1. 序論:あるいは、誤謬についての無駄話
この世界なんてモノは、誤解と錯覚と、ほんの少しの言葉遊びで構成されている。
そう定義してしまえば、喩えば『殺人』なんてものは、究極のコミュニケーション・エラーに過ぎない。
これもそんな例えばの話だ。
目の前に「赤」と「青」のスイッチがあるとする。
片方は世界を救い、もう片方は世界を滅ぼす。
――君ならどうする?
普通の人間は、まず説明書を探すだろうか。
あるいは、賢明な第三者に助言を求めるかもしれないか。
だが、あいにくと僕たちのいるこの閉じた部屋――物理的な意味でも、精神的な意味でも――には、説明書もなければ、賢者もいない。いるのは、僕と、今まさに死につつある老教授だけだ。
教授は天才だった。
論理学の権威で、確率論の悪魔で、そして僕の恩師だった。
過去形なのは、彼が五分後には死体へとジョブチェンジすることが確定しているからだ。
僕が盛った遅効性の神経毒によって。
さて、ここからが本題だ。
僕はこの殺人を、単なる物理的な生命活動の停止措置にはしたくなかった。もっと高尚な――そう、喩えばひとつの『講義』にしたかったのだ。
だから僕は、彼に最後のチャンスを与えた。
テーブルの上には二つのカプセル。
右は解毒剤。左はただの砂糖菓子。
確率は二分の一。
だが、これは運のゲームではない。
論理のゲームだ。
「先生、僕は嘘つきです」
僕は薄れゆく意識の中でこちらを睨む教授に、出来る限り恭しく告げる。
「これから僕が、どちらが解毒剤かをお教えします。ですが、僕は嘘をつくかもしれないし、本当のことを言うかもしれない。僕が『どちらを飲ませたいと思っているか』、そして先生が『僕の思考をどこまで読んでいるか』。その読み合いです」
教授は脂汗を浮かべながら、ニヤリと笑った。
ああ、やっぱりこの人は狂っている。
死の淵にあってなお、このパズルを愛しているのだ。
「右が解毒剤ですよ」と、僕は言った。
教授の目が、高速で思考を回転させる。
――あいつは私を殺したい。なら、嘘をつくはずだ。だから左が正解か?
――いや、あいつは私がそう裏読みすることを見越している。なら、裏の裏で、正直に右が正解と言っているのか?
――待て、あいつの性格なら、さらにその裏を……。
無限に続く推論の螺旋。論理の迷宮。
やがて、タイムリミットが来た。
教授は震える手で、一つのカプセルを掴んだ。
そして、最期にこう呟いたのだ。
「……だから、これでいい」
彼はカプセルを飲み込み、そして十秒後、予定通りに絶命した。
僕はその美しい死に顔を見下ろしながら、勝利の余韻に浸った。彼は間違えたのだ。論理の果てに、誤った選択をした。
完全犯罪の成立だ。
――とまあ、そんなふうに考えていた時期が、僕にもありました。




