1日目 1
冷たい秋の風が部屋に吹き込んできた。小さな窓は開かれていて、カーテンが一瞬、なびいた。わたしはその冷たさが首筋にいきなり寄せ来たものだから、驚いて窓の方を見てしまった。小さな窓は鎧戸付きのうち開きで、外の窓辺の少し下がったところに窓箱がついていて、そこに植木鉢が置かれていた。風に明るい色の花々の頭が揺れているのが見えた。
わたしは隣のテーブルから聞こえてくる話声にも耳を貸さずに、立ち上がる。わたしは窓辺に寄って、窓のすぐ近くのテーブルの椅子に身体を斜めにして腰を下ろした。わたしは窓の向こうを見る。陽光が明るくきらめいていて、外の野原の草が明るく光っているように感じられた。いい天気だと、感じた。
風は少しの間をはさみながら、何度も、強かったり弱かったりしながら部屋に吹き込んできた。今日は、そういう日らしい。
窓からはずっと向こうの海が見えた。この建物からでると少し向こうに崖がある。それは窓からも見えた。そこには階段があって、下に降りると海岸に出るらしい。海沿いは岩場になっている、とわたしはもう聞いていた。
窓から見える風景はとても落ち着くものだった。心地よく吹く風はわたしの頬に触れて、海は陽の光に明るく、外の野原は広々としていた。
わたしは、自分が感傷に浸っていることに気が付いた。―—そんなこと、ここに来るまではいくらもなかったのに。
「ねえ、あなた……。この男のいうことを聞いた?」
え、とつぶやいて窓辺に座っていたアルゲが声の方を振り向く。女が、口元に手をやりながらくすくすと笑っていた。
サラハイは明るい茶色の髪をした美人の女だ。美しいというよりは、かわいらしい顔つきをしていると思う。今彼女は、長いまつ毛の美しい眼を半分とじて、青い目を自分の前に座っている男に向けていた。身体を斜めにして、いくぶん俯かせて、いかにもいやらしい態度を演出してみせていた。
男の方はスクハルという。アルゲはこの男のことをほとんど知らなかったが――サラハイのことだって、何も知らなかったが――彼がいくぶん無口な男らしいということは、今の短い時間でわかっていた。
スクハルは、眉毛を上げながら肩をすくめた。サラハイがこちらを見た。
「この男はね、わたしに向かって、上に誰がいようが関係はない、って知った風な口をきくのよ」
言ってから、サラハイは顔を軽く歪めた。
「そんなことあるかしら! だって考えてみて! どんな人がいるのかわからないのって、とっても怖くない? もし人殺しがいたらどうしましょう。それか大した教育も受けてないような浮浪者上がりだったら? きっと、そんな人間はまず相手の顔と、もしそれが女なら胸を見た後に、こいつは金をもってるのかと考えるでしょうね。哀れなことだわ。それか同性愛者かも! 神に誓って、それは罪だわ!」
言い終えると、サラハイはかわいらしい顔を上げて、一人笑った。おいおい、とクスハルが呆れ顔で言った。
「お前はずいぶん極端なことを言うんだな。おれは何も、人殺しにいてもらって良いとは一言もいってないんだ。ただ、お前がやたらと他の人間のことを詮索しようとしたから、どんなやつでもいいといっただけなんだ。別に、初めから残りの人間が悪い奴だと決めてつけても面白いことはあるまいさ。それに、おれは同性愛者を悪い奴だとは思わんね」
言われたサラハイは、朗らかな表情でそれを受け流していた。
「ねえ、アルゲ。実際、これは大切な問題だと思うのよ。あなたはどう思う?」
アルゲは、少し唸ってから、軽く微笑しながら首を振った。サラハイが首をかしげる。
「わからない。でも、今考えたって仕方のないことの気がする」
しばらく間をおいてから、アルゲは言った。
「でもできればいい人だったらいいな」
サラハイが間を置かずに言った。
「それは本心かしら?」
アルゲはどきっとした。この女は予想だにしない質問を投げかけてきた。
「いやそれは――」
アルゲが答えようとしたとき、スクハルが差し出口をはさんだ。
「そうに決まってるだろうが。悪い人間に来られても敵わん」
ふうん、とサラハイが彼を見た。
アルゲはまだ少しさっきの余韻が残っていた。正直に言うと誰でもいいのかもしれない。もちろん人殺しでは困る。殺されるのは怖いから。でも、別に自分に害さえなければ、どんな人間だっていいのかもしれない。善人でも悪人でも、自分に一体どんな関係があるというのだろう。そう思うと、まだ見ぬ相客を面白そうに予想できるサラハイの方が、自分よりもよっぽど他人に興味を持っていそうだった。
アルゲはにわかに立ち上がった。もう風はあまり吹いていない。
「あら、どうしたの?」
サラハイがアルゲに問う。アルゲは首を振った。
「ちょっといろんなところを見てくる。わたし、まだ部屋とここしか見てないから」
「あらそう」言って、サラハイは笑んだ。顎下に指先を添わせながら、言う。「でも、わたしをこの男と二人きりにするつもり? この人、見たところわたしより年上だし、ちょっと怖いかもしれないわ」
クスハルは椅子の背もたれに深くもたれながら、眼をつむっていた。
「それはおれのセリフだろう。おれはお前とここでしばらく話していて、この先のことが気が気でなくなったよ」
言ってから、クスハルは目を軽く開けた。
「もし上にいくなら、まだどんなやつらがいるのか見てきてくれ。まあ、みんなすぐに起きてくるとは思うがな」
わかったよ、と言って、アルゲは階段を登り始めた。アルゲは一階にいる。一階にはロビーがあった。
小さいロビーだ。7つばかしのテーブルがおいてある。床には刺繍の施された赤い絨毯がしいてある。テーブルにはレースで飾られたテーブルクロスが敷かれていて、これはおしゃれだと思う。だがテーブルクロスは白色でも、いくぶん色あせていたし、絨毯は赤色でも、その色の輝きはかなり色あせていた。だから美しいロビーではなく、おしゃれなロビーなのだ。かなりの時間と今はいない恐らく多くの人間の仕草が、この空間の本来の美しさを褪せさせていたが、それでもなお、この空間はうまい具合に飾りつけられていた。ロビーには二階に続く小さな階段が据えられている。階段の先は廊下なっていて、その先にさらに上につながる階段がある。
一階からの階段の先は、廊下とともに小広間にもつながっている。小広間は、一階のロビーのすぐ上にあって、空間的にも接するようになっていた。一階のロビーは天井が高く、二階の小広間まで吹き抜けになっていた。だから、一階のロビーで顔を上げれば、二階の小広間の端側のテーブルに向かっている人間のことを見ることができた。小広間にはテーブルが二つ置いてある。
アルゲは二階に上がり、廊下を進む。廊下には赤い絨毯が敷かれていた。これは一階のロビーに敷いてあるような刺繍で飾られたものではなくて、単調な明るい赤色の絨毯だった。
二階には小広間と、廊下の先に食堂があってそのすぐ隣に調理室、そして図書室があるようだ。
アルゲは階段を上がり三階の平場についた。少し考えてから、そのまま四階にいく。アルゲの部屋はここにあった。下に降りるときに少しだけ見ていたのだ。ここには客室しかない。おそらく、まだ自分の見られていない人間が部屋にいるはずだった。
四階について、廊下に少し顔を出してみる。同じく赤い絨毯の敷かれた廊下はひっそりとしていた。見たところ構造は三階とほとんど変わらないらしい。見る気をなくして、アルゲは階段に戻って上に上がる。
アルゲは五階についた。どうやらここが最上階らしい。階段の先に廊下はなく、小さな扉があった。アルゲがドアノブをまわしてみると、鍵はかかっていなかった。扉を開けるとそこは屋上だった。扉の先から、タイル張りの床と、明るい青い空が覗いていた。アルゲはしめたと思った。部屋から出ると、一段の石段が彼女を迎えた。それをゆっくりと降りて、屋上のタイルに靴をつける。
屋上の端はアルゲの腰くらいの手すりが据えられている。アルゲはそこまで駆け寄って、手すりに手を置いた。あたりの光景を眺めてみる。アルゲは外がすごくきれいだから、思わず息を吐いた。その時、またそよ風が吹き始めて、アルゲの髪をなびかせた。
このホテルの名前を、「ホテル スカンディナビア」という。ホテルは小さくて、小ぎれいだが所々に時代を感じさせた。ホテルは海沿いの平原に建っている。この平原も心なしか狭く、一方を海に、残り三方を丘陵に囲まれていた。
この屋上からは海がよく見える。海岸線は岩場で、大小の荒い石が積み重なったり転がったりして、磯を形成していた。海の少し沖の方にいったところでは、側面が滑らかに削れた、切り立った大岩がいくつも海面から突き出ていた。
アルゲは振り返る。屋上の空間越しに、背後の丘陵が見える。
平原は三方を丘陵に囲まれている。ずっと向こうに丘陵の稜線が見える。丘はなだらかだったがそれなりに高い。その丘のさらに向こうは黒々としていて、森があるのだとわかった。丘の稜線は平原を囲む形で湾曲し、両端とも海近くまで伸びていた。
――ここは閉鎖されている。なだらかな、美しい丘によって……。
アルゲはふと、そんなことを思った。
アルゲは再び、視線を眼下の草原に戻した。芝草が時折吹く風に揺られている。平原一杯に低い草が豊かに生えていた。
アルゲはしばらくこの光景を見ていた。
そういえば、今は何時だろうか? アルゲは自分の部屋でも、一階のロビーでも壁掛けの時計を見つけていた。でもおかしなことに、一度もそれに気を取られたりはしなかったのだ。自分では落ち着いていたつもりだったのに、実際のところは時間など気にする余裕すらなかったのかもしれない、とアルゲはふと思った。
アルゲは深呼吸する。胸の高鳴りはない。それどころかやけに落ち着いている。心臓は余裕をもって、ゆっくりと心拍を打つ。……それでも、確かに自分は……もしかしたら慌てていたのかもしれない。……無理もない。自分は、今日からここでまだ見ぬ人たちと三十日間を過ごさなければいけないのだから。
そして、これから来る三十一日目の「晴れやかなる日」を相客たちとともに待つ。
アルゲは振り向いて、手すりにもたれた。少し肌寒い。アルゲは外套を羽織っていない。これからはどんどん寒くなる一方だろう。冬はもう目の前に迫っている。




