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第7話:限界の音

 始まりの街、アインクラン。

 どんよりとした曇り空が、そのまま僕の心情を映し出しているようだった。

 ギルドの準備室で、僕は剣の手入れをしていた。布で刀身を拭うたびに、周囲の視線が突き刺さる。直接的な悪口は聞こえない。だが、ヒソヒソという嘲笑を含んだ囁きと、僕を遠巻きにする空気が、以前よりも明らかに濃くなっていた。

「あいつ最近救助活動をサボって、死神と雑魚クエしてるらしいぜ」

 人が賑わう中で微かに聞こえるその声が微かにでも確実に僕のメンタルを抉り出す。あの少女と関わるごとに人は皆冷たい視線を向けるようになる。

「……おはようございます」

 入り口から、蚊の鳴くような声がした。レイだ。

 彼女はいつものように、柱の影に隠れるようにして立っていた。

 泥の跳ねた古いローブ。ボサボサの前髪の隙間から、怯えたような瞳がこちらの様子を伺っている。その姿は、決して「元気な新人」などではない。叱られることを恐れる捨て犬そのものだった。

「……おはようございます」

 努めて事務的に返すと、彼女はビクリと肩を震わせ、それから逃げるように僕の隣に来て、俯いたまま小さく呟いた。

「ご、ごめんなさい……遅くなって」

「時間はまだ平気ですよ。行きましょう」

「はい……あ、あの、荷物……、持ちます」

 彼女が僕の背嚢に手を伸ばそうとする。その手は小刻みに震えていた。役に立たなければ捨てられる。そんな強迫観念が、彼女の痛々しい挙動から透けて見える。それを見て周囲の職員たちが鼻で笑ったのが分かった。

 『死神と、その飼い主様のお通りだ』

 そんな幻聴が聞こえてきそうで、僕は無意識に奥歯を噛み締めた。

 向かった先は、北の岩場。

 本来なら馬車を使う距離だが、二人きりの空間に耐えられそうになく、僕は徒歩を選んだ。

 道中、会話はなかった。

 僕の後ろを、レイが必死についてくる。

 彼女の荒い息遣いと、砂利を踏む音だけが続く。時折、彼女が何か言いかけようとして、結局何も言わずに口をつぐむ気配がした。

(……誰かと、約束したんだったか)

 ふと、遥か昔の記憶がよぎる。

 この世界に来る直前、確かに誰かと約束をした。

 だが、その相手の名前は長い年月の間に風化してしまい、覚えているのは、その約束が僕にとって唯一の希望だったという事実だけ。

 しかし、少なくとも、その相手はこんな見ているだけで気が滅入るような少女ではなかったはずだ。僕の記憶にある約束の相手は、もっと対等で背中を預けられる存在だった気がする。覚えているのはそれだけだ。

「っ……!」

 後ろで、ドサッという音がした。

 振り返ると、レイが何もないところで転んでいた。膝を擦りむいたのか、顔を歪めている。

「大丈夫ですか」

「す、すみません! すぐ、立ちますから……!」

 彼女は慌てて起き上がろうとして、またよろめいた。

 その不器用さ。要領の悪さ。それを見るたびに、胸の奥に冷たい鉛が溜まっていく。なぜ僕は、こんな足手まといを連れているんだろう。

 同情か? 義務感か? いや、最初は確かに「同じ転移者かも」という淡い期待があった。けれど、彼女のこの有り様を見るたびに、その期待は失望へと変わり、今はもう嫌悪感に近い何かに変質し始めていた。

 目的地の岩場に到着した頃には、太陽は高く昇っていた。

 討伐対象は「ロックリザード」。硬い甲羅を持つが、動きは遅い。単独なら造作もない相手だ。

「レイさん、君は岩陰に隠れていてください。僕が惹きつけます」

「で、でも……私、囮くらいなら……」

「いいから。出てこないで」

 少し強い口調になってしまった。

 レイは「ひっ」と息を呑み、何度も頷いて岩の裏へ隠れた。

 戦闘は順調に進むはずだった。

 剣を抜き、リザードの死角へ回り込む。硬い皮膚の隙間、首元の柔らかい部分を狙って踏み込む。

 その時だ。

「あ……」

 隠れていたはずのレイが、ふらりと顔を出した。彼女の目線の先には、別のリザードの影があった。増援だ。彼女は悲鳴を上げることもできず、ただ恐怖で硬直している。

「逃げて!」

 叫んだが、遅かった。リザードが彼女に向かって突進する。

 彼女は動かない。いや、腰が抜けて動けないのだ。

 舌打ちと共に、僕は軌道を変えた。今にも彼女を噛み砕こうとするリザードのあぎとへ、強引に体を割り込ませる。

 ――ガギィンッ!

 剣で牙を受け止める。だが、重量差がありすぎた。支えきれず体勢が崩れる。その隙を図ったかのようにリザードの太い尻尾が、僕の左半身を薙ぎ払った。

「ぐぅッ……!」

 岩盤に叩きつけられる衝撃。左腕に走る、焼き切れるような激痛。視界が一瞬飛び、真っ赤な警告色が脳内を埋め尽くす。

「セルジオさん……!」

 レイの泣きそうな声が聞こえる。

 彼女を守るために受けた傷。制服の袖は裂け、腕からは血が滴り落ちていた。

 痛い。けれど、それ以上に心が冷えていくのを感じた。

 残った右手で剣を振るい、怯んだリザードの眉間を貫いた。

 ドサリと巨体が倒れる。

 静寂が戻った岩場に、僕の荒い呼吸と、レイの震える嗚咽だけが響いた。

「あ、あの……血が……私のせいで……」

 レイが這うようにして近づき、震える手で、懐から安物の包帯を取り出そうとしていた。

 僕の腕に触れようとするその指先。

 それを見た瞬間、僕の中で張り詰めていた「何か」が、音を立てて崩れ落ちた。

「……触るな」

 自分でも驚くほど、低く、冷たい声が出た。

 僕は彼女の手を避けるように、一歩後ずさった。

 レイの手が空を切る。彼女は凍りついたように僕を見上げた。

「セルジオさん……?」

「もういい……」

 怒鳴りたかった。

 「邪魔だ」と、「消えてくれ」と叫びたかった。けれど、口から出たのは、感情の一切抜け落ちた乾いた言葉だった。

 僕は血の流れる左腕をだらりと下げたまま、彼女を見下ろす。

 そこにいるのは、僕の「約束の人」ではない。

 ただの、弱くて、惨めで、僕の足を引っ張り、僕の評価を下げ、僕を傷つけるだけの罪人ひとだ。

「君がいると……ダメになる」

 それは、僕の本心からの吐露だった。彼女の「死神」という呪いが、僕にまで伝染するのが怖かった。

「このまま終わりにしよう。街へ戻ったら、ギルドにクエスト中断の報告をする」

「ま、待って……まだ終わっていないのに、嫌です、私……!」

「嫌だとか、そういう話じゃない」

 すがりつこうとする彼女を、僕は冷ややかな目で見据えた。もう、同情さえ湧かなかった。視線を落とし、自身の治癒魔法で傷口を塞ぎながら呟いた。

「もう、君の顔は見たくない」

 その言葉は、刃物よりも鋭く彼女を切り裂いただろう。レイは何かを言おうとしたが、結局声にならずに崩れ落ちた。

 僕は彼女に背を向け、一人で歩き出した。

 これでいい。この重荷を下ろせば、また僕は一人でやっていける。

 そう自分に言い聞かせながら、背後で響く彼女の嗚咽を、風の音に紛れ込ませて置き去りにした。

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