろう?
話しかけられるとしたら、
何を話しかけられるだろう?
何を話さなくてはならないだろう?
何故死んだのか、どこで死んだか、
どういう方法で死んだか、何を遺したか、兄が死んだ感想も聞かれるだろうか……私が葬式を欠席してまで登校していることに気づく者がいるだろうか? 『本番』が近づけば近づくほど心配が増える。いや、その『本番』はもう始まっている。やはり休めばよかっただろうか。休んでも友人たちの代わりに報道記者が質問してくるだろう。だが葬式を欠席したのは不味かったか。親にも全然相談していない。今日もいつもと同じ感覚で何も言わずに登校してきてしまった。今頃大騒ぎしているかもしれない。午前中に早退すれば式にも間に合うだろうか。HRのすぐ後に先生に言えばいいのだろうか? だが当日に早退の報告なんて良いのだろうか、病気という訳でもないのに。
よくよく考えてみればやはり皆勤は必要だ。
名ばかりの皆勤ではない、正真正銘本物の皆勤こそが何の取り柄もない私には必要だ。少なくとも午後の授業までは学校にいなければ欠席扱いだ。だが早く帰りたい。先生は確実に兄のことは知っているだろうから私が葬式に出ずに学校に来ていることを不思議がるに違いない。
説明しろと言われたら何と説明しよう……
「富士谷君おはよう!」
来た。
「寝たふりしてんじゃねーよ」
「無視すんなボケ」
「挨拶してよ! 聞こえねー!」
「富士谷、今日スピーチしなきゃ
いけないんだよなお前。」
スピーチと聞いて心臓が止まりそうになる。
やはり兄の死に関してのことか?
やはり知っていたのか。
土曜日に冷やかしに来ていたのも
この人たちか?
スピーチとは何か?
何を喋らなくてはならないのか……
「帰りのHRでスピーチ。
お前が日直の時はいつもやってるだろ。
どうよ嫌な気持ち? おい?」
なんだそっちか……一応私は安どした。『定例』だろうと『告別式』だろうとスピーチが嫌なものであることに変わりはないが。
「い、嫌な訳では……」
「お前さぁ言ってることの内容が伝わってこないんだよ、変な喋り方するから!」
「聞いててムカつく声だよね。」
「あーイライラする!」
「もう喋るな!」「あはははは」
今ここで喋ることを頭の中で用意する。しかし中々考えがまとまらない。
「今日体育もあるじゃん。ソフトボールの日だよ。お前体育委員だから早めに行って準備しろよ」
「ダッシュで行けよダッシュで」
「それとなぁそろそろ準備運動が下手くそなのどうにか治せよ」
「富士谷君、準備運動下手なの?」
「え~知らねーの? ああそっか、体育の授業男女別々だから知らねーか。」
「いっつもワンテンポくらい遅れてんの。いやツーテンポくらい遅れてるよ。こんな感じ。」
「はははははは!」
「ちょっとやってみせてよ富士谷君! 本人のが見てみたい!」
私はその場に立って体育でやるように準備運動を始めた。教室に笑いの渦が巻き起こった。
「元気無い奴!」
「こいつ下に体操着着てんの」
「暑くねーのかバカじゃねーの」
「学校来なきゃいいのに」
「葬式あるんじゃなかったのかよ」
葬式。やはり知られていた。嫌な汗が止まらない。眉間のあたりが特に引きつって熱くなってきた。
「自分の葬式?」「ひひひひ」
「そういやお兄ちゃん死んだんだよね富士谷君!」
「あー知ってる!」
「テレビでちょっとやってたよね!」
「何で死んだの?」「自殺だって」
「自殺!? ははは!」
「自殺とか引くわー」
「お兄ちゃんの葬式今日なんだろ?」
「えー? 何で学校来てるの?」
問いかけられた私は何をどう喋っていいのか分からず、混乱しつつある自分自身を誤魔化そうとしていた。
「今日はその……暑いので……いつもと違うことをする気分じゃないと言いますか……」
「え?」「何?」「分かるように言えよ」
「すいません、自分馬鹿ですから……説明下手で……」
「はあ!? なんだって!?」
「なんて言ってるの?」「さあ?」
「いやいや結局何なんだよ!」
「それはその……皆勤賞が……」
「また変な声で喋ってるー」
「吃りかよ」「治せよ」
「わざとかよ?」
「笑わせようとしてるだろお前?」
「何時までも治そうとしないってことは、やっぱりわざとなんだろ。」
「あ、あの、かいきんを……」
「みんな待って! こいつ何か言おうとしてるから静かに!」
「皆勤を……取りたくて……」
私のその一言で教室内が水を打ったように静まり返る。
私が一言喋るのと同じくらいの、たった数秒間の静寂だがその数秒が本当に長く感じられて、私は耐えきれなくなり、つい笑う。悪意はないつもりだ。皆の神経が張り詰めているのが伝わってきたので笑えば皆も少し気を休めてくれると思ったのだ。すぐにやはり不自然だと思い直したがもう遅い。私が痙攣のように小さく笑ったのを誰一人として見逃してはない。場の空気が凍り付いている。私はどうしていいか分からず、また笑う。
「笑い方キモ……」
静まり返った後徐々に盛り上がる。
「ねースマホの充電どれだけできたー?」
「これって盗電なんでしょ?」
「誰も憚ってねー、ウケるー。ははは」
「お前さぁ自分の兄弟死んだんだよ? マジで平気なの? 神経おかしいよお前。」
「お前が殺したんじゃね? 自分の兄貴を」
「てゆーか俺が殺したんだぜ自殺に見せかけて殺したんだよどう思う?」
「こないだのドラマでそんなトリックやってたねー。見た? 『i.i』が出てたやつだったと思う」
「ははは」
誰のどの声に答えていいのか分からない。皆同じに聞こえてしまう。喉が痛くて喋れない。石を詰められたかのようだ。咳払いをしてみたり生唾を飲み込んだりしてみるが何の効果もない。
「おい!」
「何黙ってんだ! ちゃんと喋れ!」
「黙ってりゃいいのか?」
「まだ笑えるのか、こら」
「何だその顔……ああなるほど。今度は喋るのが嫌じゃなくて人といるのが嫌になってきたか。」
「どこまでも甘えた野郎だ。」
「お前みたいな奴は社会で通用しないんだよ」
「どこで働いてもすぐ辞めるだろうな!」
「引きこもり予備軍だお前ー」
「いつも思うんだけどさー、
明らかに治らない病人とか
障害児とか怪我人ってさー、
皆死なせてやればいいだろ。
そんな奴ら生かしておいてやっても
何の役にも立たないんだから。
どうせこの人みたいなのばっかなんだから」
「マジでそれ」
「お前は病気だ。お前の兄も親もペットも皆病気。」
「ペット飼ってるの富士谷君?」
「富士谷君、今日も放課後残るんだろ? 残れよ。」
私は期待していたのだ。兄が死んでも、周りの誰がどうなろうと無機物になれると期待していた。空気になれると期待していた。透明になれると思っていた。兄弟が死んだ日くらいは皆優しくしてくれる、何をしても許してくれる、そんな風に期待していた。私はクズだ。
「兄が死んだんだったらさ、今日はお前が死ね。」