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日陰者たち  作者: YAMAGUCHI
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第一話 水墓の街

1.水墓の街

 いつの間にか、見知らぬ街が目の前に広がっていた。

 私はその車道の真ん中に立っていた。

 雨が街を打ち続けている。

 見上げると雲がまるでこの街の支配者であるかのように、重く、深く、空の全てを覆っていた。その雲のせいで、街は薄暗く、彩度を一段と下げたようだった。

 ここはどこだ。

 周りを見渡す。車道の左右には歩行者用の道、街路樹やガードレール、電柱が見える。それだけなら、ごくありふれた、普通の街のようだ。

 でも、道沿いの敷き詰められるように並んだ建物は異様だった。そのどれもが同じ形、商業ビルほどの大きさのくすんだ黒灰色の立方体だったのだ。建物に入り口や窓などの凹凸は見られなかった。

 そのオブジェのような物体にめまいのような既視感を抱いた。

 そうだ、このヘンテコな建物は、墓石みたいだ。

 それにぞっとして、私は、歩き始めてみることにした。じっとしているとここから出られなくなるような、いやな予感がしたからだ。

 そうして、しばらく歩いてみても、景色は変わらなかった。道は、辿っても辿っても、定規で線を引いたかのように真っすぐで、どこまで続いているような錯覚を引き起こさせた。

 墓石の背後には、巨大な山が影のように広がっていた。歩いていけばいつか、そこに辿りつくに違いない。

 そんなことを考えて、進み続けていくと、ようやく道に変化が出た。

 今まで歩いてきた道とは、垂直に交差する新たな道が現れた...十字路だ。

 そこには、信号や横断歩道といった道路交通を利便にするものは一つも見当たらなかった。

 やっぱり、この街はおかしい。

 私はその中心まで行くといったん止まり、四方の道を順繰りに見回した。だが、どの道にも大きな変化はない。同じような、墓石が並ぶだけ。

 ここで、疑問が浮かんだ。

 ここは、夢なのか? そうだ夢だ。何で今まで思い立たなかったのか。

 いや夢にしてはあまりに生々しいからだ。と冷静な部分で自問自答をした。

 ほっぺをつねると夢から覚めるというおまじないを思い出した。

 頬を思い切りつねってみた...ほのかな痛みが浸透しただけだった。


 べこっ


 突如、断ち切るかのような、鈍い金属音が響いた。

 その次に、がらがらがら と、何かが転がるような音が空気をつんざいた。音は、私の背後にある道からした。

 この街に自分以外の存在がいるのか? 体温が下がる。緊張が体を巡った。

 落ち着け。落ち着け私。

 一旦深呼吸をして、恐る恐る音のしたほうを振り返ってみる。

 見ると、車道にマンホールの蓋、いや蓋だったものが転がっていた。それは、捻じ曲げられ、酷く歪んでいた。

 急いで歩道に目を向ける。さっきの蓋あったと思われる場所に、ぽっかりと下水へと繋がる穴が見えた。

 どうやらそこにあった蓋が、突然押し上げられるようにして、こじ開けられたのだと理解できた。ならば、"何が"押し上げたのか? 


 ごぼごぼっ


 疑問に答えるように、泡が立ち上っていくような音がして、その暗い穴から透明な水のようなものが這い上がってくるのが見えた。

 その動きには、確実に意思が存在した。そう、その水は、生きていた。

 意思を持った水。その未知への恐怖に、私は目を奪われてしまった。

 その"水"はよく見てみると、ねばりけがあった。どうやら液体というよりは、粘体のようだ。

 その生きた粘体は、巨大な蛇のような形をしていて、するするとマンホールから這い上がった。そしてその蛇のような形は自在に凝縮し、やがて別の形を作った。

 時間にして数秒足らず。粘体は新たな形に姿を変えた。背丈は2 m程、横幅はマンホールの穴ほどになり、そのシルエットは下から上に向かっていくほど、なめらかに細くなっていく。そして、それの頂点付近はつるりと丸みを帯びていた。

 まるで、布を被ったお化けがそのまま透明になったみたいな形だった。

 粘体は、その奇妙な変身を終えると移動を始めた。その形状を維持するようにずるずると、驚くべきことに私の方へ接近していき、目の前で止まった。

 粘体はそのままじっとしていた。私は、衝撃と恐怖で動けなかった。

 その静止から数秒経つと、突如粘体の形状がまたも変わった。その頂点部分が伸びるようにして蠢き、腰の曲がった老婆のように、私を覗き込む形に変わった。

 そこで、恐怖は限界に達した。

 逃げたい。逃げたい。助けて。

 だがこんな時にこそ、私の意地、ちっぽけなプライドが働いた。

 逃げてたまるか、こんなやつに負けてたまるか。

 未知のものに対する、判断の不正確さ、つまり蛮勇だった。

 それに押され、私は粘体のその頭(と思われる)部分をじっと睨んでやった。その、にらみ合いは、どれくらい長く続いただろうか。

 刹那、粘体が急激に動き始めた、と気づいたのは猛烈に吐き気に襲われた数瞬あとだった。

 その感覚でようやく粘体が、その頂点の部分から私の口目掛けて飛び込んできたことを遅れて把握した。そのまま粘体は喉から体へと侵入していった。

 体全体がこの異物を排除しようとし、その反動の苦痛を私に浴びせかかった。

 目元が情けなく潤んだ。

 そのまま屈服するように足を折り、へたり込む。さっきまでのちっぽけな意地は、この苦痛で、小さく、くしゃくしゃになった。

 その無力感をあざ笑うかのように、熱病のときのような、吐き気がさらにボルテージを上げた。

 くるしい、くうき、くうきがほしい、だれか、だれか、くるしい、くるしい、たすけて...


2.日常と放火魔

 突然、喉の不快感が消えた。同時に、新鮮な空気が肺へと入ってきた。

 瞼を急いで開ける。飛び込んできたのは、ほの暗い、いつもの天井だった。

 顔を横に向けた。灰色の光が薄手の白いカーテンを貫通して差し込み、私のベットを照らしていた。

 上半身を起き上がらせて、机にある時計を見た。7:35分。

 私は、荒い息を弾ませながら喉を触った。

「夢か...」

 安堵したのも束の間反動のようにさっきの喉の違和感が来た。私は布団から飛び出すと、急いで部屋を出てトイレに駆け込んだ。

 そして、便器に向かって吐いた。

 自分がなんだか情けない生き物になったような恥辱と、生理的に逆行したような喉の違和感で涙がこみ上げた。吐き終わると、そのまましばらく便器に突っ伏すようにして顔をのぞかせ、その吐しゃ物をぼんやりと覗いた。

 少しの間そうしていたが、いつまでそうしているつもりだと自分を鼓舞して、なんとかリビングへ向かった。

 リビングはいつも通り電気はついておらず、カーテンも開いてない。薄暗く、嫌になる光景。自分のいる場所が真に現実だということがよおく分かる場所だ。

 机には、"先に仕事へ行ってます。"とメッセージシートに添えられるように、サランラップでくるんだおにぎりと弁当が置いてあった。 

 電気代を節約するよう母がうるさいので、薄暗いまま、サランラップをぺりぺり剥がし、朝食のおにぎりへと取り掛かった。

 いつもに増して今日は特段と食欲がなかった。あの夢の感触がまだ喉にざらざらと残っているみたい。

 結局、出されたおにぎりを一つだけ食べて、あとの二つは残してしまった。

 残したら後で母が文句をいうだろう。悩んだあげく、残飯は便所に流した。


 学校へ行く身支度を整えると、玄関のドアを開け、共用廊下へと出た。私の住居は、団地の5階部分だから、この廊下から見える景色は、街を俯瞰して見ることができた。

 その景色が昔は好きだったことを思い出すと、立ち止まって眺めた。

 目の前にある大きな自然公園、駅前に建った新築のマンション、そして遠くに見える砂時計のような給水塔。

 今日は分厚い曇天なので、それらもだいぶ彩度が落ちて、のっぺりとした印象を受ける。

 今じゃ見飽きた、なんてことない風景。

 でも、今日はあんな夢を見たからか、こんな風景でも、目に留まる。それは、自分の知っている場所に戻ってきた安堵感だったかもしれない。


 団地を出て、さっきまで下にあった自然公園を、横目に歩いていく。しばらくすると、やがて商店街に差し掛かった。

 そこに、私と同じ制服を着た、見慣れたロングヘアの背中が見えた。

「おーい。よーこ」

 私は、その背中に向かって声を張り上げた。それに気づいて、大神洋子───私の中学のころからの付き合いになる、唯一の友達は振り返った。

 彼女の特徴でもある長い前髪が、風に揺られてはためく。この髪形のせいで彼女は、少し野暮ったい印象があった。中学からまったく変わっていない。

「和代。おはよう」

「おはよう」

 私は、早歩きで洋子の横へと陣取った。その時洋子はじいっと、その垂れ目ぎみである瞳で私の顔をまじまじと見ていることに気づいた。

「洋子?」

 思わず私は洋子を見つめ返す。洋子はいつもの困ったような顔を私に向けている。その彼女は、下がり眉なので、普段から困ったような顔である。私にはその顔がとてもかわいいと思うのだが、そのせいでよく舐められやすい。

 そんなことを考えながら、しばらく見つめ合う形となったが、とうとう洋子から口を開いた。

「どうしたのその顔。顔色悪いよ」

 洋子は観察力がとても鋭い。すぐに、私の不調を見破ったようだ。

「ああ、分かる? 今日食欲なくてね、それもこれもあの夢のせいなんだけど」

「夢?」

「そう。ドロドロの化け物に口から入り込まれる夢。あー思い出しただけで、気持ち悪くなってきた」

「大丈夫? 無理してない? 休むようだったら、先生に伝えておくよ」

「大丈夫。大丈夫。そんなに顔色悪いかなあ」

 流石に、吐いたことは言えそうになかった。これ以上洋子を心配させるのも酷だ。話を切り替えることにした。

「あー、そうだ借りてた本返すよ」

 カバンから彼女に借りていた本を取り出して、それを返した。私と洋子、唯一共通の趣味として読書があった。そうして、よくお互いが読んだ本を交換していた。

「それ読んだけどさあ、あのトリックはミステリーとしてないでしょ」

「うーん...トリックは確かにそうかも知れないけど。でも、注目してほしいのはストーリーのほうで」

 読んだ本の感想を言い合うとき、大抵の場合、私が好き勝手に言って、洋子がそれを擁護するという流れになる。

 私はいつものごとく調子に乗り始めていた。後から思い出すと恥ずかしくなるのだが、こういうのは一度言い出すと止まらなくなるのだ。

 そのままの調子で大仰に感想もとい、いい加減な戯言をのたまっていた、その時。

 突然、右手がひやっとした感覚がした。急いでそこに目線を向けると、右手の掌にぷっくりとしたこぶし大の、水滴のような塊が浮かんでいるのが目に入った。

 私は確信めいて、それがなんであるかすぐに気づいた。

 夢の中で見たあの粘体だ。

 そう気づいた瞬間に、それは直ぐに、手の中に吸い込まれるようにして消えた。

 時間にして、この出来事はわずか数秒もなかった。

 それでも、私は心の中が酷く底冷えするような感覚がした。まだ自分の夢が続いているような、もしくは夢が現実に入り込んできてしまったような、そんな妄想が頭を走り出す。

「和代? どうしたの?」

 呆然と手の甲を見ていたので、洋子が気になりだしたようだ。

「なんでもない」

 私は、かろうじでそう答えた。そうなんでもない。そんなバカなことあるはずないもの。


 さっきの出来事に気を取られ、上の空のまま学校へ着いた。私の通う高校では学年ごとに、下駄箱は別れており、私達の学年は校舎の一番左端っこに位置していた。正門から一番遠い位置にあるため、少し不便だ。

 洋子は同じ1-Bのクラスメイトだ。下駄箱に靴を置くと、そのまま一緒に階段を上ぼり、3階にある私たちの教室へと向かった。

 その途中2階の階段の踊り場と廊下の間は、黄色いテープが貼りめぐらされていて、立ち入り禁止となっていた。先日、二階の廊下床が抜けた影響で通れなくなっているのだ。廊下には一応、青いビニールシートで覆われているものの、まだまだ頼りない。

 うちの学校のこういうぼろっちい所がなんだか貧乏くさくて嫌いだ。

 階段を上りきると、左側は突き当りとなっているため、そのまま右へ進む。

 その際、1-A教室を通ることになる。

 うちの学校では、学年ごとにコースが決まっており、成績優秀者は特別進学コースへ、それ以外は進学コースへと振り分けられている。特別進学コースは一クラスのみで、私たちのクラスは、1-A教室の向こうにあるので、遠回りをしない限りはどうしてもそこを通ることになる。特別進学コースは、その名の通り特別待遇なので、いち早くタブレット支給になっていたり、部屋の掃除が免除されていたりするのだ。

 彼らは私達と違って、勤勉で朝早くから学校に来て自習をしている。そんな彼らの横を通るとき、私はどうしても自分が間違っているような気がして、気がひけてしまう。


 教室へ着くと、いつにも増してクラス内は騒がしかった。どうやら、放火魔の新事件で話題で持ち切りなようだ。今度は、コンビニの雑誌に火をつけたらしい。

 ここ一か月立て続けに何者かの放火が続いていた。最初は、私の住んでいる団地のゴミ捨て場から、次は駅前のスーパーの総菜コーナーのコロッケと、どんどんエスカレートしてついには市役所の旗までも燃やしたのだ。それらは、手口がすべて同じだということから同一犯とみられていた。そして奇妙なことに、目撃者曰く、急に火が付いたような、まるでそこから自然発火したような燃え方だった、という証言が後を絶たなかった。放火魔自体を目撃したものはいまだに誰もいなかった。

 いまだに死者は出ていないものの、学校ではそれについて注意喚起が書かれたプリントが配られたりと、緊張感のある対応がされていた。ただそれに反して、学生たちは、不謹慎でミステリアスな放火魔の出現に色めきだっているようだ。

 今日もそうだ。みんな思い思いに放火魔の憶測や正体について好き勝手なことをのたまっている。

 私は、そんな危機感がない態度に苛立っていた。じゃあお前はどうなんだ、その危機感とやらを持っているのか、と言われたら返す言葉もないのだけれど。


 そんな放火魔が世間を騒がしても授業はいつも通り進んでいくようで、あっという間に昼休みになった。あの夢の影響でまだ弁当を食べる気にならなかったので、授業が終わるとそのまま本を借りに図書室へ行った。図書室は、昼休みが始まったばかりなので、私以外に司書さんがいるぐらいで閑散としていた。そこで、悩んだあげくアガサクリスティのアクロイド殺しと、山田風太郎の太陽黒点を借りて図書室を後にした。

 私は本を借りたときの、その腕にかかる重さが好きだ。

 なぜだが、達成感のような胸に上るようなほくほくとした感じが上ってくる。その温かさは教室に戻ったとき、急速に冷えていくのが感じられた。

 私の机に、憎らしいバカ3人組、雲母かすみとその取り巻きの恩田しおん、坂田真理子がたむろしているのが見えたからだ。こいつらの名前は、嫌でも覚えてしまっていた。

 雲母かすみは、私の席に陣取って座っている。金髪の髪に赤と青のヘアピン、校則で禁止している化粧、ピアス、そしてスカート丈を短くしている、品のない格好だ。雲母は、私の机の上でパイの個包装のお菓子を広げて食べていた。

 食べかすが、私の机へとぽろぽろと落ちていく。残りの二人も、おそらく誰かの椅子を勝手に借りて私の机でおしゃべりをしていた。時折、雲母のつんざくような不快な笑い声が響く。

 そもそも自分たちの席があるのに、わざわざ居座っているというのは、いつもの私達に対する小さな嫌がらせのつもりらしい。げんなりした。

 そのまま背を向けて図書室へ戻ろう、引き返そうとしたその時、雲母と目が合った。雲母は一瞬、嘲るような目線で私を見た。そして、再び取り巻きとのおしゃべりに戻った。

 そこで私の小さなプライドは、戦うことを主張し始めた。

 一回深呼吸をすると、覚悟が決まった。私は、教室のドアを背に、自分の席へ向かった。

「あのーここ私の席なんだけど。ちょっとどいてくれないかな」

 私は、精一杯不愉快な気持ちを抑えながら、雲母に話しかけた。

「ああ~ごめんねえ。いまここ、使用中~」

 雲母が特有の語尾を引き延ばした、悪意あるネコナデ声で答えた。

「いやでも、そこは私の席なんだよ。それに、お喋りなら別の所でできるでしょ」

「えーでも。今食べてるよ」

 雲母はわざとらしく手に持っていた、小さいパイをボロボロと机にこぼす。

「いいじゃん。別に自分の席にこだわらなくても。本読むぐらいなら図書室でもできるでしょ」

 雲母の隣にいた恩田が、私の抱えている本を冷ややかに見ながら加勢した。ヘアピンで前髪を止めおでこを出している気を使った髪形、可愛らしい顔立ち、とは裏腹に性格は雲母同様、いやそれ以上に悪いかもしれない。恩田は、いつも雲母のついて回るコバンザメのようなやつで、いつも余計な口を挟む。

「それでも、私の席を勝手に使うなんて非常識じゃ」

「あーうるさいなあ」

 私が別に大声を出したわけでもないのに、恩田は周りに聞こえるようにわざとらしくそう言った。

「私達が楽しく喋っているときに、水を差して。そういうのめんどくさいからやめな」

「おとなしくさあ、空気読んだほうがいいんじゃない?」

 恩田に続けて、雲母もそれに続けるように言った。坂田も何か言ったが、ごにょごにょしていて聞き取れなかった。坂田は、他二人よりも、おしゃれに気を使っている感じはしない、ショートボブの地味で目立たない印象の子だった。

「とにかく、非常識でしょ。自分の席があるんだし」

 気が付くと、自分でも驚くほど強い声でそう言っていた。眉に皺がよるのが自分でも分かる。黒い煙が心がわだかまるような、いらだちが体を駆け巡った。

「怖ー」

 恩田が、わざとらしくそう言った。

「ところでさあ今日放課後集まらない? あー携帯、充電ないやあ。どーしよお」

 雲母は、会話を打ち切るようにして、別の話題を振った。どうやらここから、無視を決め込むつもりらしい。

「うーん。今日はちょっと用事あるからいけないかも」

 坂田が会話を続けるようにフォローに入った。

「あのさあ。聞いてる?」

 私は、諦めず声を掛けてみたが、雲母たちはすでに私たちを意に返すことなく会話を続けた。どうやら無視を決め込まれたらしい。

「あのー」

 そこで私のほんの小さな勇気はかき消えてしまった。私は、白旗振って、逃げるようにその場を去ろうとした、そのとき。

「和代の言う通りだよ。そこの席、空けてくれる?」

 後ろから洋子の声が聞こえた。

「いや。いいんだ」

 私は振り返って、焦りながらそう言った。これ以上、面倒なことになりたくなかったのだ。

「別に遠慮することはないよ。だって、そこは和代の席でしょ? だったら、持ち主が優先して使う権利があるよ」

 このとき、洋子がいつもの困り顔ではなく、仏頂面のように変わっているのに私は気づいた。それは、洋子が真剣になったときに見せる表情だ。そうなると、おどおどした態度は消え、垂れ目がきりっとし、下がり眉が持ち上がって平衡になるのだ。

 私は洋子を止めるのが、不可能に近いことを悟った。

「権利、権利って。バカじゃないの。第一今食事中なんですけど」

 恩田が、雲母たちの会話から離れて、嘲るようにそう言った。

「でも別に、それくらい自分の席でも食べられるよね。念のため、もう一回言うよ。そこはあなたたちの席じゃない。和代の席だよ」

 洋子はこのヤジにも怯むことなく、真っすぐな目で言い切った。一瞬、恩田の表情に緊張が走るのが見えた。

 ここから、洋子の馬鹿正直な長い説得が始まった。至極丁寧にひたすら、私の机を不用意に使うべきではないこと、逆に彼女たちのどこが間違っているのかをこんこんと説明し始めたのだ。

 10分後ようやく、雲母たちはばつが悪そうに私の机から出ていった。

 でも、譲られた時点でお昼休みの時間はもう残り3分しか残ってないのだった。

 洋子のやったことはいわゆる有難迷惑ってやつだ。それでも、私の席一つのためにそこまでしてくれることが、なんだかこそばゆかった。


 そもそも、雲母達と私達がなぜこんなにもいがみ合うようになったのか。その因縁は、4月下旬までさかのぼる。

 3人グループのリーダー的存在でもある雲母は、中学の頃から軽犯罪程度なら何でもやっていたらしい。高校になってもそれは変わらず続けていた。だが、ある日学校近くのコンビニで万引きしている所を、偶然洋子に目撃されたのだ。当然、正義の人である洋子はすぐさまこのことを店へ通報した。

 結局のところ、雲母はお情けという形で無罪放免となった。それには、雲母の家がお金持ちであることが関係あったのかもしれないと、私は睨んでいる。ともかくそれ以来、雲母は逆恨みと言った感じで洋子のことを嫌うようになった。そしてその対立に、洋子と親しい私も巻き込まれたというわけだ。

 高校に進学すれば、こういう他人の足を引っ張るようなアホと縁が切れると思っていたのはどうやら勘違いだったらしい。


 放課後、またも私と雲母らにひと悶着があった。

 授業も終わり、いつも通り洋子と一緒に帰ろうとしたのだが、彼女は今日、掃除当番らしい。仕方なく教室の外で、掃除が終わるまで廊下で待っていると、そこに雲母と恩田がいた。坂田は、もう先に帰ってしまったらしい。

 そこで、雲母は廊下にバッグを置いて何やら探し始めた。最初は、バッグに手を突っ込むだけだったが、次第に焦り、ついには、中のものまで出し始めた。

 かき回した中には、学校の教科書の他にも、ヘアスプレー、化粧道具、その他もろもろが床に散らばっていった。

「ない。ない。ケータイがないよお」

 雲母が情けない声をあげて喚いた。

「えー」

 恩田が、呆れたように答えた。

「ちゃんと入れてあったのにい。ねえ恩田ので動画撮れない?」

「この前、ケータイ先生に取られちゃったから。そうだ雲母ってスペアの携帯持ってたでしょ」

「あれは家だし。スペックが良くないもの。ああケータイどうしよお。あれないと撮れないよお」

 情けない声を上げて雲母は頭を抱え始めた。どうやらいつも通り、ネットに動画を上げるために携帯が必要らしい。私には、わざわざ自分の動画というものをネットに上げる意味がよく分からなかった。そのアホずら晒して、一体何になるんだろうか? 

「入れたはずなんだたけどなあ」

 まだそんなことをぼやいている。ざまあない。思わずにやけてしまった。

「何見てるの」

 取り巻きの恩田が私に向かって言った。あわてて表情を戻した。

「いや別に」

 しばらく恩田はこっちをにらみつけたが、やがてぷいと顔を背けた。

 その一瞬、きもっ、とつぶやいたのを私は聞き逃さなかった。

 なんだとお。

 思わず反論しそうになったその時、掃除が終わったのか洋子がやってきた。

「お待たせー」

 その一声で、私は意識を切り替えた。

「何かあったの?」

「いいや何も」

 そうして、私と洋子はその場を後にした。ちらりと雲母を見たが、まだ携帯を探しているようだった。

 それが、私が運母を見た最後の姿になった。


 私達の教室がある3階から洋子と階段を下りて、下駄箱に向かう。この時間になると、ほぼ帰宅しているか、それか学校に残っているかで下駄箱は閑散としていた。

 そこに、一人見慣れた顔がいた。雲母の取り巻きの一人、坂田だ。

 なるべく目を合わせないように通り抜けようとしたその時、上から金切り声が聞こえた。どうやら運母が携帯の見つからないことに、とうとう癇癪を起したらしい。

 坂田は階段の先を見上げると、ふうとため息をついて、

「わざわざケータイ無くしたぐらいでああなるかなあ」

 とぼやいた。坂田は、雲母にひっ付いてはいるものの、気が弱くいつもいびられ気味だった。不満がないわけじゃ当然ないみたいだ。

「だよね。まったくばかばかしいったらありゃしない」

 ここで同情心が沸いたので、私は珍しく坂田に向かって、話しかけることにした。坂田は意外な顔をしたが、すぐにニヤリとすると話に乗ってくれた。意外とノリがいいらしい。

「私、ケータイ持ってないんだ。家族も持ってないし。そんなにいいもんかなケータイ」

「奇遇だ。私も持ってない」

 私も同じ調子で返事をして、

「そういえばどうしてここに? てっきり昼の話から、今日はもう帰ったのだと思ったんだけど。まさか雲母と一緒にまた動画でも撮るの?」

 上の雲母を嘲るように言ってみた。

「そんなわけないでしょ。うちの教室に忘れ物取りに来ただけ。第一あんな動画、誰が見るかよ」

 ねえ、と坂田付け足した。私は大いに笑って、洋子はあいまいな笑みを返した。

 やっぱり坂田も雲母のことが苦手らしい。

 ここでこの感情を共有出来たのは嬉しかった。もう少し話していたかったが、それじゃ、と言い残して坂田は下駄箱目の前の階段を上がっていった。


 ☆

 その夜、サイレンのうなる音に私は起こされた。ベットから横目に時計を見ると、夜11時。

 カーテンごしの窓は、まるで真昼のように明るかった。

 いや明るすぎやしないか。

 そこから跳ね起きると、すぐさま部屋を出て、その足で玄関へ向かう。すると、すでに玄関のドアは開いていて、その先には母がいた。

 煙の臭いがむあっと、部屋まで入ってきた。

 そして柵の隙間から、自然公園が燃え盛っているのが、はっきりと見えた。

 母は、柵にもたれかかるようにして、その目下に広がる巨大な焚き火を見ていた。

 サイレンが団地の壁に響く。時折、怒号や悲鳴がどこからか聞こえる。炎がぶつかり合うパチパチとした破裂音。その炎が空気をかき混ぜたことでできたうなる音。

 それらの音が無節操にこの私達の部屋の前まできていた。

「お母さん?」

 声を掛けるが反応は返ってこない。母は、広がる炎の海から意識を離せないようだ。私はそれにつられるようにして、母の横に同じようにして柵にもたれついた。そうして私は母と同じように、何も言わずにその光景を見続けていた。



3.昼間の卑怯者

 翌日朝の、学校での騒がしさかったことは、言うまでもないだろう。教室に入ると、誰も席に座らず、あちこちで昨日の火事についてあれやこれやを言い合っていた。そして異様だったのは、みんなが雲母の席をちらちらと見ては、遠巻きにしている態度であった。何かと思い喧噪へ耳を傾けると、衝撃的な内容が飛び込んできた。

「雲母さん。昨日の火事に巻き込まれて亡くなったみたい」


 急遽1時間目の授業は中止となり、全校集会が開かれた。異様な空気のまま体育館に集められそこで、重々しい前置きの後、校長から雲母があの火事に巻き込まれて死んだことを聞かされた。その時になってようやく、私は雲母が本当に死んでしまったのだと理解することができたのかもしれない。

 校長は薄っぺらいお悔やみを言って、巷を騒がしている放火魔に気を付けること、そして登下校の際の短い注意喚起をして終わった。ただ、それだけだった。

 なんだか、納得できなかった。私は雲母が嫌いだったが、いなくなってほしかっただけだ。何も死ぬことはなかった。


 集会の後、学校が休みにならないかと密かに期待してみたが、そうはならないらしい。2時間目からは、授業は変わらずに進んでいく。

 まとまりのつかない感情の中、一つだけ気になったことがあった。恩田が私のことを見ているのだ。それに気づいたのは二限目だった。その授業中、なんの気のなしに後ろを振り向いてみると、恩田と目が合った。   そこで、どうやら恩田はずっと私のことを睨んでいたらしいことが分かった。

 確かに、私と恩田は仲が悪いのだが、それだけじゃない異様さを感じていた。その疑問の答えが分かったのは、昼休み洋子と図書室へ行く途中だった。

「ちょっといい?」

 恩田の顔は明らかに苛立っていた。

「何?」

「ここじゃ話ずらいこと。場所を変えましょう」

 そうして私達は、校舎でもめったに人が通らない、屋上へと通じる階段へと移動した。うちの学校では通常屋上は立ち入り禁止になっている。

 だから、ここには滅多なことで人は来ない。そんなところに呼びだしたということは、よっぽど重要な話らしい。

「それで話ってのは?」

 私から切りだしてみる。するとここから恩田は、衝撃的なことを言い出したのだ。

「単刀直入に言うけど、雲母を殺したのはあんたでしょ」

「はあ?」

「そう、あんたが携帯盗んで、そして雲母に火をつけた放火魔でもある。そうでしょ?」

 恩田は蔑んだような目で私を睨んだ。

 雲母を殺した? 放火魔? まったくわかなかった。

「ちょっと待って。なんで私が」

「放課後、馬鹿にしたように見てきて。してやったりって顔だった。あの時から何かおかしいと思ってたんだよね」

 どうやらかなりお怒りらしい。私は口をパクパクさせながら、言葉が出なくなった。

「あの、恩田さん。そもそもなんで、和代のことを殺人犯だと思ったの?」

 洋子が、落ち着いた様子で、助け舟を出してくれた。

「昨日、雲母のスペアの携帯から電話が来たの。」

 恩田はそう答えると、昨日の火災前の雲母とのやり取りを私達に話し始めた。


 恩田によると、電話がかかってきたのは夜10時を少し過ぎたあたりだったようだ。

「携帯盗んだ犯人を見つけたよお。今奴と森林公園で会うところ。」

 携帯に出ると開口一番、雲母は嬉しそうにこう言ったそうだ。

「盗んだって、ああ雲母がなくしたって言ってたやつね。よく見つけたね。どうやって分かったの?」

「うちの携帯のGPSが切られてなかったからねえ。それで見つかったんだあ。盗むとき、GPSと電話の通知は切っておくものなのに。バカだよねえ。」

「で、それで誰なの。盗んだ犯人は?」

「うーん誰だと思う? 名探偵さん。当ててみて。」

「そういわずにさあ。教えてよ。」

 そこからしばらく雲母は、はぐらかしたらしい。そうと分かると、恩田はその時は追求せず、話を日常的な雑談へと切り替わっていった。

 そして、異変が起こったのは、電話の開始から数十分ほど経ったころだった。

「というか、坂田あいつ付き合い悪いよねー。結局今日も断ってたし。雲母もそう思わない?」

「まあねえ。うーん。中々来ないなあ...わあっ!」

 その時、雲母の悲鳴の後、がさがさっと急に大きな音が電話から聞こえた。

「雲母! どうしたの?」

「ああ、ちょっとお、びっくりさせないでよ。」

 どうやら、雲母の言っていた相手がいきなり来たようで、それで携帯を取り落としてしまったらしい。

「ねえ雲母?」

「もしかして、後ろから全部聞いてた? 。ごめんごめん。」

 雲母はどうやら携帯での恩田との会話よりも、その盗んだ相手との話に熱中しているようだった。盗んだ相手の声はスペアの携帯から遠いのか、携帯を通して、音を拾うことはできなかった。

「ねえそこにいるのは誰なの?」

「誰にもあのことは言ってないってえ。.....そうそう、返してもらえれば十分なんだからさあ。....え? 何で分かったかって......帰ってGPSで確かめたんだよ.......でもあれは、見つからなかったでしょお、当然ちゃんと隠してあったから.......壊した! 私の携帯! はあああ、ふざんけんなよ。まったくあんたみたいな卑怯者前から嫌いだったんだ。今日の昼だって...」

 そして、その会話の後は続かなかった。次の瞬間、甲高い悲鳴が恩田の耳へと入った。それは間違いなく雲母の声だった。

「どうしたの! 大丈夫! ねえ雲母?」

 それにこたえる声はなく、それに代わって奇妙な音が聞こえ始めた。最初は、ぱちぱちぱちと何かがはじけるような音がしたかと思えると、やがてそれはどんどん増幅されていき、ついには、ぷつんと電話は切れてしまった。

 恩田は急いで、警察へと電話を掛けた。それと同時に、急いで公園へと駆けつけると、すでに公園は燃え盛っていたのだ。


「なるほど。携帯盗んだ奴が直前まで現場にいて、おそらく口論の末、火をつけたのもそいつだから、犯人ていう理屈は分かったよ。でも、なんでそれで私が犯人ってことになるの?」

「そりゃ携帯盗むぐらい恨んでいる奴なんて、あんたぐらいしかいないでしょ。それにあの自然公園はあんたの団地と近い。雲母はGPSで場所が分かったんだから、きっと集合場所その近くに行ったはず。だからきっと、雲母も集合場所に選んだ。それに」

「それに?」

「電話で雲母が最後に言ってた昼間の卑怯者って、それってあんたのことでしょ。いつも大神の陰に隠れて、情けないよね」

 ふいに、胸の中心を針で突かれたかのような感覚に襲われた。

「あんただって雲母の陰に隠れていたもんでしょ」

 つい苛立ってそう答えてしまったのは、さっきの言葉に対しての逃避だったのかもしれない。

「今、その話は関係ないよね。何、苛立ってるの? もしかして効いちゃった? ならごめんねえ」

 恩田は、私をあざける悪意たっぷりの返答をした。苛立って自分の目元が一瞬、揺れるのを感じた。

「とにかく。あんたがやったんでしょ。いい加減認めたら?」

 恩田はここぞとばかりに、さらに追及した。

「んな訳あるか! 物的証拠もないくせに。第一その話警察にしたんでしょ。だったら、そっちで勝手にやってくれるでしょ」

 ついつい乗せられて、声が大きくなった。

「警察なんて信用できると思う? 少なくともやる気はなさそうだったしね。それに、何その態度。仮にも、クラスメイトが死んだのに。あんた薄情者なの?」

 それにつられて恩田の方も声が大きくなっていくようだった。そして、ここから先は、互いに売り言葉に買い言葉だった。

「あんな奴どうだっていいでしょ! 別に死んでも」

「どうでもいいって何! 私はこれでも真剣に...」

「ああどうでもいいよ! あんなのどのみち犯罪繰り返すカスだったんだ。死んでせいせいしたよ!」

 まったく午前の雲母に対する薄っぺらい感傷もこの場では、甘い欺瞞だったことを思い知らされる。

「そんな言い方...」

「どうせ、あんたも坂田みたいに雲母が迷惑だっただけでしょ。あんただって、ホントは、探偵ごっこがしたかっただけのくせに。」

「そんなことない! ...雲母は私にとっては大事な友達だったの! もっと、もっと深刻に捉えてもらってもいいでしょ...クラスの人だって誰も、誰も」

 恩田は最後、涙目でそう言った。最後の方は声はかぼそく、消え入りそうな声で。そこではっとして、頭は急速に冷えていった。少なくとも、雲母も恩田にとっては大事な友達だったらしい。その友達を誰にも悼まれることがなかったなら...もしかしたら、支離滅裂な論理で私を犯人奴いしだしたのも、それに納得できなかった、感情が行き場をなくしただけだったのかもしれない。

 そして恩田はとうとう堰を切ったように泣き出してしまった。

 彼女の涙声に耐えきれず、そこから逃げ出したくなったその時になって、ようやく私は連れてきた洋子の存在を思い出した。

「洋子? ...洋子?」

 その時、洋子はこの騒ぎにも関わらず上の空だった。何事かをぶつぶつとつぶやいて目線はずっと下を向いている。自分の考えに没頭していて、何も見えても、聞こえていないようだ。目の焦点もおぼろである。

「おーい」

 そして私は、洋子肩を揺すり始めてみた。そうすると、ようやく気が付いたようだ。

「ああっえっああ。ちょっとかんがえごとしてて」

 急に意識がこちら側に戻ったようなので、洋子は混乱していた。そして、目の焦点が合ってくると急に何かに気づいたように顔色を変え、恩田の方へと駆け寄った。

「恩田さん? 大丈夫。恩田さん?」

 そうして駆け寄ると洋子はハンカチを恩田に渡した。恩田は嗚咽で辛うじて答えると、そのまま座り込んでしまった。

 どうやら本当に洋子には、さっきの言い争いは聞こえてなかったらしい。大した集中力だ、とこんな状況にも関わらず変な所で感心した。でもなんで、彼女はあんなにも集中していたのか? 

「和代。恩田さんに何があったの?」

 私は、気恥ずかしさを感じながら、何が起きたのかをかいつまんで話した。洋子は、話を聞き終わるとなぜか申し訳なさそうにしていた。そして、洋子はそのまま泣き止みそうにない恩田を保健室まで運びに行った。

 私は、同行する気にはなれなかったので、そのまま図書室へ向かった。あのままついていったとしても、きっと何もできなかったに違いない。

 図書室へ歩いている途中で、私はだんだんと冷静さを取り戻していった。そして、亡くなった人間に対する対応としてはおそらく最悪のことをあそこでしでかしたことをようやく理解した。そこでようやく、欺瞞でも、自分を取り繕うわけでもない本当の後悔が胸を襲った。


 結局、恩田は昼休み後、授業に出てくることはなかった。


 放課後、洋子と一緒に帰ろうとしたが、その日は珍しいことに、学校に居残ることにしたようだ。

 私は、大人しく一人で帰路についた、がここで教室に明日提出の課題を置き忘れていることに気づいた。ため息一つついて、急いで辿った道を逆戻りして、私は再び学校へと戻った。


 後から、このことを振り返ると、しばしば思うことがある。もしここで学校へ課題を置き忘れていなかったら、私自身は変わることなく過ごしていたのだろうか、と。それほどまでに、この後起こるあの事件は、私の運命をすっかり変えてしまった。


4.洋子の推理

 学校へ着くと、下駄箱から階段を上がり、3階へと着いた。そのまま、1-B教室へ向かおうとして、ふとなんの気のなしに、途中にある1-A組の教室ほうを覗いてみた。

 放課後は、1-A組のほとんどの生徒が塾に向かうため誰もいないはずだった、がそこになぜか洋子はいた。 

 私に悪戯ごころが働いた。そろりと、音を立てずに教室に入ると、洋子の後から肩をたたいてやる。

「よ・お・こ」

「ひゃあ」

 情けない声を上げ、尻もちをつくと、ようやく洋子は振り返った。

「いつから、1年A組になったのさ」

「ああ、和代かあ。ど、どうしたの」

「どうしたの、は、こっちのセリフだよ。なんでこんなところに?」

「ええと、それはそのお。特進の丸山先生に頼んで...」

 洋子の返答の歯切れが悪くなった。

「頼んで?」

 私はさらに追及してみる。

「頼んで、充電ケーブルが盗まれていないか確認してたの。」

 そしてなぜか気まずそうにして洋子はそうつぶやいた。

「何のために?」

 そこから洋子はうーん、あーと悩み始めた。どうやらあまり言いにくいことらしい。私は好奇心に駆られて、さらに聞いてみた。

「それ相応の事情があるんでしょ。聞かせてよ」

「でもお」

「お願い。この通り」

 そうして私は、両手を合わせて、頭を下げる、お願いするときのポーズを作ってみた。

 洋子はさらに数十秒ほど悩んだが、結局の所、折れたようだ。

「うーん。分かった。でも、絶対に秘密だからね。誰にも言わないって、約束してくれる?」

 このとき、洋子の顔を改めてみると、困ったようなパンダの表情から、ひどく冷静で、真剣な時に見せる仏頂面にも近い表情へと変わっていることに気づいた。洋子は真剣なまなざしで私の目を見た。

「ああ。もちろん。」

 私はその雰囲気に少し気圧されたが、ちゃんと同意してみせた。どうやら思っていたよりも大変なことらしい。そして洋子は、教室の窓側に移動して、その窓に背中をもたれかけさせた。私には逆光になっていて少しまぶしい。そうして洋子は話し始めた。

「まず、そもそも特進の丸山先生に話を聞いたのは、昨日の火災の犯人を確かめるためなの」

 ここで意外な話が出てきた。昨日の火災の犯人? 今日は、恩田といいその話で持ち切りみたいだ。

「ふうん。それで分かったの? 犯人?」

 私は、それに大して期待せずに聞き返してみた。しかし、その答えは衝撃的なものだった。

「うん」

「マジで?」

「たぶん」

「じゃ、じゃあ誰なの犯人」

 いまだ半信半疑のまま、聞いてみた。その声は少し震えていたかもしれない。

「わたしは坂田さんだと思うの」

 洋子は、重々しく宣告した。そこで、私はついにだんまりしてしまった。

「じゃあ、なんで私が坂田さんを犯人だと思ったか。そのあらましから、まず説明しようと思うんだけど。いいかな」

 そして、洋子は申し訳なさそうに続けた。

「ごめん。突然のことで」

「ああ。いいよ続けて」

 私は、落ち着かずそう返した。いや、そうだ。冷静になれ。せっかく洋子がちゃんと話してくれると言ったのだ。ならばそれに応えて心して聞かねば。

「まず、恩田さんの話覚えてる? 携帯を盗んだ人間が、犯人だって言ってたよね。だから恩田さんの証言をもし全面的に信じるなら、携帯を盗んだ人イコール殺人を犯したことになるよね」

「ああ確かにそう言ってたね」

「そう、そしてその携帯を盗んだ犯人は、おそらく坂田さん。そのことは、昨日の会話に明らかにおかしな点があることから気づいたの。坂田さんと下駄箱で話したとき、坂田さんは"わざわざケータイ無くしたぐらいで"、って、たしかそう言ったはず。でもそれはよく考えてみたら、おかしいんじゃないかな。だって、あの悲鳴を聞いて、携帯を無くしたことを知るには、雲母さんたちの会話を近くで聞いてなきゃいけないもの。でもその後、坂田さんは一旦忘れ物を取りに下駄箱に戻ってきた、って言った。だから、あそこで携帯が無くなったってことを知っているはずがないんだよ」

 言われてみれば、確かにそうじゃないか。どうして気づかなかったんだろう。

「それに、もう一つ不自然な事があるの。あの後、坂田さんは忘れ物を1-B教室から取りに行くために、たしか階段を上って行ったよね? でも、それもよく考えてみれば変じゃないかな。あの下駄箱の会話で、雲母さんのことをあれだけ嫌がっていたのに、1-B教室にいるのが分かっていて、わざわざすぐにそこへ行くとは少し考えにくい。それに雲母さんたちには、お昼休み中、今日は予定があるから一緒にいられないって断ってもいた。だったら、忘れ物をすぐ取りに行く必要はなかったはず。図書室で時間をつぶしたり、いくらでもやりようはあったと思うの」

「ちょっと待って。坂田さんがもし3階じゃなくて2階に用事があったて考えれ...あっそうか」

 私は言っている最中に、その自分のセリフのおかしさに気づいた。あの階段を上がっていったとき、2階部分は廊下の床が抜けて通れなくなっているじゃないか。

「うーんあと考えられるのは、そう、結局あんなこと坂田は言ってたけど、雲母とその後1-B教室で合流した可能性はないの?」

 私はもう一つ思いついた疑問を言ってみた。それも洋子には想定済みのようで、

「それはあり得ないと思う。恩田さんが話していた電話での会話覚えてる? 確かその中で、恩田さんは"坂田さんの付き合いが最近悪くて、今日も来なかった。"って言ってたよね。だから合流した可能性はあり得ないよ」

「じゃあ、坂田は一体どこに向かってたの?」

「ここから先は推測になるけど、おそらく坂田さんの目的は、1-B教室の手前にあるここ...1-A教室に用事があったんじゃないかな。理由はおそらく、盗んだ携帯の充電をするため。たしか昨日の昼休み、雲母さんは携帯の充電が少ないって言ってたよね。だから、携帯が盗まれた時点で充電が切れていた、もしくは切れかかっていたことも十分考えられると思う。そして、ここ特進クラスは普通のクラスと違って、授業にタブレットを使う関係で充電ケーブルが備え付けられてる。だからここで、携帯をまた使えるようにするために充電ケーブルを拝借したんじゃないかな。わたしがさっき、丸山先生に充電コードが盗まれたかを聞いたのはこのためなんだ。それで、先生に確認してもらったら、充電コードは確かに一本無くなっていたみたい。もちろん、坂田さんが盗んだとは断定できないけど、もしそうだとしたら、この一連の行動にちゃんと説明がつくと思うの」

 確かに、携帯を盗んだ前提ならば筋は通る。坂田との会話で家族が誰も携帯を持っていないことは分かっている。ならば充電コードの調達先として、この教室のものを選んでもおかしくない訳だ。

 洋子は一つ一つ、確かめるようにして言葉を紡いでいく。

「坂田さんは、きっと雲母さんに携帯をすぐ返すつもりだったんだよ。もし、自分のものにしたり、売ったりするつもりだったら、充電ケーブルをわざわざリスクを取ってまで持ち出す必要なんてないはずだから。じゃあ、坂田さんはどうして携帯を盗んだんだろう。わたしは、坂田さんが携帯に入っていた、自分にとって都合の悪いデータを消したかったんじゃないかと考えたんだ。もし、その考えが合っているなら、恩田さんが話してくれた電話の証言で、雲母さんが"ちゃんと隠した"って言ったことにも説明がつくと思うの。それは、坂田さんが欲しかったデータを隠しファイルとか、パスワードで隠してしまったことを言っていたんじゃないかな。だから、坂田さんは、そのデータが見つけられなかった。そこで、返すことを諦めて、携帯を壊すことで、中のデータを消そうとした...」

 そして、洋子の推理はいよいよ佳境へと入っていった。

「これまでのわたしの想像を踏まえて、昨日の坂田さんの足取りをまとめると、こうなる。まず坂田さんは、昼休みから放課後までの間に、雲母さんの携帯を盗んだ。そして放課後になって、学校を出てから坂田さんは携帯の中のデータを見ようとした。けれど、そこで充電が切れてしまったんだ。そこで、坂田さんは充電ケーブルを持ち出しに学校へ戻った。坂田さんはわたしと和代に下駄箱で会った後、1-A教室へ入って目的の充電ケーブルを持ち出した。こうして携帯を充電して、その中のデータを探そうとした。けれど、雲母さんはそのデータをうまく隠していたんだ。結局、坂田さんはそのデータを見つけられなかった。そこで、坂田さんは、やむを得ず携帯を壊して、中のデータを消そうとしたんだ。でも、それで終わりじゃなかった。雲母さんは、GPSで携帯の場所を見つけて、坂田さんが携帯を持っていることに気づいた。そこで雲母さんは、おそらく坂田さんを電話で自然公園に呼びだして、携帯を返させようとした。雲母さんが、自然公園を選んだのは、わざわざ盗まれるほどのデータだったから、なるべく人目のつきにくい場所で返させたかった意図があったのかも。そして、坂田さんは呼び出しに応じて自然公園に行った。そこで何があったのか細かいことまでは分からないけど、でも、坂田さんはそこで雲母さんを火を付けて殺した。もしかしたら、ここで火を使ったのも流行りの放火魔に見せたかったからなのかもしれない。以上が、わたしの考える坂田さんの足取りだよ」

 私は、さっきから洋子の推理に舌を巻くばかりであった。見えている世界がどうやら私みたいな凡人とは違うみたいだ。

「それで、今までのは状況証拠からの推測だったけど、物的証拠も見つけたんだ。それを探すために、お昼休みに、えーと、坂田さんの靴箱をちょっとだけ調べてみたんだ。そしたら、靴の裏にウッドチップの破片が付いていたの」

 ここでちょっと洋子のセリフの歯切れが悪くなったのは、おそらく勝手に人のものを物色したからだろう。洋子は、よく刑事ドラマで見るようなポリ袋を掲げるようにして見せた。その中には、茶色の木片がいくつか入っていた。

「ウッドチップ?」

「あの、公園とか庭園によく敷き詰められている木材の破片ってあるよね? あれは、ウッドチップっていうの。それが、坂田さんの靴裏についてたから集めてみたんだ」

 私は、そのウッドチップとやらが入った袋を貰うと中身をじっと見てみた。よく見ると、そのウッドチップのいくつもの破片の中に黒い汚れのようなものが付いているのが見えた。しばらく見ていたが、ふとそれが何なのか、閃いた。

「ああ、これは、焦げだ」

「そう。明らかにそのウッドチップ、焦げ跡がついてる。こんな風に、焦げたウッドチップが付くのはあの火事の時間に公園にいたからじゃないかな」

 ここで洋子は大きくふうと一息ついた。

「わたしの推理はこれでお終いだよ。もし、間違っている点があったら教えて欲しいな」

 慣れない長い演説にどうやら疲れたらしい。私は、その洋子の推理を聞いて全く驚かされるばかりだった。些細な事柄から、犯人、そして憶測とはいえ動機まで考えてみせたのだ。

「すごいよ、洋子! 探偵なんか、向いているんじゃないかな」

 私は、思わずそう言っていた。洋子は少しうれしそうな顔をしたものの、すぐに真剣な表情に戻った。

「ありがとう。でもまだ、事件は終わってない。だから、これから坂田さんに会うつもりなの」

「坂田と? 会ってみて、どうするの?」

「会ってこの話をしてみて、もし本当に、坂田さんが犯人だとしたら自首して欲しい。それが一番いい気がする」

 それを聞いて私は、呆れを通りこしたため息が出た。とんだお節介焼きである。

「もしかして、これからすぐ会いに行こうとしてる?」

「うん。そのつもり」

 洋子は、なんてことないように頷いた。

「洋子、もしかして一人で聞くつもりだった? それなら私も連れて行ってよ」

「でも、もしかしたら危険かもしれないし」

「じゃあ尚更だよ」

 洋子を心配している部分もあるが、どうなるか好奇心がもたげてきたことも否めない。実際ここまで聞いてしまったのだ、その顛末が知りたい。洋子は悩んだように、またもうなり始めた。

「だからさお願い。私も連れて行って」

「うーん」

 しばらくの間洋子は、頭を抱えていたが、ふとその悩ましげな表情は一変した。そして洋子は、信じられないようなものを見たような顔をした。その視線は私に向けられていた。

「洋子?」

 いや違う、その視線は私に向けられたものじゃなかった。その後ろだ。

 私は、はっとして後ろを振り返った。

 いつの間にか、教室のドアにもたれかかるようにして件の話の中心こと坂田真理子はそこに立っていた。


5.ファイアスターター

「やあ。元気してる」

 坂田の一言目は予想に反して明るいものだった。

「ああ、えーと。」

 私は、それに対して空気の喘ぎのような音しか続けることができなかった。

「もしかして聞いてたかなあ」

 肝心の返答は、私は、しらを切るような、間抜けなものになってしまった。

「うん。聞いてたよ。噂をすれば何とやら」

「いやー私は、全然いま聞いたばっかだしそうかもってちょっと思ったりしたり。いや全然」

 私は支離滅裂な日本語で返すのに対して、坂田はあくまでも、普段と、いやいつにも増して明るい雰囲気をまとっていた。

「ああ、いいのいいの気にしてないし。だって私犯人だし」

 坂田は屈託のない笑みで、爆弾を投下した。その瞬間、私たちの間に静かなピンと張りつめた緊張が走った。

「うん。そう。私が犯人、兼世間の注目してる放火魔だよ。」

 そのまま、坂田はこちらに顔を向けたまま左手でその入り口のドアを閉じてしまった。


 がらがらがらがらがらがら


 張りつめた空気に扉の閉まる音がいつもより鮮明に聞こえる。

「私が燃やしてやったんだ」

 坂田は目を輝かせた。

「わたしが調べてたことにいつ気づいたの?」

 それに差し込むようにして、洋子が質問を挟んだ。

「ああ、えーと。偶然見かけちゃったんだよね。大神さんが、私の靴箱を覗いているところ。そこでピンときたの。ああ、大神さん私のこと疑ってるなあって。あとは、放課後、様子を探って尾行して見たらこの通りだよ。いやすごいよ。大神さん。推理もちゃんと聞いてたけど、ホントに探偵みたいだったよ」

「ありがとう。坂田さん」

 ここで洋子は律儀にお礼を挟んだ。そして、真っすぐ見据えると

「わたしの言いたいことは、聞いてたなら分かると思うけど、この場で、もう一度言うよ。坂田さん、お願いだから警察に自首して、罪を...」

「嫌だ」

「それでも」

「それでもってなんだよ。なんであんな奴殺したぐらいで!」

 洋子の提案は、坂田の激情にかき消されたしまった。ここで坂田は、大きなため息をつくと唐突に話を変えた。

「私ってさあ。今まで人生、特別なことなんて何にもないと思ってたんだ。親はどっちとも屑野郎で、生活はサイテーだった。それでも、私はやるだけやってみようと思ったんだ。高校卒業して、就職してみんなと同じように、それから上手くできるか分からないけど、とにかく普通を目指してたんだ」

 ここで、坂田の声色は暗くなった。

「でも、普通になるっていうには、今の時代、お金がかかりすぎる。家の蓄えも底を尽きてきたし、だから私ね、中学の頃から援助交際してたんだ。大人に体売って、お金もらってたの」

 それは、私にとって、遠い世界のような話に思えた。でも、坂田にとっては、現実だった。私は、そこで坂田から目をそらした。その現実を真っすぐ受け止められなかった。

 私達はその真に迫った話に、口を挟むことが到底できなくなった。

「結構私、上手くやってたんだよ。でもね、やっぱりそんな方法でお金貰うなんてずるだった。高校上がってから、すぐに雲母に証拠取られちゃってね」

 まいったな、といった感じの薄ら笑いを浮かべながら、坂田は話を続ける。

「ほらあいつって、不良だったから、今思えば生活圏が近かったのかもしれない。それで、私はそこから奴に脅されて怯える生活が始まった。彼女はお金に関しては要求しなかった。けど、それ以上にひどい要求が続いた。最初は、スーパーの万引きだったな。雲母ったら、ご丁寧に自分からお手本見せてくれたんだよ。次に窓ガラスを割れっていうのもあったな。そこまでは良かったんだけど、スリルを求める方向に飽きてからが酷かったなあ。ゴキブリを食べてみろ、とかゲテモノ系が続いてそれから...」

 ここで坂田は、急に我に返ったかのように口を閉ざした。

「そうそうこんな話したかったわけじゃないんだ。まあともかく、私は雲母のおもちゃにされてた。このことは、雲母と私以外知らなかったはず。おそらく恩田も知らなかった。そうそうあの子って本当にバカだよね」

 この後、話は急速に転調を迎えることとなる。

「でもね、そんな最低な日の中でちょうどひと月前ぐらいかな、私の目の前に悪魔が現れたんだ。」

 さっきの悲痛な声から、明るさがかすかに戻った声色へと変わった。そこから、坂田は理解しがたい奇妙な出来事の顛末に話を始めた。


 少女は、暗い顔で帰路へとついていた。街はすでに日が傾きかけていて、斜めから入る橙色の光線が、陰との境界線をさらに濃くしていた。

 少女の面持ちは暗い。住んでいるアパートが見えてきても、その顔を上げようとしなかった。そこは少女にとって決して安住の地などではないのだ。

「浮かない顔だね。」

 その時、少女は男の声に呼びかけられた。少女ははっとして顔を上げると、アパートの自宅のドアの前に、男かいることに気づいた。斜めから差している夕焼けは彼の足元を照らしていたが、逆にそのまぶしさが、彼の足から上を濃いシルエットにして隠していた。それは、少女にひどく現実離れしたような印象を与えた。

 そして、ふと思った。その男を何かに例えるならまさに悪魔じゃないか、と。

「死にそうな顔してるけど何か、悪いことでもあったのか?」

 その言葉をトリガーにして、少女は、いつのまにか男に自分の内情を、順序だてずに吐き出すように言っていた。少女は、ある種異常な状況でこの男に自分のことを告白をすることが、とても自然な流れのように思えていた。

「じゃあそのままでいいのか。やられっぱなしっていうのも悔しいだろ」

 男は聞き終わると、挑発するようなことを言った。

「しょうがないでしょ。私は特別でも、恵まれたわけでもない。きっと、どっちかあれば普通に暮らせたはずなんだ」

 少女は吐き出すように、うなった。なんだか、自分がひどい言い訳をしているみたいだ。

「あんた何しに来たの」

「俺はお前の言ってる"特別"の方を授けにきたんだ」

 少女の苛立ちにもさして動じず、男の方は剣呑な調子を崩さなかった。

「ホントにくれるの? その特別?」

「お前に素質があれば。お前は欲しいか"特別"が。もしかしたら、貰ってもそんなにいいもんじゃないかも知れないぜ」

「もちろん欲しい。それに、今だって最悪なんだ。これより最悪になること、きっとない」

 少女は、力強くそう宣言した。男はそれに満足したように頷くと、くるりと向きを変えアパートの廊下の奥へ、さらに影が濃くなる方へと歩みを進めた。

「ちょっと待ってよ。特別は?」

 少女は、その後を追おうとすると、急に膝の力が抜けていき、その場に倒れた。

「おめでとう。お前には、"日陰者"の資格があったみたいだ。でも、その特別は、残念ながらお前の望んだ普通へは導かないだろう」

 少女の眠気は急激に増幅していくようだった。その中でも、ただ一つ、少女には聞きたいことがあった。

「あんたは誰」

「俺はしがない悪魔だ。十字路で魂を売り渡すたぐいの」

 少女にとって予想通りの答えを、悪魔はささやいた。


 そして少女は夢を見た。それは、ひどく閑散とした田舎の田んぼのあぜ道のようだった。まるでこの世の終わりかのような夕焼けの道。そこを少女はひたすら走り続けていた。

 少女はそこで理解していた。目には見えずとも追ってくる何かの存在に。そして、頭の中でそれは一つの短い歌になって、反響し続けた。

 炎が追ってくる 炎が追ってくる いずれここは焼け畑 ならば追い越せ 追い抜け 何もかも燃やせ  


 坂田はその現実離れした悪魔との出会いを語り終えると、一息ついた。

「で、私はその夢で理解したんだ。そいつのいう"特別"って奴を」

 その言葉を放つと同時に、わざと見せつけるような動作で坂田は右手の人差し指を伸ばし、中指から小指までを折り曲げた。その右手はよく子供が手遊びでするような銃の形を取った。そして私達に顔を向けたまま、その右腕を横に伸ばして、教卓に置いてある花瓶に向けた。

「ばあん」

 そのセリフに呼応するように、指先から飛んだのは、歪んだ空気の塊だった。それは、素早く、歪んだ軌跡を空中に作りながら花瓶に生けてあった花へと着弾した。

 その瞬間、まさに奇術のような奇怪な現象が目の前ではじけた。花はその透明な空気の塊に触れたとたん、急激に燃え盛ったのだ! 

 花は急激に炎によって丸められ、黒く変色していった。それを、私と洋子は呆然と見ることが出来なかった。

 しかし、その奇妙な現象を見て、私は妙に納得したような、ある種の既視感を感じた。

 奇妙な夢を見て、おかしな現象を起こす。それは、私に起きたことと同じじゃないか。あの通学路で見た粘体もあれはきっと幻覚でもなんでもなかった。私はおそらく、坂田と同じような夢を見たんだ。そして坂田はあの夢を通して、あんなことが出来るようになったんだ。坂田の話に出てきたあの男は、それを"日陰者"って呼んでいたな。だったら、私にもその資格、能力があるはず...

 その思案は、ぱあんという破裂した音で断ち切られた。花瓶が花の熱に耐えきれなくなって割れた。

「ありゃ。失敗だ。花だけきれいに燃やそうとしたんだけど。やっぱりなれないね」

 坂田はぺダンティックな調子でうそぶいた。洋子を、ふと見る。が、さすがに自分のキャパシティを超えた話に流石についていけなくなったらしい。ただ戦慄の表情で固まったまま坂田を茫然と見ていた。そんなことはお構いなしに、坂田はしゃべり続ける。

「この力、名前を付けたんだ。ファイアスターターってね。かっこいいでしょ。これが私の心に火をつけてくれた...なんてね。...私最初すごい嬉しかったんだ。自分がまるで無敵になったみたいな気分だった。だからいっぱい燃やした。燃やすとみんな注目してくれた。それが、うれしくて、うれしくて」

 歌うような調子で坂田は言葉を紡いだ。

「でもそんなことはなかった。結局、こんな能力あっても結局は雲母には相変わらずゴミみたいな扱いはされるし、お金は底を尽きてくれるし。だからさ、結局根本を解決しようとしたんだ。つまり、雲母が撮った援助交際の写真のデータさえスマホから消せばいいってね。結局失敗しちゃったから、雲母の方を消すことになっちゃたけどね」

 く、く、くと煮えたぎるような笑いを起こすと次の瞬間、坂田は顔を一瞬ゆがめた。私は、そのしぐさに本能的に恐怖を感じ取っていた。

「それじゃ。そういえば遺言あるかな。ないよね。」

 急に、切り捨てるように、坂田は言った。坂田は、今度は素早い動作でさっきのように手で銃の形をとった。そしてその指の向かう先は...私だった。

 そうだ、こんなに話してタダで返してくれるわけがなかったんだ。

「ばあん」

 指の先から放たれた歪んだ空気は、私に向かって飛んだ。

 抵抗する間も、そう遺言を考える暇もなしに、それは私に着弾する。その数瞬後、体に激痛が走り始めた。  私の体は松明のように燃え盛った。目の前が赤い。痛い。痛い。

「うああああああ!」

 自分の声とは思えない反射的な、情けない叫びが、口から出た。

「和代!」

 洋子の叫びが遠くに聞こえた。

 熱が体を裂くような痛みを貫いた。予想をはるか超えた激痛だ。痛覚が体全体を巡って、思考が奔走した。

 熱い。痛い。苦しい。こんなの間違ってる。早く楽になりたい。そうだ、いっそこのまま死んでしまえば。

 そんな状況でかろうじで、最後に目に映った光景は、坂田が指先を洋子に向ける姿だった。

 それを最後に私は意識を手放した。



6.水墓の街、再び

 まず、雨を感じた。さっきまで感じていた強い苦痛は奇麗になくなっていた。懐かしいような感覚に誘われて、思わず目を開ける。

 私の目の前に、あの奇妙な夢、墓石の街が広がっていた。見渡すと、歪んだマンホールに十字路。どうやら前の夢で見たのと同じ場所にいるようだ。

 そうだ洋子は、洋子がこのままだと危ない。助けに行かなくちゃ。でも、どうやって。

 その時、右手に違和感を感じた。その感覚はまさに既視感があった。私は、右掌を顔の前に持ってきた。そして、"それ"は、粘体は右の掌から、まるで顔を出すようにぬめりと出てきた。もしかしたら私の、洋子を助けたい思いに呼応してきてくれたのかもしれない。

 "お久しぶり。しかし、こうして話すのは初めましてかな。和代"

 突然、自分の頭の中から反響したような、くぐもった、感情の読めない中性的な声が聞こえた。

 その声が、この粘体から出ているものだと、自分の感覚が理解していた。

 テレパシーのようなものなのだろうか。それにしても、名前呼びとは随分なれなれしい。

「お前、喋れたのか?」

 私は、まず率直な疑問をぶつけてみた。

 "ああ、和代と不完全ながら同化したことで、この空間でなら、こうやって声を届けることが出来るようになったのだ"

「不完全? どうしてそんなことに」

 "それは和代が拒んだからだ。結果的に不完全な力となってしまった"

「そりゃあんな強引に入られちゃあ誰だって拒むよ。」

 私は、ため息をついた。そう、今はこんなことを話したいわけじゃないんだ。

「そんなことはどうでもいいんだ。こっから戻る方法を教えて欲しい。洋子を、洋子を助けに行かなくちゃ」

 "戻ることはできる。が、そのままじゃまた燃やされるだけで終わりだ。その先はない"

「そんな」

 "ただし、そのままだったら、だ。私の言う通りにすれば、奴に打ち勝てるだろう。"

「分かった。じゃあ、その、私は一体どうすればいいんだ」

 "私を完全に開放してくれ。今までじゃ不完全なままなんだ。開放してくれれば、私は君の力になろう"

「それで完全に開放するにはどうすれば」

 "私を信じてくれ。私を受け入れてくれ。心の底から"

「胡散臭いなあ」

 そこで私はさっきの十字路の悪魔のことを思い出した。もしかしたら、私はもしかしたら、とんでもないものに力を明け渡そうとしているんじゃなかろうか。そんな疑問を感じたのか粘体は、

 "頼む。和代が洋子を助けたいように、私はお前を助けたいんだ"

 その声は、さっきまでとは違い、少し感情が揺れ動いたような、なぜだが本心のようにも聞こえた。私は、それで初めてこの正体不明の化け物に親近感を持った。

「分かった。私はお前を完全に受け入れてやる」


 "お前を受け入れる"

 その一言がトリガーとなって、私は現実へ引き戻された。

 それとともに、引き裂かれるような激痛が戻る。

 その痛みの中で、炎を通して指先を向ける坂田、そして怯える洋子が見えた。

 どうやらこっちでは、一秒も経っていなかったようだ。今も変わらず、坂田はその指銃の、引き金を引こうとしている。

 でも、さっきと違いもう無力じゃない。

 あの粘体が、私の中にいてくれるから。それは私の力になってくれる。

 理屈ではなく感覚で理解していた。

 あの夢は私の中なんだ。

 そして、今、あいつをあの夢から、私の中から、開放してやる。

 そう念じた瞬間。

 マンホールから水が噴き出すような、全身からあふれるような感覚が襲った。

 あの夢で見た、粘体の化け物が、現実へと、私の体からまるで鎖から外れたイヌのように、勢いよく飛び出したのだ。

 その勢いは、私を焦がしていた炎を引きはがし、まだ燃え残っていた部分は粘体がもつ湿気により、濡れ消え去った。 粘体は、ポップコーンがはじけるように飛散って、その破片は部屋の窓に、床に、そして天井へとくっついた。

 炎の引き裂かれるような痛みは消え、ずきずきと疼くような全身への痛みへと変わっていった。

 その異変に、坂田と洋子は呆然と私に顔を向けた。

「ああ。あんたも同じなのか。畜生。いつも人生は私の邪魔ばっかだなあ。」

 坂田は震えるように言うと、指で再び銃の構えを取ろうとした。

 私は、それを視認して防御の体制に入る。今や、あの粘体は完全に私のものなのだ。飛散った粘体を一つ一つに、自分に向かって集めるように思念した。すると、逆回しのコマのように、飛散って、ばらばらになった小さい粘体は、破片の一つは窓からずり落ち、一つは床を這い、一つは天井から落ちながら、私の足を伝って集まり始めた。私の意思がまるで指揮者のように反映されていく。そして、私の全身は粘体に包まれた。

 私を守る濡れた鎧だ。

 坂田は、指の構えが完了した。焦るように、指銃を発砲させる。

 その透明の塊は、私に、いや私を覆う粘体に着弾した。

 濡れた場所に火が付くわけない。じゅっと音がしただけだ。

 坂田は小さな悲鳴を上げると、背を向け教室のドアへと走り出した。逃げる気だ。

 急いで追いかけようとしたが、足に力が入らなかった。どうやら思っていたよりも自分は満身創痍らしい。

 畜生。

 それを逃がすまいと意識すると、粘体は、私の体を離れ床を這っていきながら、ぬらあと彼女と向かった。 しかし、さすがに念液体より逃げている彼女の方が早い。

 その手がドアに掛かり逃げられる、と思ったその時、後から洋子が両腕で彼女の腰を包むように抑えた。

「クソっ離せ!」

「サンキュー洋子!」

 ガラにも合わず、私は快哉を叫んでいた。おかげで粘体は、坂田に追いついた。

 そして、その足を包んだ。粘体に坂田を掴むようにと命令すると、彼女の足を吸着し始めた。坂田は足を必死に上げようとしたが、それも上手くいかないようだ。

 そのまま、足だけでなく体全体を包ませるよう命令したそのとき、坂田の不審な動きに気づいた。

「洋子! 離れて!」

 思わず、そう叫んだ。坂田は、首だけを後ろに振り向かせ、銃の形にした右手を、左の腰から回し、洋子を撃とうとしていた。

 洋子は、それに気づいた。手を離し、すぐ逃げようとしたが、

「きゃあ!」

 ここで洋子は転んでしまった。手を離した勢いで、重心が後ろに行き過ぎたのだろう。

 洋子は、坂田の方を向いて尻もちをつく。

 そんなこともお構いなしに、坂田の指先は、無慈悲に、ピタリと洋子を捉えた。

 粘体は、坂田の体の肩までを覆っていた。最優先で手を包むように粘体へと命令する。

 だが、間に合わない! 

「やめろおおお!」

 私は思わず叫んでいた。

 坂田は歪んだ、笑みを引きつらせた。

 ついにそのまま、炎の引き金を引くかに思われた。

 思わず目をつぶった。

 洋子の焼かれている姿なんて私は見たくなかった。

 耳に、いつまでたっても燃えているような音は届かない。

 何も起こっていないことを悟って、私はゆっくりと目を開いてみた。

 引き金は引かれなかった。坂田の手は震えたまま、粘体に包まれていた。

 さっきのは勘違いで、本当は間に合っていたのか? すぐにそうではないことを、私は坂田の表情で悟っていた。

 彼女の笑みは消え、こわばったようなものへと変わっていた。そして、坂田は疲れたような表情でドアの横にあった、掃除用具の棚に背なかを預けた。

 そんな横顔へと、私は疑問を尋ねた。

「どうして撃たなかったんだ?」

「目だよ」

「目?」

「撃とうとしたとき、大神の目を見ちゃったんだ。真っすぐな目だった。それで、全部馬鹿らしくなっちゃった。そうだ、私は...」

 あーあ、と坂田は付け加えたきり黙ってしまった。その粘体だらけの左腕の上腕部を目元を隠すように抑えた。たぶん泣いていたのかもしれない。

 そうして、しばらく沈黙が教室を覆った。

「ふひっ、ふっははははっははははは」

 突然、坂田が笑い始めた。

「何がそんなおかしい。」

 私の疑問に、坂田は泣き笑いのような声で答える。

「ああ。いやあ。今までやろうとしたけど、できなかったことが一つだけあって」

 その次のセリフは、恨み、妬みをこめた怨嗟であった。

「今ようやくできるなあって」

「坂田さん!」

 洋子は何かを感じ取ったようで叫んだ。が、その声は、次の瞬間、坂田の体が燃え上がったことでかき消えた。それはまるで坂田の体全体一瞬で炎へと置換されたような、見事な燃え方だ。

 そのまま、私達はまるで置いてかれたようにして、彼女が焼かれるのを呆然と見ているしかなかった。坂田だったそれは、みるみるうちに一瞬で燃え尽き、ロッカーの前に大きな焦げ跡とそしてわずかな灰を残すばかりになった。

 まるで今ここに、坂田などという存在がいなかったかのように。


 なぜ念液体が指先をふさいだのに坂田は燃えたのか。その疑問は、後から考えてみたが、おそらくこういうことではないだろうか。あの坂田のファイアスターターとやらは、透明な可燃性物質を指先を向けることで、指向性を持たせて打ち出すことができる。ということは、指向性を持たせずに使えば、自分自身にぶつかり燃えるのではないか。それに気づいていたら、もしかしたら...いや結局どうにでもできなかっただろう。


 坂田が燃え尽きたのを見終えた後、どちらも彫像のように動けなかった。

 洋子は、ふさぎ込んだような表情だった。結局、洋子のことだから、きっと坂田に同情していたのだろう。それは、私も同じだ。坂田は、普通になりたかっただけなのだ。

「和代。大丈夫そう?」

 先に口を開いたのは、洋子の方だった。

「うん。なんとかね。」

 なるべく大丈夫という声を掛けてやる。

「警察はどうする?」

 ああ、そのことを失念していた。

「どうしようか。正直に言っても信じてもらないだろうし」

「そうだね」

「ああ、とりあえず警察には適当にごまかすよ。洋子もそうするでしょ?」

「わたしは、うん、正直に言おうと思う」

 実に洋子らしい、馬鹿正直で実直な解答だった。

「それは」

 それは、危険すぎる。まだ日陰者やあの悪魔と名乗る男についても何もわかっちゃいないじゃないか。でも、それを指摘するだけの体力は残っていなかった。

 私の思考力はどんどん低下し、闇の中へ意識が向いてきたようだ。

 そうなると、馬鹿らしくて、どうでもいいことを思いついた。いったん警察の問題は先送りにして、私は洋子に声を掛ける。

「そういえばさ」

 洋子によく見えるように掌に粘体をぷくっと出して見せた。

「"これ"の名前どうする? よく超能力には名前がつきものでしょ。坂田もファイアスターターとかいう大層な名前をつけていたし」

「うーん」

 洋子はそれから少しの間、真剣に悩んだようだが、ふと顔をあげた。

「水餅っていうのはどうかな? かわいいと思わない?」

「水餅? 水餅かあ。」

 そう言われてみると、可愛いかどうかは別として、しっくり来るような気がしてきた。自分の掌のそれに再び目を向けてみる。

「水餅、そう水餅いいね」

 噛みしめるようにそう呟いてみると、急に力が抜けた。今までの緊張が緩んでしまったようだ。暗闇へと引きずられるような感覚の中、私は教室の窓から空を見ていた。外は晴れ晴れとした快晴で太陽がまぶしかったが、右の空の向こう側に暗い黙示禄的に蠢いた雲も見えた。そして最後に、その窓の手前に、洋子が見えた。

 そうして今度こそ、私は安心して意識を手放した。


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