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第19話:白紙の手帳


 夜の静寂が降りたイベリアのギルド。


 私はカナエさんに言いつけられ、事務室に置き忘れたという彼女の荷物を取りに戻ってきていた。


 誰もいないはずの薄暗い廊下を抜け、扉をそっと押し開ける。すると、明かりの消えた部屋の中に、一つの人影があった。


 セルジオさんだった。


 彼は窓辺に寄りかかり、ガラス越しに広がる星空を眺めながら、独り言のように静かな声で言葉を紡いでいた。


「……冷たい空に沈む星を、僕だけが掬い上げる。君の残した温もりだけが――」


 それは、彼が一人で密かに書き溜めているであろう、詩(ポエム)だった。


 私は音を立てずに歩み寄り、スカートのポケットに忍ばせていた、まだ一度も使っていない真新しい手帳を握りしめた。


「素敵な詩ですね」


 背後から声をかけた瞬間、セルジオさんの肩がビクリと大きく跳ねた。


 振り返った彼の瞳には、秘密を覗かれたことへの激しい動揺と、明らかな警戒心が浮かんでいた。


「……いつからそこにいたんですか?」


 低く、警戒するような声。


 それでも私は彼の言葉を受け流し、まっすぐにその瞳を見つめ返す。そして、あふれそうになる彼への思いを、手帳に書き出し、即興の詩に乗せて静かに詠んでみせた。


「青い光の海で あなたの帰りをずっと待っていた。


 星の届かない水底で 閉じ込んだ私に手を差し伸べたのは


 理想(ゆめ)を語る あなたの声でした。


 悲しい結末を、今度こそ二人で綴っていくために」


 その言葉の端々に散りばめられた、かつての記憶の断片。彼がそれに気づいたのかは分からない。


 私は彼が何かを言う前に歩み寄り、そっと、私の思いを記した手帳を差し出した。


「こちら差し上げます。先ほどのあなたの素敵な詩も、こちらに残して、また私に聞かせてください」


 私はそれを彼の胸元へ押し当てるように託し、カナエさんから頼まれた荷物を抱えて静かにその場を立ち去った。


 翌朝。


 ギルドの廊下を、カナエさんの後ろについて歩いていた時のことだ。


 前方から歩いてきたセルジオさんとすれ違った。彼はいつものように無表情な顔で、私を見向きもしなかった。


 ――けれど、すれ違いざま。


 彼はこちらを見ないまま一度だけ足を止め、絞り出すような声で告げた。


「……昨日の詩、悪くなかったよ」


 それだけを言うと、足早に去っていった。


「はぁ? 何事?」


 隣を歩いていたカナエさんが、不審げに眉をひそめて私を振り返る。


「あいつが、あんたの詩を褒めたって、どういう風の吹き回しよ。あんた、あいつに何を聞かせたの」


「いえ、大したものではございません。ご挨拶の代わりに、少し詩を詠んでみただけです」


「ふぅん。どんな詩?」


 追及の目を向けるカナエさんに対し、私はセルジオさんとの接触をごまかすため、あえて悪びれた様子もなく即興の詩を口にした。


「揺れる二つの結び髪は、気まぐれな嵐のよう。


 甘い香りに隠した毒舌で、今日もお休み前に無理難題。


 哀れな小鳥(わたし)は、ご機嫌に振り回されるのがお仕事です」


 私の言葉に、カナエさんは目を丸くして一瞬だけ呆気に取られ――、やがて、肩を揺らしてクスッと笑った。


「……生意気なメイド。昨日深夜に荷物を取りに行かせたのがそんなに気に入らなかったの?」


 機嫌を良くしたカナエさんの背中を追いながら、私は心の中で小さく安堵の息を吐いた。


 その日の午後。


 私がギルドのロビーでモップ掛けをしていると、エントランスの方から悲痛な泣き声が響いてきた。


「お願いです、どうか助けてください! まだ、まだ間に合うはずなんです!」


 受付カウンターにすがりつき、泣き崩れている若い女性がいた。その隣には困り果てた顔をした受付の職員が立ち尽くしている。


 ちょうど単独任務を終え、報告書を手に受付を離れようとしていたセルジオさんが、その異様な状況に足を止め、受付人に状況を尋ねていた。私も手を止め、少し離れた場所から耳を傾ける。


「それが……こちらの女性の旦那様が魔物に襲われて命を落としたらしいのですが、そのまま遺体が谷底の奥深くに落ちてしまったようでして……」


 受付人がどうしようもないといった様子で事情を説明する。


「そうやって私たちの家族を見捨てるんですか!」


 胸に抱えた赤子を抱きしめ、ボロボロと涙を溢れさせながら、必死に叫んでいた。


「イベリアの救助隊の中に蘇生魔法が使える方がいると聞いています! 旦那を私たちを見捨てないでください!」


 その痛ましい光景を静かに見届け、こちらへやってきたセルジオさんが、私のすぐ側でぽつりと呟いた。


「あの辺りの一帯は救助に相当な時間がかかるんだ。谷底に落ちたということだし、命までは助からないだろうな」


 蘇生魔法。セルジオさんの説明によれば、それは決して万能と呼べるものではなかった。


 死亡から時間が経過し、肉体の腐敗が進んでしまえば、肉体の修復はこの時点で不可能になる。また腐敗が進んでいなくとも、脳や心臓と言った致命的な損傷もあれば、成功率は限りなくゼロに近くなるそうなのだ。


「安全が確保でき次第、遺体の回収には向かいます。見つかりましたら、後日ご連絡しますので……」


 それは、事務的で残酷な死の宣告だった。女性は職員に対し、不満の叫びを上げ、その場に泣き崩れた。


 その光景を見届けていたセルジオさんの横顔には深い諦めの色がべったりと張り付いていた。


「……愛する人も、何れ死んでしまう」


 独り言のような、自分自身に呪いをかけるようなその呟きは、近くにいた私の耳にも確かに届いた。


 ……でも私は、違う。本当の『ヒロイン』はきっと。


 私はあえて空気を読まないような、少し冗談めかした声で返した。


「私だったら、そう簡単には死んであげませんけどね」


 不意打ちのような言葉に、セルジオさんはこちらを振り向いた。


 驚きに見開かれたその瞳が、私を真っ直ぐに捉える。


 それはきっと、今の彼の中のアリシア(ヒロイン)なら、絶対に言わないであろう言葉。


 セルジオさんは何かを言おうとして口を開きかけ、ほんのわずかに呆れていた。しかし硬直していた口元は微かに緩み、小さな笑みをこぼした。


「……そうだな。キミは簡単には死なない、僕もそんな気はする」


 彼は静かにそう残し、踵を返して去っていった。

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